波が引いたあとで
海に入ってから、しばらく。
七人は、特別な目的もなく、ただ波に身を任せていた。
「おい翔!まだ沖行けるぞ!」
響が無駄に沖を指さす。
胸まで水に浸かりながら、やたらとテンションが高い。
「いや、そこそこ深いって」
「大丈夫だって!ほら!」
そう言って、さらに先へ進もうとする。
「……あいつ、毎回こうだな」
翔が呆れると、
「今に始まったことじゃない」
と、隣で柊が淡々と返した。
その柊は、少しだけ距離を取ると、静かに海へ身体を預けた。
次の瞬間、無駄のない動きで泳ぎ出す。
「……え」
翔は思わず声を漏らす。
「柊、めっちゃ本気じゃん」
「珍しくない?」
結衣が、腰まで浸かりながら言う。
「たまには俺もはっちゃけたいって言ってたもんな」
柊は振り返りもせず、淡々と前へ進む。
波を切る動きがやけに綺麗で、ただの運動神経の良さじゃないのが分かる。
「……あいつ、普通にすげぇんだよなぁ」
響も、沖で足を止めて感心していた。
少し離れた場所。
「えいっ!」
結衣が、両手で掬った海水を思い切り陽菜にかける。
「……やったな」
陽菜は一瞬だけ目を細めると、次の瞬間には反撃に出た。
掬う水の量が、明らかに違う。
「ちょ、待っ——!」
結衣の声が裏返る。
「待たない」
陽菜は淡々と言い切り、さらに追い打ち。
「沈む沈む沈む!!」
「油断するから」
結衣は結局、肩まで沈められ、ばしゃばしゃと暴れる羽目になった。
「くっそ……!」
「はいはい、まだまだ先輩には勝てないね結衣」
翔は少し離れたところから、その光景を眺める。
(……結衣はまだしも、陽菜さんも意外と子供っぽいんだよな)
波打ち際。
夏樹と菜々は、しゃがみ込み、海の中をじっと覗いていた。
「見て、ちっちゃい魚」
「……本当ですね」
指を差した先で、銀色の影が素早く泳ぐ。
「こういうの、久しぶりかも」
「夏って感じがしますね」
波が寄せては返すたび、足首を冷たい水が撫でていく。
二人の声は小さく、穏やかで、波音に溶けていった。
翔は少し後ろで立ち止まり、その全てを視界に収めていた。
響の無駄な元気。
柊の珍しい全力。
結衣と陽菜の小競り合い。
夏樹と菜々の、ゆったりした時間。
(……平和だな)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
誰も焦っていない。
誰も、何かを考えすぎていない。
ただ、今を楽しんでいる。
(このまま、ずっと続けばいいのに)
そんなことを考えている自分に、翔は少しだけ驚いた。
◆
「腹減った!!」
沈黙をぶち破ったのは、やっぱり響だった。
波の音と蝉の声の中で、その一言だけがやけに大きく響く。
「……いきなりだな」
翔が呆れたように言うと、
「いきなりじゃねぇ!ずっとだ!」
響は胸を張る。
「さっきから顔がずっと“肉くいてぇ”って感じだったもんね」
結衣が冷めた目で言う。
「だって泳いだら腹減るだろ!」
「泳いだ距離より、はしゃいだ距離の方が長そうだけど」
「細かいこと言うな!」
柊が一度、海から上がり、砂を払う。
「……まあ、そろそろ昼でいいだろ」
その一言で、全員の意識が一気に“食”に傾いた。
「BBQだよね?」
夏樹が目を輝かせる。
「最初からそのつもり」
陽菜は涼しい顔で頷いた。
「場所、混む前に行った方がいいかも」
「流石、把握が早いですね」
菜々が感心したように言う。
◆
一度、全員が波打ち際から離れる。
濡れた身体に、風が当たって少しだけ寒い。
「……タオル取ってくる」
翔が言うと、
「どうぞ」
すぐに、菜々がタオルを差し出した。
「ありがとう」
「いえ」
短いやり取り。
結衣は、髪をかき上げながら砂を落とす。
「はー、やっぱ海疲れるな」
「でも楽しいでしょ」
夏樹が笑う。
「……まあ、うん。相当楽しい」
そう言いながら、結衣の口元も緩んでいた。
響はというと、すでに上着を羽織りながら騒いでいる。
「なあ翔、焼く係やるよな?」
「いや、勝手に決めんな」
「絶対向いてるって!」
「根拠が雑すぎる」
「柊もやるだろ?」
突然話を振られた柊は、一拍置いてから答える。
「……焼くのは嫌いじゃない」
「ほら!」
「なんでそこでドヤるんだよ」
陽菜は全体を見回しながら、静かに動いていた。
「先に海の家行って、席取ってくるね」
「え、いいんですか?」
菜々が言う。
「任せて」
そう言って、歩き出す背中には迷いがない。
(……ほんと、自然にまとめ役だな)
翔はその背中を見て、内心で感心する。
◆
全員が軽く体を拭き、服を羽織る。
濡れた水着の感触が、少しだけ現実に戻してくる。
さっきまで、何も考えずに笑っていたのに、 服を着るだけで、空気が変わるのが不思議だった。
「……なんか、一気にお腹空いたね」
夏樹がぽつりと言う。
「分かる、もう完全に脳がご飯だよね」
結衣が笑う。
「だってもういい匂いしてきたし」
海の家の方から、微かに漂ってくる肉の焼ける匂い。
それだけで、胃が反応する。
「急ごう」
菜々が言う。
「翔さん、柊さん、焼き担当ですよね?」
「え、もう決定?」
「異論は?」
「……ない」
柊が即答した。
「ちょろいな」
「うるさい」
響が肩を回しながら言う。
「俺と結衣は盛り上げ担当な!」
「勝手に決めんな!」
「でも否定はしないんだ?」
「……しない」
陽菜が少し振り返る。
「じゃ、役割分担も決まったし」
その声に、全員の視線が集まる。
「行こっか」
「「「「「「おーー!」」」」」」
◆
砂浜を歩きながら、七人は横並びになる。
誰が先頭とか、誰が中心とか、 そういうのは特にない。
ただ、自然に。
翔はその真ん中で歩きながら思った。
(……なんか、いいな)
特別なイベントなのに、 特別なことをしている感じがしない。
でも、それが心地いい。
「なあ翔」
響が横から肩を組んでくる。
「肉、俺の分多めな」
「知らん」
「ケチ!」
「自分で焼け」
「冷たい男だなぁ!」
そのやり取りに、笑い声が重なる。
(……平和すぎる)
この時はまだ、 誰も気づいていなかった。
この“緩んだ空気”が、 このあと、少しだけ壊れることを。
◆
海の家の一角に設置されたBBQスペースは、思ったよりも広かった。
鉄板と網、簡易テーブルに折りたたみ椅子。
潮風に混じって、すでに他の客が焼いているであろう、肉の焼ける匂いが漂っている。
「よし、場所確保完了」
陽菜がそう言って振り返る。
「早かったですね」
菜々が言うと、
「混む前に動けたからね」
当然、という顔で答えた。
「じゃ、焼くか」
翔が袖をまくり、トングを手に取る。
「俺もやる」
柊も自然に隣に立った。
二人とも無言で火加減を確認し、炭の位置を調整する。
言葉は少ないが、動きは無駄がない。
「……お前ら、妙に息合うよな」
響が感心したように言う。
「黙ってた方が集中できる」
「それな」
短いやり取りだけで、肉が網の上に並べられていく。
ジュウ、と音を立てて脂が落ちる。
「うわ、いい音!」
結衣が身を乗り出す。
「まだ!まだ裏返すな!」
翔が制止する。
「分かってるよ!」
「嘘つけ!顔にもう食べたいって書いてるぞ!」
◆
一方その頃。
「はい、皆箸と皿置いとくね」
陽菜は淡々と、だが手際よく準備を進めていた。
人数分の皿と箸を並べ、紙ナプキンも忘れない。
「助かります」
菜々が言うと、
「こういうの、嫌いじゃないの」
少しだけ、楽しそうに笑った。
その隣で。
「これくらいでいいかな?」
夏樹は野菜を切りながら、首を傾げる。
「ちょっと大きいかも?」
陽菜が覗き込んで言う。
「え、ほんとですか?」
「でも食べ応えありそうだからあり」
菜々はクーラーボックスから飲み物を取り出しながら言った。
「皆さん、何飲みますか?」
「コーラ!」
「スポドリ!」
「お茶で」
「はいはい、こう言うの個性出ますよね」
自然に全員分が配られていく。
(……なんだこれ)
翔は肉を焼きながら、ふと思った。
(めちゃくちゃ、役割分担できてるな)
誰かが仕切ったわけでもない。
でも、全員が自分の“居場所”を理解している。
◆
「そろそろいいぞ」
柊が言う。
翔が肉をひっくり返すと、香ばしい匂いが一気に広がった。
「うおおお!」
響が立ち上がる。
「それ俺の!」
「まだだ!」
「早くしろ!」
「うるさい!」
結衣が響の頭を軽く叩く。
「落ち着け。ガキか」
「BBQはテンション上がるだろ!」
「確かに、間違いない」
ようやく一皿目が完成する。
「はい、まずこれ」
翔が差し出す。
「おお……」
全員が自然と集まった。
「いただきまーす」
一斉に箸が伸びる。
「……うま」
結衣が呟く。
「だろ」
翔が少しだけ得意そうに言う。
「柊の火加減が完璧だからな」
「俺の功績だな」
「自分で言う?」
「事実だ」
◆
そこからは、もう完全にワチャワチャだった。
「肉追加!」
「野菜も食え!」
「それ俺の!」
「まだ焼けてない!」
「焦げてる!」
「それがうまい!」
響が騒ぎ、
結衣がツッコミ、
夏樹が笑い、
菜々が飲み物を補充し、
陽菜が空いた皿を片付ける。
柊と翔は黙々と焼き続ける。
時々、目が合って、
「次、鶏」
「おけ」
それだけで通じる。
(……なんだこの安心感)
翔は思う。
海で遊んで、
笑って、
一緒に飯を食って。
ただそれだけなのに、
胸の奥が満たされていく。
「翔」
ふと、陽菜が声をかけてきた。
「どうしました?」
「ありがとう」
「……何がです?」
「みんな、楽しそう」
一瞬、言葉に詰まる。
「……たまたまっすよ」
照れ隠しにそう返すと、
「ふふ」
陽菜は何も言わず、また片付けに戻った。
(……平和だな)
翔は、鉄板の上の肉を見つめながら思った。
今この瞬間だけは、
何も起きなくていい。
このまま、
ただ夏が続けばいい――
そんなことを考えてしまうくらいには。
◆
BBQは、いい感じに盛り上がっていた。
肉はほぼ食い尽くされ、
鉄板の上では野菜とソーセージが静かに焼かれている。
全員、椅子に腰掛けたり、砂浜に座ったりしながら、
それぞれのペースで話していた。
「もう食えねぇ……」
響が腹をさすりながら仰向けに倒れる。
「響、さっきまで“次まだ?”って言ってたじゃん」
結衣が呆れたように言う。
「限界突破すると人は急に止まるんだよ……」
「謎理論出すな」
柊は紙皿に残った肉を一つ摘みながら、周囲を軽く見渡した。
(……ん?)
視線の先。
少し離れた場所から、こちらをちらちら見ている三人組。
金髪、派手なサングラス、無駄に焼けた肌。
いかにも、という雰囲気。
「……アイツらこっち来るな」
ぽつりと柊が呟く。
「ん?」
翔が顔を上げた瞬間。
「ねえねえ〜」
軽いノリの声が飛んできた。
「そこのお姉さんたち、めっちゃ可愛くない?」
三人組が、距離を詰めてきた。
結衣が即座に眉をひそめる。
「……う〜わ、出た」
「来たな、面倒事」
響は立ち上がり、柊も自然に一歩前に出る。
「どっから来たの〜?地元?」
「今ヒマ?一緒に飲まね?」
軽い口調。
断られる前提すらない、雑な距離感。
「いや、間に合ってます」
響が笑顔のまま遮る。
「俺らで楽しんでるんで」
「えー、そんなこと言わずさ。人数増えた方が楽しいって!」
柊が低い声で言った。
「空気、読め」
一瞬、相手が怯む。
……が。
「はは、ノリ悪〜」
金髪の一人が、視線をずらした。
そして――
陽菜の方へ。
「ねえ、そこのお姉さん」
陽菜は一瞬、きょとんとした顔をした。
「……私?」
「そうそう。大人っぽくて超タイプ」
距離が、近い。
「ちょっと一緒に話さない?」
その瞬間。
一人の男が、陽菜の二の腕を掴んだ。
「――ッ」
空気が、凍る。
「……手」
低く、翔の声。
「離してもらえます?」
男が振り返る。
「は?何?」
次の瞬間だった。
翔の拳が、思い切り男の頬を打ち抜いた。
鈍い音。
男が砂浜に転がる。
「誰の女に手出してんすか?」
静かだけど、はっきりした声。
周囲が、一斉に静まった。
柊が、少しだけ口角を上げる。
「あら。いつもはこーいう時、俺が先に手出すのに珍しいな翔」
響もニヤッとする。
「よっしゃ、一回出しちゃったらもうやるしかないな」
男たちは一瞬、固まった後、完全にビビった表情になる。
「……や、やめとこ」
「ヤバいってこいつら」
「行くぞ!」
三人は、転げるようにその場を離れていった。
残ったのは、波の音と、ざわつく心臓の鼓動。
◆
「……」
翔は、はっとして振り返る。
「……あ、いや、今のは……」
言い訳しようとした、その時。
「……私」
陽菜が、赤面したまま言った。
「私、翔の女!」
声は小さいのに、破壊力は抜群だった。
「え!?」
「ちが、いや、今のは咄嗟の――」
その瞬間。
背中が、ぞわっと冷える。
ゆっくり振り返ると――
結衣、夏樹、菜々。
三人とも、笑っていない。
「……翔くん」
「説明、してもらおうか」
「今の発言、聞き逃せませんよ?」
(……終わった)
柊は肩をすくめる。
「ご愁傷さま」
響は肉を一つ摘みながら言った。
「でもまあ、かっこよかったぞ」
「それな」
二人は何事もなかったかのように、席に戻る。
翔だけが、取り残された。
「……あの」
「翔くん?」
「翔さん?」
「翔?」
三方向から迫る圧。
波の音が、やけに遠い。
(……平和は、ここまでか)
空は相変わらず青く、
海は変わらず輝いているのに。
◆
波が引くみたいに、重たい空気が流れていた。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、
BBQスペースには波の音だけが響いている。
翔は正座に近い姿勢で座らされ、
目の前には結衣、夏樹、菜々。
「……で?」
結衣が腕を組んだまま言う。
「誰の女、だって?」
「いや、あれは、その……」
「咄嗟?」
「はい……」
「咄嗟で“誰の女”は出ませんよね?」
菜々の声は穏やかだが、刃物みたいに鋭い。
「翔くん……」
夏樹が困ったように笑う。
「私たちの前で、そういう言い方するのは、ちょっとズルいかなって」
「……ごめん」
翔は素直に頭を下げた。
その様子を、少し離れた場所で見ていた陽菜は、
申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうな顔で口を開く。
「……私が言わせたみたいなものだし」
「陽菜さんは悪くないです」
菜々がすぐに言う。
「掴まれたんですから」
「うん」
結衣も頷く。
「むしろ、翔が殴るの遅いくらい」
「え?」
「……いや、今のは違うな」
結衣はそっぽを向いた。
その空気を、響がぶち壊す。
「はいはいはい!」
手を叩きながら立ち上がる。
「もういいだろ!終わった話だって!海だぞ!肉冷めてんぞ!」
「響、雑すぎ」
柊が呆れたように言うが、
鉄板の上を見て、静かに言い足す。
「……でも、焦げるのは事実だな。それに翔のおかげで助かったのも事実だ」
その一言で、少しだけ空気が緩んだ。
「……じゃあ」
翔が恐る恐る言う。
「続き、焼きます?」
「焼け焼け」
結衣がため息混じりに言う。
「逃げるなよ、あとでまた話すから」
「はい……」
◆
少し時間が経つと、
BBQスペースにはまた、ゆるい賑わいが戻ってきていた。
肉が焼ける音。 ジュースの缶が開く音。 どこかぎこちないけど、確かに平和な時間。
「ほら、焦げる前に取れ」
柊が皿に肉を乗せて差し出す。
「サンキュー」
翔は受け取りながら、小さく息を吐いた。
(……助かった)
「翔」
隣で陽菜が、声を落として言う。
「さっきのこと……ありがとう」
「……当然です」
陽菜は一瞬驚いた顔をして、
それから、ふっと微笑んだ。
「うん。……嬉しかった」
それだけ言って、
何事もなかったみたいに、野菜を取りに戻っていく。
その背中を見ながら、翔は思った。
(……今日、色々ありすぎだろ)
「翔くん」
夏樹が、いつもより少し近い距離で言う。
「さっきのは……びっくりしたけど」
「うん」
「でも、ちゃんと守ってくれるんだなって思った」
「……」
「それだけ」
そう言って、夏樹は笑った。
「はいはいはい、そこで良い雰囲気出すな〜」
響が茶化す。
「まだ昼だぞ〜?」
「うるさい」
結衣が即座にツッコむ。
菜々は飲み物を配りながら、ほっとしたように言った。
「……結果的に、怪我人が出なくてよかったです」
「ほんとそれ」
柊が頷く。
「海で喧嘩は、面倒だからな」
「お前が言うと説得力あるな」
響が笑う。
◆
やがて、鉄板の上はほぼ空になり、
BBQは自然とお開きに近づいていた。
太陽は少し傾き、
砂浜の色も、昼とは違う表情を見せ始めている。
「……楽しかったな」
誰かが、ぽつりと呟いた。
翔は海を見ながら、静かに頷いた。
色々あった。 正直、疲れた。
でも――
全員が、ここにいる。 笑って、食べて、同じ時間を過ごしている。
(……これでいい)
夏の一日は、まだ終わらない。
けれど、
この海の記憶は、きっと残る。
波の音に混じって、
七人分の笑い声が、ゆっくりと溶けていった。




