第二章 第三話
夏野が呼ぶ己の名に、真白は小さく身を震わせた。
「自分の名を、これ程愛おしいと思ったことはありません」
「本当に真白なのか? 何故、ここに」
「私と真琴は二人で一人。ずっとこうして生きてきました。……でも、私はもういないんです」
「一体何を言ってるんだ? きちんと説明してくれ」
妙な胸騒ぎがして、夏野は焦って今朝と同様に真白の腕を掴んだ。
そうしないと真白がそのまま闇に溶けてしまう気がした。
真白は自分を掴む夏野の手を見つめると、ふわりと笑った。
「夏野さんは、私が思っていたよりもずっと優しい人でした。あなたなら、きっと真琴を助けてくれる。……それにあなたもきっと真琴に救われる」
「俺が、真琴に?」
頷いて、その指が夏野の手をそっと外していく。
柔らかな力なのに不思議と逆らえなかった。
「夏野さんの心の声は、ちゃんと真琴に届きます。だから大丈夫。どうか前を向いて、生きてください」
「!!」
夏野は驚いて目を瞠った。
それを見て、真白はもう一度笑った。
月の光に照らされて、透き通るような笑顔だった。
「私は欲張りだから、いつまででもあなたと話していたい。でもこれ以上は真琴にも」
そこで真白はふと口をつぐんだ。
少し俯いて、すぐに顔を上げる。
「春にも辛い思いをさせてしまうから、もうお別れです……夏野さん、真琴をお願いしますね」
「待て、真白! 駄目だ、もっと話を……」
ゆっくりと目を閉じた真白から一気に力が抜ける。
慌てて支えた夏野の腕の中で、今朝と同じようにまた気を失ったようだ。
「真白」
いや、これは-。
「もう真白じゃない……真琴だよ」
「春」
いつのまにか戸口に背を預けるように立っていた春がこちらを見つめていた。
「那央はどうした。中で何をしてる」
「……少し眠らせただけだ」
春の力を使えば、そんなことも十分可能なのかもしれない。
そうまでしてでも、自分に伝えたい何かがあるということか。
夏野は真琴を抱いた腕にそっと力を込めた。
「彼女を寝かせてくる。その後で俺に分かるように説明してくれ。……お前が知っていること全てを」
***
真白と真琴。
本当は二つの体に分れるはずだった二人は、たった一つの体で生まれた。
理由は今でも、誰にも分からない。
けれど真白は、きっとそこには何か意味があったのだろうといつも言っていた。
両親がその事実に気付いたのは、二人がある程度言葉を話せるようになった頃。
真白と何度呼んでも返事をしないので尋ねると、彼女は言った。
-あたし、ましろじゃない。きょうは、あたしのばんだもん。ましろは、なかにいるの-
そうして指差したのは、自分の体。
両親は驚愕し、必死に諭した。
この事実を村の誰にも知られてはいけないよと。
その上で、もう一人の我が子に真琴という名を与えた。
なぜ誰にも知られてはならなかったのか。
古くからあの村では、周期的に神の声を聞くことが出来る女が産まれ、巫女とされた。
なかでもそれが双子だった場合は、より一層の力を持つ巫女として崇められたのだが。
そのために必要とされたのはもう一方の子の命。
その子を犠牲にすることで巫女は二人分の力を手に入れることが出来るとされ、長い年月の中で幾度も悲劇が繰り返された。
それ故、両親は我が子の命を守るために必死だったのだ。
先代巫女の神託により、我が子が次の巫女となることは定められていた。
だからこそ、絶対に二人の秘密を知られる訳にはいかなかった。
自分達の存在が他の人間と違うということさえ分からなかった真白と真琴。
だが二人は大好きな両親の言いつけをよく守った。
二人は成長してからも入れ替わりを続けて過ごしていたが、例えそれが真琴であっても日中は真白として生活をした。
村人はこの家の娘が真白であると認識しているため、真琴の名を呼ぶ者は両親と真白だけ。
そしてそれは、人の目が届かぬ夜中だけであった。
両親から見れば二人の違いは明らかだった。
天気、失せ物村人の病や生死まで何気なく口にする真白。
その目には、他者には見えない何かが見えるようで、その分どこか捉え所の無い不思議な子であった。
対する真琴にはそんな力は無かったけれど。
彼女が笑うと光が広がるような、明るい輝きを持った子であった。
十二歳になれば、巫女として神社で暮らす。
親とて自由に会うことは許されなくなるが、それでも二人が二人のまま幸せに暮らしていけるのならば。
両親はそう願っていた。
だがそんなささやかな願いは打ち砕かれる。
その日現れていたのは真琴であった。
前夜から熱を出した彼女は、畑仕事に出る両親を見送って家で臥していた。
日中互いに話すのは両親から止められていたけれど、他に誰もいない室内で気が緩んだのだろう。
少しならば大丈夫、そう思って二人で話した。
真白を心配した村人が差し入れに来るとは思わなかった。
両親は彼女たちが約束を守っていると思っていた。
そんな小さな油断が重なった。
真白であるはずの彼女が自分自身に向けて「真白」と呼びかける姿を、村人は見た。
独り言にしては楽し気で、まるで見えない誰かと会話をしているかのように。
-真白の中に、誰か別の人間がいる-
村人から話を聞いた神官はそう判断した。
例え姿形こそなくとも、それは皆が待ち望んでいた双子の巫女に違いなかった。
両親はすぐさま捕らえられ、幾日にも渡り激しく糾弾された末に真白の前に突き出された。
彼らを殺されたくなければ、その身の中にいるもう一人を殺せと。
窶れ果てた両親の姿を長い間見つめ、その思いを受け止めて、真白は答えた。
-分かりました。私の力で彼女を殺します。だから、どうか二人をお助けください-
真白は十二を待たずに巫女となり、両親は殺されはしなかったが村を追放された。
僅かに許された別れの時間。
二人を力の限り抱きしめた真白は、他の誰にも聞こえぬようにその耳元に囁いた。
-私が必ず真琴を守る。だから安心して-
***
夏野は言葉を失っていた。
春の口から淡々と告げられる真実は、彼の想像を遥かに超えていた。
「真白は嘘をついた。真琴は死んでなどいなかった……真白がずっと隠して、守り続けてきたんだ」
「……なぜ、真琴はその記憶を失くしている?」
「枷になりたくないからさ。真白が盾になって自分を守っていたと分かれば、真琴はきっと苦しみながら生きることになる。……だから真白は、最後に残っていた力全てを使って真白の記憶を消したんだ」
「最後に、残っていた……」
呟いた夏野を、春は無言で見つめた。
冷たく暗い色をしたその瞳。
「真白はいない。……いや、正確に言うと、もうほとんどいない。今の真琴の中に残っているのは、真白の心の、さらにその欠片だけだ」
「…………」
「歴代の巫女に比べ遥かに強い力は、それを制する真白の命を糧に得られたもの。自分が長く生きられないことを、幼い時から真白はずっと分かっていた。先を視通す彼女の目は、自分の命の刻限までもはっきりと映していたんだ」
「そんな……。さっき現れた真白は欠片だと言うのか? あれ程はっきりと話し、笑っていたのに?」
ああそうだ、と春は応じた。
突き放すような、責めるような声。
「言っただろう、真白の目は先を見通すと。あんたのことも視えていたんだ。あんたが真琴と出会い、手助けする姿が。……そして、あんたに惹かれた」
「……何だって?」
驚く夏野。
会ったことも無い、しかも既に心だけになってしまったという真白。
その彼女が自分を慕ってくれていたと言うのか。
嬉しい嬉しくないの問題では無く、戸惑う。
うろたえる夏野を前にして、春の整った顔が歪む。
今も耳に残る、真白の声。
目の前に浮かぶ、その姿。
-どうしよう、春。こんなに思いを残しちゃいけないのに……会いたいって思いが、消せないの-
あの時自分は随分苛立って、ならばそのままでいいじゃないかと応えた。
自分はそれでもよかったのだ、心だけでも真白が存在出来るならば。
けれど真白は困ったように笑って、細い指を己の胸にそっとあてた。
-駄目だよ、ここにあるのは真琴の心じゃなきゃ。真琴が自由に感じて思うことを私が邪魔しちゃいけないよ。……だから、ね。春にお願いがあるの-
聞きたくない。
その続きは聞きたくないんだよ、真白。
お願いだから、それを僕に頼まないで。
-私が消えた後に心だけが残ってしまったら、どうかそれを消し去って欲しい。あなたにしか頼めないから。お願いね、春-
「春……春、大丈夫か」
「っ……」
夏野に呼ばれて春は我に返った。
一瞬、自分がどこにいるかが分からなくなる。
辺りの景色がぐらりと回って、思わずその場に膝をついた。
「!! おい、どうした」
「……何でもない、騒ぐな」
そうは言われても、春は人ではないはずなのに。
神の眷属たる存在がこのような状態になるものだろうか。
そんなことを思いながら手を貸そうとした夏野の脳裏に、照賢の言葉が蘇る。
-もしかすると春の気の不安定さは、お社を出たことに関係あるのかもしれませんね-
「お社を出たからなのか?」
「……一応、僕の霊力はあの社を地場として生まれるものだからな。あそこを離れれば多少なりと影響はあるだろう。那央を眠らせるのにも随分力を使ったしな。でもそんなの大したことじゃない」
「そんな訳あるか!」
声を荒げた夏野に、春は目を瞠った。
「お前も同じだよ。真白や真琴だけじゃなく、俺はお前が心配だ。神だろうが眷属だろうが関係ない。お前が一人で背負い込むものでもない。生憎俺はただの人間でしかないが、もし出来ることがあるなら、お前の力になりたい」
差し出された夏野の手を見つめる春。
-春は優しいね。私、真琴にも春にも幸せになって欲しい。私がいなくなっても、きっと新しい巫女はいつか現れるから。だから……それまでお社を出ちゃ駄目だよ-
真白に託されたのは、自分が社に残り全霊力をもって追手を真琴から遠ざけることだった。
だが自分が決して真白の願い通りに動かないことを、彼女の目は捉えていただろう。
きっと、こうして夏野が自分に手を差し伸べることも。
きっと、自分が素直になれないことも。
目を伏せて小さく笑うと、春は敢えてその手を取らずに立ち上がった。
「気持ちだけ受け取っておくよ」




