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夏休みの終わり、日常の始まり

二学期最初の朝は、あっけなく訪れた。


窓の外はもう、夏休みの終わりを惜しむみたいに蝉が鳴いている。

でも、空気はどこか違った。


同じ朝の光のはずなのに、布団の温度が昨日までより少しだけ名残惜しい。


翔は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。


(……学校か)


その二文字を頭の中で転がしただけで、胃の奥がきゅっと縮む。


夏休みは、終わった。

海の匂いも、夕焼けも、BBQの肉の音も。

全部、もう昨日の話だ。

一昨日の夜――菜々と一緒に寝たことも、まだ胸の奥で熱を持っているのに。


それでも朝は容赦なく来て、制服は当たり前みたいにそこにあって、時間割は再び世界を支配する。


スマホのアラームが鳴る。


翔はため息をついて、ようやく起き上がった。

顔を洗って歯を磨いて、制服に袖を通す。

鏡の中の自分は、夏休みの間に少しだけ変わった気がした。


いや、変わったのは顔じゃない。


感情の置き場所が――微妙に変わってしまった。


(……考えてもしゃーない)


翔は頭を振って、部屋を出る。



台所から、母の声がした。


「おはよー。今日は早いね」


「おはよ。……学校」


「そりゃそうだよね」


母はいつもの笑顔で、いつもの朝ごはんを用意している。

その“いつも”が、妙にありがたい。


「菜々ちゃんも、もう準備してるよ」


「……うん」


食卓に座ると、菜々がちょうど顔を出した。


「おはようございます、翔さん」


「おはよ」


菜々は制服をきっちり着て、髪も整えている。

夏休みの間のラフな格好が嘘みたいだ。

でも、目だけは少し柔らかい。


一昨日の夜の余韻が、二人の間に薄く残っている。

言葉にしないまま残っている、それが逆に落ち着かない。


母が二人を見比べて、にこにこする。


「ほら、食べて行きな。遅れるよ」


「いただきます」


菜々の声が丁寧に響く。


「いただきます」


翔も続ける。


味噌汁の湯気が上がる。

焼き魚の匂いがする。

それだけで、“日常”の輪郭がはっきりしていく。


(……戻ったんだな)


翔は思う。

夏休みという異世界から、現実というフィールドに。



家を出ると、朝の空気はまだ少しだけ夏の湿気を残していた。

太陽は明るいのに、どこか秋の気配が混じっている。

季節は、確実に進んでいる。


「……二学期ですね」


隣を歩く菜々が、ぽつりと呟いた。


「だな」


「嫌ですか?」


「……嫌」


即答すると、菜々がくすっと笑った。


「私もです」


そう言って、菜々はほんの少しだけ翔に近づく。

肩が触れそうで触れない距離。

昨日までなら気づかなかった。


けど今は――その距離が妙に意識に引っかかる。


(……一昨日のせいだ)


翔は自分の思考を恨むみたいに、前を見た。


学校へ向かう道は、同じ制服の波で溢れていた。

久しぶりの登校。

みんな、眠そうだったり、だるそうだったり、逆にテンションが高かったり。

夏休みが終わった現実を、各自の方法で受け止めている。


教門が見えた。


そこをくぐった瞬間、世界が“学校モード”に切り替わる。

廊下の匂い。

上履きの音。

遠くで聞こえる先生の声。

全部が、二学期の始まりを告げている。



教室に入った瞬間、空気が弾けた。


「うおおお!久しぶり!」

「焼けた!?焼けた!?」

「宿題終わった?」

「それ聞くな!!」


あちこちで声が飛び交い、机が鳴り、笑いが重なる。


二学期初日。


教室は軽いカオスになっていた。

翔が席に向かうと、背後からいきなり肩を掴まれた。


「翔!!」


響の声がでかい。


「うるさ……そして近い」


「お前、海の時より日焼けしてねぇ?」


「してるわけねぇだろ、あの日だけで」


「いや、あの日のテンションで焼けた可能性ある」


「まぁ、説はあるか?」


結衣が横から入ってくる。


「響、朝から飛ばしすぎ。バカなの?」


「褒めすぎんな!」


「褒めてない!」


夏樹は席に鞄を置きながら、にこにこしていた。


「みんな元気だね〜。眠くないの?」


「眠いに決まってんだろ」


翔が言うと、結衣も即頷く。


「眠い。死ぬ」


「死ぬな」


柊がいつもの淡々とした声で言いながら、席に座る。


「二学期初日から死んでたら、体育祭まで持たない」


「体育祭とかもっと無理だわ」


結衣が机に突っ伏す。

菜々は、職員室に用事があったらしく少し遅れて教室に入り、自然に翔の近くへ来た。


「おはようございます」


「おはよ」


夏樹が菜々に手を振る。


「菜々ちゃん、おはよ〜」


「おはようございます、夏樹さん」


その挨拶だけで、いつもの空気が整う。


夏樹は場を回すのが上手い。

結衣は突っ込む。

響はうるさい。

柊は冷静。

菜々は丁寧で、でも少しずつ距離が変わってきている。

翔はそれをぼんやり眺めながら思う。


(……夏休み、ほんとに終わったんだな)


教室の騒がしさが、逆に現実味を増す。


「てか陽菜さんどうしてんだろ」


結衣がふと思い出したように言う。


「3年だし、別教室だろ」


翔が返す。


「あー……そりゃそうか」


「でも部活で会うでしょ」


夏樹が言うと、菜々が頷いた。


「ですね。今日、部活ありますよね」


「始業式の日って昼までだからな」


柊が短く言う。

響が腕を組んで偉そうに言った。


「二学期初日から部活とか、先生容赦ねぇよな」


「お前が言うな。毎日部活の奴が」


「いや俺は“精神”が疲れてんだよ」


「知らん」


翔は笑いそうになって、でも喉の奥で止めた。


(……平和だ)


今この瞬間だけは。



始業式は、あっさり終わった。


校長の話は長い。

暑い体育館はしんどい。

周りの生徒は半分寝てる。

でも、そんな“いつもの”しんどさすら、久しぶりだと変に懐かしい。


昼で解散。


だけど翔たちは、そのまま部活へ向かった。


二学期初日の午後。


グラウンドへ続く道は、まだ夏の熱を残している。

陸上部の部室前には、すでに何人かの姿があった。


「翔くーん!」


最初に気づいたのは、小和だった。

相変わらず元気いっぱいで、勢いよく手を振ってくる。


「久しぶり!ってほどでもないけど!」


「小和さん、声でかすぎです」


翔が言うと、小和は胸を張る。


「二学期初日なんだからテンション上げてこ!」


「上げすぎですよ」


「そこが小和のいいところだろ」


剛が笑いながら割って入る。


「よっ、1年!夏休みどうだった!」


「それ聞く前に剛先輩も声量落として下さい」


夏樹が苦笑しながら言う。


「みんな元気ですね〜」


「元気しか取り柄ねぇからな!」


剛が即答する。


部室の奥では、部長の海斗が準備をしていた。

真面目そうなのに明るくて、場を自然とまとめるタイプ。


そのすぐ近くに、無言でストレッチをしている日向の姿。

必要なことしか話さないけれど、そこにいるだけで空気が落ち着く。


そして――


副部長の桜陽菜がいた。

淡々とした表情。

いつも通りの立ち位置。

だけど、翔と目が合うと、ほんの一瞬だけ視線が柔らぐ。


「……久しぶり」


小さな声。


「……部活では、お久しぶりです」


翔は短く返す。

一昨日の海の記憶が、ほんの一瞬だけよぎるが、

陽菜はそれ以上踏み込まず、すぐに全体を見る側に戻った。


「よし、集まったな!」


海斗が手を叩く。


「二学期一発目だし、今日は軽めに確認からな!」


「おー!」


声が返る。


――その時。


部室の入り口が、ほんの少しだけざわついた。


入ってきたのは、長谷川蓮と井上颯太。

謹慎明け。

久しぶりの姿。

悪びれた様子はない。


ただ、静かにそこに立っているだけなのに、空気がわずかに張る。


そして――


翔を見る視線。

刺すような、明確な敵意。


(……やっぱり)


翔は無意識に、奥歯を噛んだ。

海斗は表情を変えずに言う。


「二人とも、今日は余計なことすんなよ。

 二学期は仕切り直しだ」


「……はい」


短い返事。


練習は、何事もなく進んだ。

アップ、流し、フォーム確認。

久しぶりの部活に身体は重いが、感覚は悪くない。


蓮と颯太は絡んでこない。

ただ、翔の視界の端で、ずっと視線だけが刺さっている。


それが、逆に不気味だった。



部活自体は、何事もなく終わった。

アップ、流し、フォーム確認。

久しぶりの感覚に身体が重い。


夏休みの間、走ってはいたけど、部活の空気は別物だ。


陽菜はいつも通り、全体を見て、必要な指示だけ飛ばす。

海斗は明るくまとめる。

日向は静かに走る。

小和と剛は騒ぎながらも真面目にやる。


蓮と颯太は――


余計な絡みはしてこない。

ただ、翔の視界の端にいるだけで、ずっと気配が刺さる。


練習が終わり、解散。


帰り道。


自然に、翔たちは固まって歩き始めた。

翔、響、柊、結衣、夏樹、菜々。

いつもの6人。


夕方の空。

少しだけ涼しい風。

なのに、胸の奥が重い。


「……あいつら、絶対俺の事恨んでるよなぁ」


翔がぽつりと言う。

しかし、響が即答する。


「あのカス?逆恨みすご」


「響くん、言葉」


夏樹が苦笑いする。


「でもまあ、言いたいことは分かる」


結衣が腕を組んだまま言った。


「次また同じようなことしたら、流石に退学でしょ」


「だといいけどな」


翔が言うと、柊が淡々と返す。


「下手に手出ししてこねーよ、もう」


その言葉は冷静で、理屈としては正しい。


でも。


「……でも、怖いよね」


夏樹が小さく言った。


声が、ほんの少しだけ震えている。


「うん……」


菜々も頷く。


「また、あんなことあったら……」


結衣が一瞬だけ黙って、拳を握った。


「……今度は私も、逃げない」


その言葉は強いのに、どこか寂しい。

響が笑って、空気を軽くしようとする。


「大丈夫だって!俺と柊がいるし!」


「お前、フラグ立てんな」


柊が即ツッコむ。


「フラグじゃねぇよ、宣言だよ!」


「宣言がフラグなんだよ」


「難しいこと言うな!」


笑いが起きる。


でも、完全には空気が戻らない。

翔はその微妙な沈黙の残り香を感じながら思う。


(……二学期、始まったな)


夏休みの終わりは、ただ寂しいだけじゃない。

その先には、現実がある。

そして現実には――不穏がある。


家が近づく。

いつもの解散ポイント。


「じゃ、また明日な」


響が言う。


「明日から授業とか地獄」


結衣がぼそっと言う。


「地獄でも生きろ」


柊が淡々と返す。


夏樹が笑って手を振る。


「またね〜」


菜々も小さく頭を下げる。


「また明日」


それぞれが、それぞれの帰路につく。

翔は最後に、少しだけ立ち止まった。


(……頼むから、何も起きるな)


心の中でそう願って、家の玄関を開けた。



夕飯を済ませ、風呂に入り、部屋に戻る。

布団に寝転ぶと、天井がやけに近い。


昼の体育館、グラウンド、夕方の帰り道。

全部がまだ身体に残っている。


でも、疲れているのに眠れない。

頭の中が、静かにざわついている。

原因は分かっていた。


父親。

まだ終わっていない影。

あの男が、またどこかで息をしている事実。


そして――


蓮と颯太。

戻ってきた二人の視線。

何も言わないのに、刺さる気配。


(……考えてもしょうがない)


翔は自分に言い聞かせる。

今夜、ここでどれだけ考えても、何も変わらない。


明日が来る。

二学期が進む。


その中で、何かが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。


翔は目を閉じた。


蝉の声。

虫の声。

窓の外の街灯の光。

夏休みは終わった。


でも、夏はまだ終わりきっていない。

その中途半端な季節の感じが、余計に落ち着かない。


(……寝よ)


翔は深呼吸して、身体の力を抜く。

少しずつ、意識が沈んでいく。


――二学期初日は、何も起きなかった。


ただ、それだけだ。

ただそれだけなのに、

翔の胸の奥には、薄い不安が残ったままだった。


その夜は、まだ静かだった。

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