元ボクサーのプライド
俺、宮本拓海、64歳。
自分で言うのも何だが、数多くの伝説を持っている。今回は、その自慢話をひとつ披露しよう。
あれは1985年、8月。
最高気温は35℃にも到達しない、今思えば涼しい夏だったのかもしれない。だが当時の感覚からすれば、30℃を超えれば十分すぎるほどカンカン照りの猛暑だった。
◆◆◆
連日猛烈な暑さが続いていたが、俺たちを一番熱くさせていたのは気候ではなく、溢れんばかりの若気とエネルギーだった。
その熱気と勢いのまま向かうのは、以前、財布にたった55円しか入っていない男ふたりで女子大生をナンパした際、俺の身分証を「いらねえよ」と笑ってツケで飲ませてくれた、あの思い出の居酒屋「柊」のカウンターだ。(Z世代の君へ、新人類の俺より — バブル前夜、ツケ飲み生活 —ep.7 所持金55円でナンパ)
その夜、柊の暖簾をくぐったのは俺——拓海と、同期の力、類の3人。
「いらっしゃい! 相変わらず暑いねえ!」
カウンターの奥から顔を出したのは、店の大将・源吉さんだ。元ボクサーという異色の経歴を持つ大将は、日焼けした頑丈な体つきに丸刈り頭、ねじり鉢巻姿で、いつも威勢よく店を仕切っていた。
23歳の俺たちの胃袋は、文字通り底なしだった。冷えたビールを煽り、酒を水のように流し込みながら、片っ端からメニューを注文していく。
「大将! 焼きそば頼むわ!」
しばらくすると、源吉さんがニヤリと笑いながら、両手で重そうに大きな皿を運んできた。
「へいお待ち! いつも来てくれるからな、今日はサービスだ! 超大盛りにしておいたぞ!」
ドスン、と目の前に置かれた皿を見て、俺たちは思わず目を丸くした。それは普通の焼きそば皿ではなく、宴会で刺身やオードブルを盛るような、直径一尺(約30センチ)はあろうかという深みのある大皿だった。
そこに香ばしいソースの香りを立たせた焼きそばが、まるで小山のようにドッサリと盛られている。普通なら4〜5人前はある圧倒的なボリュームだ。
「うわっ、すご! ありがとう大将!」
俺と力、そして類は歓声を上げ、豪快に麺を喰らった。熱気と油、そして濃厚なソースの味が五臓六腑に染み渡る。3人の底なしの胃袋をもってすれば、その超大盛りの焼きそばもあっという間に平らげられてしまった。
やがてテーブルには、焼きそばの油がうっすらと残る巨大な空き皿だけが残された。俺は、その少し深さのある大皿をじっと見つめた。
「……これ、大盃に似てるな」
そう呟くやいなや、俺は手元にあった2合徳利を取りだし、その大皿に向かってドボドボと日本酒を注ぎ始めた。それを見た大将が悪ノリし、一升瓶から直接ドバドバと追いがけして注ぎ足す。焼きそばの油がうっすら浮いた大皿の中に、並々と酒が満たされていった。
「おい拓海、本気かよ!?」と類が驚くのを余所に、俺は両手でその巨大な大皿を持ち上げた。
「よ〜し!」
腹を括り、大皿に直接口を付ける。焼きそばの香ばしい油の風味と、ズシリと重い日本酒の味が口いっぱいに広がった。
俺は勢いそのままに、ぐびぐびと喉の奥へ流し込み、一気に飲み干してみせた。
「ゲップ……ごちそうさん!」
空になった大皿をドンと置くと、店内から「おおおっ!」と歓声が上がった。
一気飲みを終えて息をついた俺の中で、ふとエンジニアとしての血が騒いだ。
「……一体、どれだけの量を飲んだんだ?」
気になった俺が大将に尋ねると、源吉さんも「どれどれ?」と興味津々。空の一升瓶になみなみと水を汲んできてくれた。俺はその水を使って、コップで大皿へ水を移しながら容積を計測してみた。
1杯、2杯……結局、コップ4杯半。1杯200ccとして計算すると約900cc——なんとちょうど5合分もの酒が入っていたのだ。
「うわ、マジで5合も入ってたのかよ!」
俺たちが大騒ぎしていると、源吉さんが元ボクサーとしての負けん気に火がついたのか、腕組みをしてフッと不敵な笑みを浮かべた。
「へっ、若いのは元気があっていいなあ! 俺は酒はそんなに強くねえが……水なら負けねえぞ。拓海、見てろ!」
源吉さんはそう言うと、手元にあった一升瓶を掲げた。
「俺は昔、ボクシングの減量でいつも水に飢えてたんだ。この一升瓶の水くらい、一気に飲み干してやるよ!」
「大将、マジで!?」
大将は一升瓶の首を掴むと、頭上高く掲げ、そのまま口をぴったり当ててラッパ飲みを始めた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ!
最初は威勢よく水が流れていった。しかし、一升瓶の口を唇で密閉してしまったため、瓶の中に空気が入る隙間がなくなっていく。瓶内が負圧になり、水がピタリと止まった——と思った次の瞬間だった。
瓶底から「ゴボボッ!」と音を立てて空気が逆流。同時に、上を向いて重い一升瓶を支えていた大将の喉へ、強い水圧と空気が一気にガツンと襲いかかった!
「——ぶふっっっ!!!!」
耐えきれなくなった大将は、口から大量の水と空気を前方に豪快に逆噴射!
「うわあああっ! 水がかかる!」
「大将、無茶すんなって!!」
店内は大爆笑と大歓声に包まれた。顔も胸元もびしょ濡れにした大将は、「ゲホッ、ゲホッ! あかん、息ができねえ!」と目を白黒させながら苦笑いしていた。
熱気あふれる1985年の夏。豪快な酒と、お茶目な大将の最高のパフォーマンス。あの居酒屋「柊」で過ごした夜の記憶は、今でも鮮烈に胸に残っている。




