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夏休み最終日

海水浴場を出た頃には、空がもう夕方の色になっていた。


昼間の青は薄く溶けて、オレンジと紫がゆっくり混ざり合っていく。


潮の匂いがまだ髪に残っていて、砂の感触が足裏に貼りついている気がした。


さっきまで、あれだけ騒いでいたのに。

今は電車の揺れが妙に心地よくて、窓に映る自分たちの顔が、少しだけ大人びて見える。


眠気とも違う。

疲労とも違う。


ただ、満たされた後にだけ残る、ふわっとした空白。


「……はぁ」


翔は息を吐いて、窓の外を見た。


夕焼けが街を染めていく。

今日の海の光が、まだ目の奥に残っている気がした。


(楽しかったな)


脳内で反芻するだけで、胸が少し温かくなる。


色々あった。

笑って、走って、食って、騒いで、最後には一瞬、背中が凍るような空気も流れた。


――でも結局、全部ひっくるめて「良い日」だったと思えるのが不思議だった。


◆


駅から歩いて、翔の家の前に着く頃には、空はもう薄暗くなり始めていた。


街灯がひとつ、またひとつと灯り、家々の窓に明かりが増える。


玄関前。


ここが、今日の解散地点になった。


「じゃ、ここで解散な!」


響がいつもの声量で言う。


「近所迷惑」


結衣が即座にツッコむ。


「いいだろ、今日くらい!」


「今日くらい、って毎日言ってない?」


「細けぇなぁ!」


響が笑うと、夏樹もつられて笑った。


「ほんと、今日一日濃かったね〜」


「濃すぎたなぁ」


結衣は腕を組みながら、だけど口元は緩んでいる。


菜々はタオルバッグを抱えながら、少しだけ名残惜しそうに周りを見渡した。


「……楽しかったですね」


「だな」


翔が短く返すと、菜々の表情が少し柔らかくなる。


その隣で、陽菜がサングラスを外し、静かに髪を耳にかけた。

夕焼けの光が、横顔の輪郭をやけに綺麗に縁取っていた。


(……やっぱ、綺麗だなこの人)


翔が思っていると、陽菜がこちらを見て、小さく笑った。


「じゃあ、私はここで」


「え、陽菜さん一人で大丈夫?」


夏樹が心配そうに言う。


「大丈夫。言うても近いから」


淡々とした返答。

でも、その声には今日一日の柔らかさが混じっているように聞こえた。


「また部活でお願いします」


結衣が言うと、陽菜は少しだけ首を傾げた。


「……学校、もうすぐだね」


「うわ、その言い方やめて下さい。現実すぎます」


結衣が露骨に嫌そうな顔をする。


「明後日からだぞ。死ぬ〜」


響がわざとらしく倒れ込みそうになる。


「死ぬな」


柊が淡々と止める。

いつも通りのやり取り。

それだけで、安心する。


「じゃ、またな」


響が拳を軽く突き出し、翔がそれに合わせる。


「おう」


柊も黙って拳を合わせて、短く頷いた。


夏樹と結衣は二人で帰路につく。

陽菜は一人で、夕焼けの道をゆっくり歩き出す。

響と柊も、なんとなく並んで歩き出した。


そして――


翔と菜々は、家の中へ。

玄関の鍵を開ける音が、やけに現実っぽく響いた。


◆ side:夏樹・結衣


夏樹と結衣は、夕焼けの帰り道を並んで歩いていた。


海水浴場の喧騒が嘘みたいに、住宅街は静かで、蝉の声が余計に耳に入る。


さっきまで肌にまとわりついていた潮風が、今はもう薄くなっていて、代わりに夜の匂いが近づいてくる。


「は〜……楽しかった」


結衣が素直に言う。


「ほんとだね〜」


夏樹も頷く。


「めっちゃ疲れた。明後日から学校とか無理すぎるよ」


「マジでそれな……宿題もやってない」


「私も……」


二人で笑う。

笑いながら、同時に「終わっちゃうんだな」と思う。


夏の後半。

一生続いて欲しいとさえ思った夏休みが、確実に終わりに向かっている。


結衣がぽつりと言った。


「……てかさ」


「ん?」


「陽菜さん、バチバチに可愛かったな」


夏樹は即答する。


「ほんとそれ……負けを認めざるを得ない。あれは」


「だよな……チートすぎ」


「大人っぽいのに、変に距離感近いし」


「あれはズルい」


結衣は頬を膨らませる。


でも、その不満の奥にあるのは、ただの“可愛さへの嫉妬”だけじゃない。


夏樹もそれを分かっていて、わざと明るく言葉を続けた。


「でも、結衣も今日すごかったじゃん」


「は?どこが」


「水かけて沈められてたとこ」


「それは恥だろ!」


「でも必死な結衣、可愛かったよ」


「……は!?なに言って――」


結衣が顔を赤くして否定しようとする。

その瞬間、二人の頭に同じ映像がよぎった。


――翔の上裸。


普段の制服やジャージじゃない。

海の光の中で、無防備に笑って走る姿。


(……初めて見た)


結衣は咳払いをして、視線を逸らす。


「……まあ、今日の翔、ちょっとだけかっこよかった」


「うん」


夏樹も小さく頷く。

声が、少しだけ柔らかくなる。


「……ちょっとだけ、ね」


「ちょっとだけ」


同じ言葉を繰り返しながら、二人とも自分の心を誤魔化しているのが分かる。


でも、それでいいと思った。


十字路が見えてきた。

いつもの分かれ道。


「じゃあ、ここで」


夏樹が言う。


「うん。また学校で」


結衣が言う。


「……宿題、やっとけよ」


「結衣ちゃんもだよ」


夏樹は笑って手を振った。

結衣も軽く手を上げて応える。

それぞれの家へ向かう背中が、夕焼けの中に溶けていく。


二人とも、歩きながら口元を抑えた。

にやけを誤魔化すために。


◆ side:陽菜


陽菜は一人で歩いていた。


街灯が灯り始めた道。

遠くから聞こえるテレビの音。

家の前を通り過ぎるたび、夕飯の匂いが漂ってくる。

なのに、陽菜の頭の中はずっと、海のままだった。


(楽しかったな)


波の音。

砂の熱。

みんなの笑い声。


そして――


(……翔、かっこよかった)


二の腕を掴まれた瞬間の怖さ。

空気が凍った感覚。

その次の瞬間、迷いなく動いた翔。


「誰の女に手出してんすか?」


あの言葉の破壊力を、陽菜は今さら思い出してしまって、歩きながら頬が熱くなる。


(……私、ほんとに)


自分がこんなにも感情に振り回されるなんて、少し前まで想像できなかった。


好きだと伝えてから、色んな感情が止まらない。

嬉しいとか、恥ずかしいとか、寂しいとか、期待とか。


「待つ」って決めたはずなのに、待っている間にどんどん心が増えていく。


陽菜は小さく息を吐いた。


(私、変わってきてる)


悪い変化じゃない。

むしろ、ずっと眠っていた何かが、少しずつ動き出しているみたいだった。


街灯の下で立ち止まり、陽菜は空を見上げた。

夕焼けの名残が、まだ薄く残っている。


(……私の卒業までには)


答えを、聞かないと。


逃げるつもりはない。

ただ、決めたい。

自分の気持ちが、どこへ向かうのかを。


陽菜は軽く笑って、また歩き出した。


◆ side:響・柊


響と柊は、帰り道の途中でコンビニに寄った。


「アイス食うぞ!」


響が言い、柊は「好きにしろ」と言う。


結局、二人ともアイスを買って、コンビニ前の段差に座った。


夕方の風が、汗を冷ましていく。

アイスの冷たさが、頭の熱も少し下げる。


「にしても、たのしかったな」


響が素直に言う。


「だな」


柊も頷いた。


「つい俺もハメ外したわ」


「だよな!お前が泳いでるの見て、俺びびったもん」


「泳ぐのは別に普通だろ」


「“普通”のテンションじゃなかっただろ」


響が笑う。


一拍置いて、響がアイスを咥えたまま言った。


「……ってか、翔が先に手出したのが一番驚きだわ」


柊も同意する。


「分かる。いつもは俺かお前が先に出る。成長したのか、悪い方向に進んでるのか」


「どっちだろうな」


響は空を見上げた。


「まぁいいんじゃね。俺らくらいの年はヤンチャが一番だ」


「はは。違いねぇ」


柊は笑いかけて――そこで、少しだけ表情を変えた。


「……けど響」


「ん?」


「分かってるよな」


響の笑いが、ほんの少しだけ消える。


「……あぁ。翔のことだろ」


柊はアイスの棒を指で回しながら言った。


「あいつ、ああ見えて今相当追い詰められてる」


響は短く頷いた。


「気張って見とくよ」


柊は少し黙ってから、低い声で続ける。


「……それに俺は、だいぶ前の翔の父親の件、ずっと気がかりだ」


その言葉で、忙しなくバタつかせていた響の足が止まった。


「……あいつね」


「俺はしばらくそっち探ってみる」


柊の目が、いつもの無機質さじゃなく、妙に鋭い。

響は頷いた。


「おっけい。翔は任せろ」


柊が立ち上がる。


「じゃ、また学校でな」


「おう」


拳を合わせる。

いつもの軽い挨拶みたいに見えるのに、そこには小さな決意が混ざっていた。


二人はそれぞれ別の方向へ歩き出した。


◆ side:翔・菜々


玄関を開けると、家の中は温かかった。


「おかえり」


母の声が、台所から聞こえる。


「ただいま」


翔が言うと、母は笑った。


「たのしかった?」


「……めちゃくちゃ」


その一言だけで、母は満足そうに頷く。


「菜々ちゃんも楽しめた?」


菜々は丁寧に頭を下げた。


「ただいまです、お母様。はい!とても充実してました!」


元気のいい返事。


母は「よかった」と言って、出来上がった料理をテーブルに並べる。


いつもの夕飯。

なのに、今日だけは、少しだけ“特別”に感じた。


「海どうだったの?」


母が聞く。


「結衣ちゃんとか夏樹ちゃんもいた?」


「いた。響と柊も陽菜先輩も」


翔が言うと、母が目を丸くした。


「あらあら、賑やかね」


菜々が笑う。


「はい!すごく賑やかでした!」


テーブルの上には、たわいない会話が流れる。

今日の出来事を少しだけ話して、笑って、箸が進む。

翔は思う。


(……こういうの、なかったな)


一度目の人生。


高校生の夏休みなんて、ただ過ぎていくだけだった。

思い出になる出来事も、誰かと笑った記憶も、ほとんど残っていない。


でも今は――


海に行って、騒いで、帰ってきて、家で飯を食っている。


それだけなのに、胸が満たされる。


食後、翔は洗い物を手伝い、風呂に入って部屋に戻った。

菜々も片付けを手伝ってから風呂に入り、しばらくして部屋に入ってくる。

髪が少し濡れていて、シャンプーの匂いがする。


「お疲れ様です、翔さん」


菜々が微笑む。


「お疲れ」


「楽しかったですね」


「あぁ。相当楽しかった」


翔は布団に座りながら、ぽつりと続けた。


「……いい夏休みだった」


菜々は少しだけ目を丸くして、嬉しそうに笑う。


「はい。……本当に」


沈黙が落ちる。

その沈黙が気まずくないことが、少し不思議だった。


菜々が言う。


「明後日からまた学校ですし、頑張りましょうね」


「そうだな……はー、嫌だな」


「ふふ。嫌ですね」


二人は小さく笑った。

菜々はいつも通りベッドへ。

翔は敷布団へ。

電気を消す。


部屋が暗くなると、外の虫の声が少し大きく聞こえた。


海の音じゃない。

波の音でもない。

でも、夏の夜の音。


しばらく沈黙が続く。


翔は目を閉じて、今日の海を思い出していた。


――波。

――夕焼け。

――笑い声。

――そして、陽菜の声。


「私、翔の女!」


背中が冷えた視線。

結衣と夏樹と菜々の殺意。

響と柊の「ご愁傷さま」。


(……平穏はまだまだ先だな)


そんなことを考えながら、翔は小さく息を吐く。


その時。

隣のベッドから、菜々の声がした。


「翔さん」


「ん?」


暗闇の中で、少しだけ震える声。


「……一緒に寝て……くれませんか?」


翔は一瞬、息を止めた。


「……え?」


返事が、間抜けに聞こえるくらい、頭が追いつかなかった。


沈黙。

虫の声。

菜々の呼吸。


暗闇の中で、菜々が小さく続ける。


「今日……すごく楽しくて」


「うん」


「……でも、終わっちゃうのが、ちょっとだけ怖くて」


翔は言葉を失った。

菜々は、普段みたいに強く言わない。

弱さを見せないように、必死に抑えている声だった。


「だから……今だけ」


「……」


翔は天井を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


夏休みは、終わる。

明後日から学校が始まる。

日常が戻る。

でも、今日の余韻は、まだ胸に残っている。


翔は静かに答えた。


「……分かった」


その返事に、菜々の呼吸がふっと緩むのが分かった。


「……ありがとうございます」


「……ただし」


翔が続ける。


「寝相悪いぞ俺」


「知ってます」


菜々が小さく笑う。


翔は起き上がり、ベッドに近づいた。

菜々が少しだけ体をずらす。

そこに、翔がそっと横になる。


暗闇の中で、菜々が小さく呟いた。


「……翔さん、あったかい」


「……お前の方があったかいだろ」


「ふふ」


その笑いが、妙に胸に沁みた。

翔は目を閉じる。

今日の海の音はもう聞こえない。


でも、確かに残っている。

波が引いたあとに、砂浜に残る小さな貝殻みたいに。


――この夏休みは、きっと忘れない。


そう思いながら、翔は静かに眠りに落ちていった。

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