まだ、彼の話は始まらない。
そこは人通りの多い大通りから外れた薄暗い裏路地であった。
広い通りだが入り組み、迷路のような裏路地は、梅雨明けはしたが未だ湿っぽく、薄暗い。
少し不気味な場所だな感じながら少年は立ち止まった。
筋肉質だがどこにでもいそうな風体をしている少年は小さくため息を吐いた。
「なぁ、情けないことをすんなよ」
学校からの帰宅時なのか、学生服を身に纏う少年は目の前で背を向けている男たちに呆れながら声をかける。
少年の前ではいかにもチンピラのような風体をした短髪とオールバックの男性二人組がサラリーマン風の男性を囲み、胸倉をつかみ持ち上げながら脅かすように口々に叫んでいた。
少年の制止のセリフと共に叫び声は止まり、小さな舌打ちと共にゆっくりと二人組の男は向き直り、視線を向ける。
「あ、なんだって、このガキ」
胸倉をつかみ宙に浮かせている短髪の男がじろりと少年を睨みつける。
少年が来る前に殴られていたのだろう、頬を腫らせたサラリーマンが苦しげにつぶやく「助けてくれ」という言葉が少年の耳に届いた。
「はぁ……」
どことなく目が据わっている筋肉質の二人に威圧されながらも、別段調子を崩すことなく少年は溜息をつき、もう一度同じ言葉を口にする。
「だから、情けない事をするなって。その人苦しそうだろ」
「おいおい、おいおいおい、なに一丁前に正義面しちゃってるんですかー」
口元の両端を大きく歪めた笑みを浮かべながらオールバックの男は少年に近寄る。
少年は後ずさることなく近付くオールバックをしっかりと見据えながら口を開いた。
「別に正義の味方なんて気取っているつもりはないんだけどさ、正直我慢できなかったんだよ。あんたたちのこと――」
「ひゃはははは、言うじゃねぇか」
何がおもしろいのか笑い出すオールバックの男は少年のそばまで来るとサラリーマンと同じように胸倉に手を伸ばしてくる。
少年は避けることもせず掴まれ、オールバックの男の前に寄せられた。瞬間、オールバックの表情が先ほどの笑みから一変し鋭い目つきへを変化する。
「おい」
最早軽快な笑い声など発することなく、低く怒声を込めた声でオールバックの男は少年を威圧した。
「何が気にくわねぇって。もう一回言って――」
だが、鈍い音とともにオールバックのセリフは途中で止まった。
代わりに小さな呻き声と共にオールバックの男の表情は苦悶し始める。
突然のことに周囲が一瞬静まり返る。
ようやくオールバックが男は腹部を殴られたことに気がついたのだろう、腹部を押さえ、呼吸をしよう魚のように口をパクパクとすると両ひざから崩れ落ちていく。
「すまん、手を出されると反射的に対応しまってな。って遅いか」
少年の謝罪に誰もが何も言い返すことができず、ただ、が再び僅かな静寂が周囲を包み込んだ。
「……メェ」
そして、その静寂を破ったのは怒りで小さく震える短髪の男であった。
「テ、メェ! よくも鈴木を」
何が起きたかようやく認識したもう一人の短髪の男は怒りをあらわにし、掴んでいたサラリーマンを少年とは反対方向に放り投げると口端を歪めた。
その口元から肉食獣を連想させるような鋭い犬歯が露になる。
「オレ達に手を出して無事に帰れると思うなよ!」
「へー、どうするつもりだ」
「こうすんだよ」
短髪の男はこの時期に不釣り合いな薄手の黒いジャケットを脱ぎ捨て叫ぶ。
「地獄を見せてやる!」
片手で顔を覆う短髪。瞬間。肉を引きちぎるような音が彼の中から聞こえ始め、短髪の男は小さく呻くとソレは始まった。
メキメキという音に合わせ、短髪の男の姿は見る見るうちに変わっていく。
口元は大きく裂け、顔の骨格は前へと伸び、耳は上がり、上半身が一回り膨らむと彼の着ていたTシャツは内側から引き裂かれる。
そして、灰色の体毛が彼の上半身を包み込んだ時には、肉を引きちぎるような音は止み、短髪の男は人の姿をしていなかった。
「ヒィィィ! バ、バケモノ!」
目の前の非現実的な出来事にサラリーマンの情けない悲鳴が路地裏に響き渡る。
狼の頭部、上半身は獣の体毛に覆われた強靭な肉体。その姿はどこから見ても人狼とよぶものにふさわしかった。
短髪の男であったソレは大きくなった口元を再び歪め、骨をも噛み砕くような牙を少年に見せつける。
悲鳴を上げ、狂乱するサラリーマン。それに対し、
「ハッ」
少年は目の前の光景をただ、鼻で笑った。
「何を笑ってやがる!」
「あのさぁ……誇り高い人狼が恐喝の為に一般人の前でわざわざ変身なんてしやがって、人狼の誇りを汚すなよ」
「うるせぇ!」
頭に血が上っているのか、何故目の前の少年が人狼のことに驚かないのかという疑問も持たずに人狼の姿となった短髪は少年に殴りかかる。
丸太のような剛腕が少年の顔に向かい襲いかかる。
だが――
「なっ……」
拳を振り抜いた人狼は目の前の状況に目を見開いた。
「まったく」
迫る拳を右手で易々と受け止めた少年は呆れたように言いながら、右手の握力をさらに込める。
「ぐ……が……」
メシリという音が灰色の毛に包まれた右拳から響くと、人狼は顔を歪め片膝をついた。
「そ、そんな、兄貴が! テメェ。何なんだよ」
「何者かって匂いで分からないのか」
人狼の鼻先がぴくりと動く。
「--ッ!テメェ。テメェも」
ようやく少年の正体に気がついた人狼は痛みで顔を歪ませながら吠える。
少年は未だ理解していないオールバックの男に右手の力を緩めずに振り向くと名乗り上げた。
「古賀 響。ガキでもこの辺りを統治する一族のものなんだけどね」
「こ、古賀家の者、まさか、銀狼だと」
驚愕するオールバックに向かって少年はにやりと笑う、その口元からは短髪の時と同じように鋭い犬歯が生えていた。
「まったく、同族の匂いに引かれて来てみればこんなチンピラとはね。さて、どうしたも――」
「うる、せぇぇぇえええ!」
話している最中に人狼は残る片腕で殴りかかるが少年、古賀響は左手で器用に受け流すと前のめりになった人狼の後頭部に鋭い蹴りを放つ。
鈍い音と共に地面に倒れる人狼。
その光景にオールバックの男は仲間を見捨て情けない悲鳴をあげながら一目散に逃げ出した。
「後な、灰色でしかも上半身しか変化できない半端な奴が、軽く人の前で姿を見せるな。まったく、恥ずかしい。……って逃げるのかよ」
オールバックの男を追いかけることなく古賀はただ溜息を吐く。
古賀は腰を抜かしたのか足を震わせているサラリーマンを目にしながら、地面に無様に倒れる人狼に視線を移す。
「まぁいい。同族なら聞きたいことがある」
「--ッ」
「答えるなら見逃してやる。最近このあたりに吸血鬼が現れているみたいだが何か知らないかな」
吸血鬼という言葉に人狼の耳がぴくりと動く。人狼ならだれでも知っている言葉であった。
「うるせぇ、そんなこと知るかよ」
人狼は質問に答えない。そして、フラフラと立ち上がると振り向きざまに再び古賀に殴りかかった。
「まったく……」
古賀はため息交じりに人狼の拳を受け流すと仕方なしにその顎を思いっきり殴り飛ばし、人狼の意識を刈り取ったのであった。
その後、古賀は腰を抜かしているサラリーマンに駆け寄り、黙っておくように言うと腰路地裏から表通りに連れて行った。
サラリーマンはお礼も言うこともなくフラフラと雑踏の中にへと消えていった。その背中を見送った後、古賀は再び裏路地に戻ってみることにした。
目を覚ました人狼に吸血鬼について聞きたいことがあったからだ。
しかし、戻ってみると先ほど戦っていた裏路地には人狼の姿も、短髪の男の姿もいなくなっていた。
周囲を観察する古賀は彼の脱ぎ捨てた黒いジャケットがないことから逃げたのだろうと予想がついた。
「変身しないと力が出ない半端ものだと思ったけど、基本的な回復力はあったみたいかな」
溜息を吐き、見上げると両側にそびえ立つビルの間の空から茜色が見えた。
「良い事したのに収穫はなしか。やれやれ、吸血鬼。早く見つけないといけないな」
ぶつぶつと独り言を言いながら古賀は誰もいなくなった裏路地を後にするのであった。
【つづく】
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