夏休みの終わり、日常の始まり
二学期最初の朝は、あっけなく訪れた。
窓の外はもう、夏休みの終わりを惜しむみたいに蝉が鳴いている。
でも、空気はどこか違った。
同じ朝の光のはずなのに、布団の温度が昨日までより少しだけ名残惜しい。
翔は天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
(……学校か)
その二文字を頭の中で転がしただけで、胃の奥がきゅっと縮む。
夏休みは、終わった。
海の匂いも、夕焼けも、BBQの肉の音も。
全部、もう昨日の話だ。
一昨日の夜――菜々と一緒に寝たことも、まだ胸の奥で熱を持っているのに。
それでも朝は容赦なく来て、制服は当たり前みたいにそこにあって、時間割は再び世界を支配する。
スマホのアラームが鳴る。
翔はため息をついて、ようやく起き上がった。
顔を洗って歯を磨いて、制服に袖を通す。
鏡の中の自分は、夏休みの間に少しだけ変わった気がした。
いや、変わったのは顔じゃない。
感情の置き場所が――微妙に変わってしまった。
(……考えてもしゃーない)
翔は頭を振って、部屋を出る。
◆
台所から、母の声がした。
「おはよー。今日は早いね」
「おはよ。……学校」
「そりゃそうだよね」
母はいつもの笑顔で、いつもの朝ごはんを用意している。
その“いつも”が、妙にありがたい。
「菜々ちゃんも、もう準備してるよ」
「……うん」
食卓に座ると、菜々がちょうど顔を出した。
「おはようございます、翔さん」
「おはよ」
菜々は制服をきっちり着て、髪も整えている。
夏休みの間のラフな格好が嘘みたいだ。
でも、目だけは少し柔らかい。
一昨日の夜の余韻が、二人の間に薄く残っている。
言葉にしないまま残っている、それが逆に落ち着かない。
母が二人を見比べて、にこにこする。
「ほら、食べて行きな。遅れるよ」
「いただきます」
菜々の声が丁寧に響く。
「いただきます」
翔も続ける。
味噌汁の湯気が上がる。
焼き魚の匂いがする。
それだけで、“日常”の輪郭がはっきりしていく。
(……戻ったんだな)
翔は思う。
夏休みという異世界から、現実というフィールドに。
◆
家を出ると、朝の空気はまだ少しだけ夏の湿気を残していた。
太陽は明るいのに、どこか秋の気配が混じっている。
季節は、確実に進んでいる。
「……二学期ですね」
隣を歩く菜々が、ぽつりと呟いた。
「だな」
「嫌ですか?」
「……嫌」
即答すると、菜々がくすっと笑った。
「私もです」
そう言って、菜々はほんの少しだけ翔に近づく。
肩が触れそうで触れない距離。
昨日までなら気づかなかった。
けど今は――その距離が妙に意識に引っかかる。
(……一昨日のせいだ)
翔は自分の思考を恨むみたいに、前を見た。
学校へ向かう道は、同じ制服の波で溢れていた。
久しぶりの登校。
みんな、眠そうだったり、だるそうだったり、逆にテンションが高かったり。
夏休みが終わった現実を、各自の方法で受け止めている。
教門が見えた。
そこをくぐった瞬間、世界が“学校モード”に切り替わる。
廊下の匂い。
上履きの音。
遠くで聞こえる先生の声。
全部が、二学期の始まりを告げている。
◆
教室に入った瞬間、空気が弾けた。
「うおおお!久しぶり!」
「焼けた!?焼けた!?」
「宿題終わった?」
「それ聞くな!!」
あちこちで声が飛び交い、机が鳴り、笑いが重なる。
二学期初日。
教室は軽いカオスになっていた。
翔が席に向かうと、背後からいきなり肩を掴まれた。
「翔!!」
響の声がでかい。
「うるさ……そして近い」
「お前、海の時より日焼けしてねぇ?」
「してるわけねぇだろ、あの日だけで」
「いや、あの日のテンションで焼けた可能性ある」
「まぁ、説はあるか?」
結衣が横から入ってくる。
「響、朝から飛ばしすぎ。バカなの?」
「褒めすぎんな!」
「褒めてない!」
夏樹は席に鞄を置きながら、にこにこしていた。
「みんな元気だね〜。眠くないの?」
「眠いに決まってんだろ」
翔が言うと、結衣も即頷く。
「眠い。死ぬ」
「死ぬな」
柊がいつもの淡々とした声で言いながら、席に座る。
「二学期初日から死んでたら、体育祭まで持たない」
「体育祭とかもっと無理だわ」
結衣が机に突っ伏す。
菜々は、職員室に用事があったらしく少し遅れて教室に入り、自然に翔の近くへ来た。
「おはようございます」
「おはよ」
夏樹が菜々に手を振る。
「菜々ちゃん、おはよ〜」
「おはようございます、夏樹さん」
その挨拶だけで、いつもの空気が整う。
夏樹は場を回すのが上手い。
結衣は突っ込む。
響はうるさい。
柊は冷静。
菜々は丁寧で、でも少しずつ距離が変わってきている。
翔はそれをぼんやり眺めながら思う。
(……夏休み、ほんとに終わったんだな)
教室の騒がしさが、逆に現実味を増す。
「てか陽菜さんどうしてんだろ」
結衣がふと思い出したように言う。
「3年だし、別教室だろ」
翔が返す。
「あー……そりゃそうか」
「でも部活で会うでしょ」
夏樹が言うと、菜々が頷いた。
「ですね。今日、部活ありますよね」
「始業式の日って昼までだからな」
柊が短く言う。
響が腕を組んで偉そうに言った。
「二学期初日から部活とか、先生容赦ねぇよな」
「お前が言うな。毎日部活の奴が」
「いや俺は“精神”が疲れてんだよ」
「知らん」
翔は笑いそうになって、でも喉の奥で止めた。
(……平和だ)
今この瞬間だけは。
◆
始業式は、あっさり終わった。
校長の話は長い。
暑い体育館はしんどい。
周りの生徒は半分寝てる。
でも、そんな“いつもの”しんどさすら、久しぶりだと変に懐かしい。
昼で解散。
だけど翔たちは、そのまま部活へ向かった。
二学期初日の午後。
グラウンドへ続く道は、まだ夏の熱を残している。
陸上部の部室前には、すでに何人かの姿があった。
「翔くーん!」
最初に気づいたのは、小和だった。
相変わらず元気いっぱいで、勢いよく手を振ってくる。
「久しぶり!ってほどでもないけど!」
「小和さん、声でかすぎです」
翔が言うと、小和は胸を張る。
「二学期初日なんだからテンション上げてこ!」
「上げすぎですよ」
「そこが小和のいいところだろ」
剛が笑いながら割って入る。
「よっ、1年!夏休みどうだった!」
「それ聞く前に剛先輩も声量落として下さい」
夏樹が苦笑しながら言う。
「みんな元気ですね〜」
「元気しか取り柄ねぇからな!」
剛が即答する。
部室の奥では、部長の海斗が準備をしていた。
真面目そうなのに明るくて、場を自然とまとめるタイプ。
そのすぐ近くに、無言でストレッチをしている日向の姿。
必要なことしか話さないけれど、そこにいるだけで空気が落ち着く。
そして――
副部長の桜陽菜がいた。
淡々とした表情。
いつも通りの立ち位置。
だけど、翔と目が合うと、ほんの一瞬だけ視線が柔らぐ。
「……久しぶり」
小さな声。
「……部活では、お久しぶりです」
翔は短く返す。
一昨日の海の記憶が、ほんの一瞬だけよぎるが、
陽菜はそれ以上踏み込まず、すぐに全体を見る側に戻った。
「よし、集まったな!」
海斗が手を叩く。
「二学期一発目だし、今日は軽めに確認からな!」
「おー!」
声が返る。
――その時。
部室の入り口が、ほんの少しだけざわついた。
入ってきたのは、長谷川蓮と井上颯太。
謹慎明け。
久しぶりの姿。
悪びれた様子はない。
ただ、静かにそこに立っているだけなのに、空気がわずかに張る。
そして――
翔を見る視線。
刺すような、明確な敵意。
(……やっぱり)
翔は無意識に、奥歯を噛んだ。
海斗は表情を変えずに言う。
「二人とも、今日は余計なことすんなよ。
二学期は仕切り直しだ」
「……はい」
短い返事。
練習は、何事もなく進んだ。
アップ、流し、フォーム確認。
久しぶりの部活に身体は重いが、感覚は悪くない。
蓮と颯太は絡んでこない。
ただ、翔の視界の端で、ずっと視線だけが刺さっている。
それが、逆に不気味だった。
◆
部活自体は、何事もなく終わった。
アップ、流し、フォーム確認。
久しぶりの感覚に身体が重い。
夏休みの間、走ってはいたけど、部活の空気は別物だ。
陽菜はいつも通り、全体を見て、必要な指示だけ飛ばす。
海斗は明るくまとめる。
日向は静かに走る。
小和と剛は騒ぎながらも真面目にやる。
蓮と颯太は――
余計な絡みはしてこない。
ただ、翔の視界の端にいるだけで、ずっと気配が刺さる。
練習が終わり、解散。
帰り道。
自然に、翔たちは固まって歩き始めた。
翔、響、柊、結衣、夏樹、菜々。
いつもの6人。
夕方の空。
少しだけ涼しい風。
なのに、胸の奥が重い。
「……あいつら、絶対俺の事恨んでるよなぁ」
翔がぽつりと言う。
しかし、響が即答する。
「あのカス?逆恨みすご」
「響くん、言葉」
夏樹が苦笑いする。
「でもまあ、言いたいことは分かる」
結衣が腕を組んだまま言った。
「次また同じようなことしたら、流石に退学でしょ」
「だといいけどな」
翔が言うと、柊が淡々と返す。
「下手に手出ししてこねーよ、もう」
その言葉は冷静で、理屈としては正しい。
でも。
「……でも、怖いよね」
夏樹が小さく言った。
声が、ほんの少しだけ震えている。
「うん……」
菜々も頷く。
「また、あんなことあったら……」
結衣が一瞬だけ黙って、拳を握った。
「……今度は私も、逃げない」
その言葉は強いのに、どこか寂しい。
響が笑って、空気を軽くしようとする。
「大丈夫だって!俺と柊がいるし!」
「お前、フラグ立てんな」
柊が即ツッコむ。
「フラグじゃねぇよ、宣言だよ!」
「宣言がフラグなんだよ」
「難しいこと言うな!」
笑いが起きる。
でも、完全には空気が戻らない。
翔はその微妙な沈黙の残り香を感じながら思う。
(……二学期、始まったな)
夏休みの終わりは、ただ寂しいだけじゃない。
その先には、現実がある。
そして現実には――不穏がある。
家が近づく。
いつもの解散ポイント。
「じゃ、また明日な」
響が言う。
「明日から授業とか地獄」
結衣がぼそっと言う。
「地獄でも生きろ」
柊が淡々と返す。
夏樹が笑って手を振る。
「またね〜」
菜々も小さく頭を下げる。
「また明日」
それぞれが、それぞれの帰路につく。
翔は最後に、少しだけ立ち止まった。
(……頼むから、何も起きるな)
心の中でそう願って、家の玄関を開けた。
◆
夕飯を済ませ、風呂に入り、部屋に戻る。
布団に寝転ぶと、天井がやけに近い。
昼の体育館、グラウンド、夕方の帰り道。
全部がまだ身体に残っている。
でも、疲れているのに眠れない。
頭の中が、静かにざわついている。
原因は分かっていた。
父親。
まだ終わっていない影。
あの男が、またどこかで息をしている事実。
そして――
蓮と颯太。
戻ってきた二人の視線。
何も言わないのに、刺さる気配。
(……考えてもしょうがない)
翔は自分に言い聞かせる。
今夜、ここでどれだけ考えても、何も変わらない。
明日が来る。
二学期が進む。
その中で、何かが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。
翔は目を閉じた。
蝉の声。
虫の声。
窓の外の街灯の光。
夏休みは終わった。
でも、夏はまだ終わりきっていない。
その中途半端な季節の感じが、余計に落ち着かない。
(……寝よ)
翔は深呼吸して、身体の力を抜く。
少しずつ、意識が沈んでいく。
――二学期初日は、何も起きなかった。
ただ、それだけだ。
ただそれだけなのに、
翔の胸の奥には、薄い不安が残ったままだった。
その夜は、まだ静かだった。




