第5話 成田空港、境界線の向こう側
成田エクスプレスが第1ターミナル駅に滑り込み、重いドアが開いた瞬間、生温い空気が流れ込んできた。
新宿の湿り気を帯びた喧騒とは違う、どこか無機質で、それでいて高揚感を含んだ空港独特の空気。エスカレーターを上がり、出発ロビーへと足を踏み入れたとき、私はようやく自分が『境界線』に立っていることを実感した。
電光掲示板には、ロンドン、パリ、ニューヨーク、シドニー ――世界中の都市名が、無数の瞬きと共に並んでいる。
数日前までの私なら、この掲示板を見ても『いつか健一と行く新婚旅行の候補地』としてしか眺められなかっただろう。けれど今の私にとって、これらはすべて、私が私を取り戻すための、自由な選択肢だった。
新婚旅行は、年末に互いの仕事が落ち着いてから行こうと話していた。まだ具体的な予約をしていなかったのが、せめてもの救いだ。もし予約まで済ませていたら、今ごろ少なくとも20%のキャンセル料に泣かされていただろう。不幸中の幸い、という言葉がこれほど皮肉に響くことはない。
『Scoot TR875便』二十一時十五分発、シンガポール・チャンギ国際空港行き。
航空会社の自動チェックイン機にパスポートをかざす。
読み取りの赤い光が私の顔をなぞり、短い電子音と共に一枚の航空券が吐き出された。
「……私、本当に行くんだ」
指先に触れる感熱紙の感触が、現実味を帯びて迫ってくる。
あと二週間で二十九歳。キャリアを捨て、婚約を破棄し、親の期待を裏切り、スマホの番号さえ捨てた女。
客観的に見れば、私は紛れもなく『人生の遭難者』だ。けれど、保安検査場へと続く列に並ぶ私の背筋は、ウェディングドレスのフィッティングのときよりもずっと真っ直ぐに伸びていた。
手荷物検査を終え、出国審査の自動ゲートを通り抜ける。
パスポートにスタンプは押されないけれど、私の心の中には、はっきりと重厚な刻印が打たれた音がした。
ここから先は、日本の『常識』も、家族の『外聞』も、健一の『言い訳』も届かない聖域だ。
搭乗までの待ち時間、私は空港内のカフェで、真理子さんから貰った封筒を開けた。中には、新天地での数日の食事に十分すぎるほどの日本円と、短い手紙が入っていた。
『すみれ。パタンナーの仕事は、余白をどう作るかで決まるって言っていたわね。あなたの人生にも、今はたっぷりの余白が必要よ。思う存分、真っ白な時間を楽しんできなさい』
その言葉を読んだ瞬間、不意に視界が歪んだ。
裏切られてから泣き続けて、もう枯れたと思っていた涙が、再び温かな雫となって頬を伝い、真理子さんの端正な文字を濡らしていく。悲しいのではない。ただ、ようやく「自分を許してもいいのだ」と思えたことへの、震えるような安堵だった。
搭乗ゲートから、最初の目的地へと向かう機体が見える。
私は涙を拭い、真理子さんの手紙を指先でなぞった。
出国ゲートをくぐった瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。
あんなに私を追い詰めていた、健一の言い訳も、両親の世間体を重んじる説教も、今はもう厚いゲートの向こう側だ。
搭乗ゲートの窓からは、青空を背負って滑走路に鎮座する巨大な機体が見える。あの翼が、私をここではないどこかへ運んでくれる。
「……さあ、行くわよ、すみれ」
誰にともなく呟き、私は機内へと続くボーディングブリッジを渡り始めた。一歩踏み出すごとに、身体が数キロずつ軽くなっていくような感覚。背負っているリュックの重みこそが、今の私の全責任であり、全財産だ。
機内の座席に深く身体を沈め、窓の外を見つめる。
向かう先は「《《シンガポール》》」。きっと何か新しいことが、私を待っていてくれる。
シートベルトを締め、目を閉じる。エンジンの咆哮が足元から伝わってきた。
根拠のない予感だけを抱えて、私は日本を「撤退」する。
浮気騒動から今日まで、眠れず、食べられず、笑うことさえ忘れていた二週間。極限まで張り詰めていた緊張の糸が、機内の轟音に包まれることで緩んでいく。
機体が安定し、ベルト着用サインが消える頃には、私は抗えないほどの深い眠りに落ちていた。
ふと目が覚めると、フライト時間はすでに四時間を過ぎていた。
シンガポールまであと三時間。空港で買ったチョコを咀嚼しながら、ふと、振り切ったはずの健一に思いが飛ぶ。あんな男、もう過去にするって決めたのに。
(……まだ、健一のことを考えてしまうのか)
自分でも呆れたような、自嘲気味な苦笑が浮かんだ。
初めての海外旅行は、大学の卒業旅行で健一と行ったシンガポールだった。
なぜ今回、心機一転の再出発の地に、あえて健一との思い出が詰まった場所を選んだのか……。
大学生の頃、ふたりで訪れた場所。まだ何も知らず、ただ純粋に将来を信じて笑い合っていた、恋人としてのいちばん温かな記憶が眠る街。
どこか別の場所へ逃げるのではなく、あえて一番思い出の深い場所へもう一度足を運んで、私の足で歩き直し、私ひとりの新しい思い出として上書きしたかったのだと思う。
多くの文化が交差し、凄まじい速度で更新され続けるあの熱帯の都市なら、私のちっぽけな過去など一瞬で呑み込み、風化させてくれる気がしたのだ。この旅に計画なんていらない。どこで何を食べるのか、誰と出会い、何に心を動かされるのか――。
二週間ほどの地獄のような日々の中で「どこへ行こう」と考えたとき、真っ先に浮かんだのは、かつて二人で歩いた、あの懐かしく、治安のいい、楽しかったシンガポールの街並みだったのだ。
まだ、健一の裏切りについて落ち着いて考える余裕はない。
あの日、頭の中が真っ白になったパニックは、容赦なく私の身体を蝕んだ。この二週間で落ちた体重は三キロ近い。
結婚式で最高に美しい自分を見せたくて、あんなに必死にダイエットに励んだあの十一ヶ月でさえ、わずか二キロしか減らなかったというのに。
食べ物さえ受け付けないほどの絶望は、こんなにも簡単に、残酷なほど私を削ぎ落としていく。笑えない皮肉だ。
窓ガラスに映り込んだのは、潤いを失い、目の下に深い隈を湛えた一人の女。
ただただ疲れ果てただけの「もうすぐ二十九歳の女」の成れの果てに過ぎなかった。
今もまだ、感情の起伏は激しい。
健一への煮えくり返るような怒りと、底の見えない悲しみが交互に私を襲う。
「私の何が悪かったのか」という終わりのない自問自答。そして、ふとした瞬間に頭をよぎる恐ろしい考え。
(……本当は、あのまま気づかないふりをして、結婚するべきだったんだろうか)
思い出の地を無意識に渡航先に選んだのは、きっと、確認したかったのだ。
あの日、あの場所で笑っていた自分を上書きし、今回の私の決断は間違っていなかったのだと、自分自身の目で確かめるために。
根拠のない予感と、わずかな後悔、そして消えない怒り。それらすべてを抱えたまま、機体は南へと、私の知らない色の空を目指して進んでいく。
次に目を開けたとき、そこには、私の知らない色の空が広がっているはずだ。
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