クロミちゃんの絆創膏
銀座の強盗事件と築地警察署での事情聴取を終えた翌日。
ソウシは始発で東池袋へ戻り、少しだけ眠ったあと予備校へ行き、そのまま帰りにバイト先へ向かった。
レンもさすがに長時間あれこれ聞かれて疲れたのか、帰宅してからはよく眠っていた。そのせいでソウシは、本部担当者に殴られた際に切れた口元の傷を治してもらいそびれていた。
いつものマスクをしていれば傷は隠せる。
しかし予備校にいる頃から傷口はじんじんと熱を持ちはじめ、バイトの時間になる頃には、少し顔を動かしただけでもはっきり痛むようになっていた。
「痛たたた……」
バイトを終え、控え室でようやくマスクを外す。
ロッカーの小さな鏡を覗き込むと、思っていたよりひどい。
切れた傷はまだ完全には乾いておらず、周囲には内出血が残り、少し腫れている。
「うわあ、思ったよりヤバいなこれ。早く帰ってレンに治してもらおう」
そう呟いた、その時だった。
バックヤードの扉が元気よく開く。
「あっ、パイセンおつかれーす!」
「!」
ソウシの身体が固まった。
ヤバい。
見られた。
よりによって、ミキちゃんに。
ソウシは慌ててマスクをつけ直すと、何事もなかったふりでそそくさと帰り支度へ戻った。
「えっ、えーーっ? パイセン、顔どうしたんすか? ブレイキングダウン出た?」
「しーっ! 三木さん! な、なんでもないから」
「え、だってまだ血出てるじゃないすか。パイセン、ちょっと待ってて」
ミキちゃんはすぐに事務机の奥へ向かい、救急箱を取り出して戻ってきた。
「はい、パイセン。ここに座ってくださーい」
「えぇ……」
言われるまま椅子に座る。
ミキちゃんもすぐ隣へ腰を下ろした。
口調はいつもの軽い調子のままなのに、傷を見る目だけは思ったより真剣だった。
ピンセットで消毒薬を含ませた脱脂綿をつまみ、傷口の周りについた血を丁寧に拭き取っていく。
その手つきは意外なほど慣れていた。
そして、その時の表情も、普段のバイト中にはあまり見ないくらい真面目だった。
それと。
――距離が……近いっっっ!!!
下ろした髪から、ふわりといい匂いがする。
いつもはつけまつげの奥に隠れてよく見えない瞳の色。
ぽかんと少し開いた小さな唇の奥に覗く八重歯。
自分のものよりずっと細い指先。
全部がはっきり見えるくらい近い。
傷を確認するため、頬に少し触れられてもいる。
いやいやいや。
ミキちゃんは厚意で手当てしてくれてるんだ。
何を考えてるんだ俺は。
そうだ。
何か言おう。
何か言わなければ。
「み、三木さん、なんか手当て慣れてるね」
口にしてから、ソウシははっとした。
――もしかして。
本当にブレイキングダウンに出てそうな彼氏がいて、その手当てを日常的にしてるとかだったらどうしよう。
頭の中に突然、いかにも喧嘩が強そうな『ミキちゃんの妄想彼氏』が風船のように浮かび上がった。
そして勝手に破裂した。
「あー、部活でみんな擦り傷作るから慣れてるっす! 最初の手当てで治り全然ちがうから、舐めたらダメっすよ!」
「あー……そうなんだ」
ソウシは心の中で自分を殴った。
なんという失礼極まりない想像をしていたのだ。
ミキちゃんは再び傷口を確認する。
その途中で、ふと手が止まった。
「……でもこれ、どうしたんすか?」
「え」
声の調子が変わった。
ソウシの心臓が跳ねる。
ミキちゃんは傷ではなく、ソウシの顔を見ていた。
「ウチでよければ、話ききますよ……?」
どうしよう。
普段なら、絶対に人へ話したくない内容だ。
最高に格好悪い。
自分の情けなさをそのまま晒すような話だった。
それなのに、ソウシは迷っていた。
レンのことはさておき
ヒロナリとの再会から、特殊詐欺の受け子、そして昨日の銀座の強盗事件まで。
その中で自分が何を感じたのか。
それを、他の誰でもないミキちゃんなら、大ごとにしたり、笑ったり、馬鹿にしたりせず聞いてくれそうな気がした。
いや。
聞いてほしかった。
「聞いて、くれる……?」
ミキちゃんは黙って頷いた。
「三木さんも知ってると思うけど、俺、断るのが下手で……」
少し震える声で、ソウシは話し始めた。
「この前、中学の同級生と偶然会って、仕事に誘われたんだけど、そいつがなんか怪しくて。でも、断れなくて……ズルズル断れないうちに、けっこうヤバい仕事振られちゃって」
ミキちゃんは何も言わず、まっすぐソウシを見ている。
「最初やばかったのは、特殊詐欺の受け子だった……途中で気づいて、受け取らないで帰ってきた」
そこまで言って、少し息をついた。
「それから……昨日、銀座で強盗事件あったよね? 友達があそこに呼ばれて……止めようとして巻き込まれた」
「………」
「それで、止めようとして騒いだけど何も出来なくて、指示役に殴られてコレ。ダサいよね……いて」
話しているうちに、だんだん照れくさくなってきた。
ソウシはへらへらと笑って誤魔化そうとしたが、傷口が引きつってうまく笑えない。
それまでまともに見られなかったミキちゃんの顔を、恐る恐る見る。
彼女はソウシの目をまっすぐ見つめ、口元をきゅっと結んでいた。
普段の軽さが消えた、真剣な顔。
その表情に一瞬気圧される。
やがて、ミキちゃんがゆっくり口を開いた。
「知らなかったなら仕方ないよ。でもパイセン、途中で何度も気づいてたよね?」
「……」
「怖かったのはわかる。でもそれで、なんでもしていいことにはなんなくない?」
ソウシは何も言えなかった。
「それは普通にダサいよ」
「うっ………」
ミキちゃんはそう言いながら、救急箱から一枚の絆創膏を取り出した。
薄い紫色。
そこにはクロミちゃんがプリントされている。
ソウシの肩が目に見えて落ちた。
ひょっとしたら、ほんの少しくらい慰めてもらえるのではないか。
そんな期待をどこかでしていた自分に、今さら気づく。
そして普通に叱られた。
「でーも」
「?」
突然、ミキちゃんの両手がソウシの頬を挟んだ。
そのまま、ぐりんと顔を正面へ向けられる。
「!?」
「あっ、今うごいちゃダメっす」
距離が、さらに縮まった。
髪が。
顔が。
手が。
さっきよりもっと近い。
ソウシの息が止まる。
クロミちゃんの絆創膏が、口元の傷を覆った。
その上を、ミキちゃんの柔らかい指先が丁寧に滑る。
「ちゃんと戻ってきたのは、バリカッコよかったっすね。パイセン♡」
「……え」
ミキちゃんはそれだけ言うと、何事もなかったように救急箱を片づけ、帰り支度を始めた。
途中で何か話しかけられたような気もする。
けれど、そこから先の記憶がほとんど飛んでいた。
ソウシは人生で最もふわふわした気持ちのまま、家路についた。
家へ帰ると、レンが料理を用意して出迎えた。
「ソウシ、出かける前に傷を治してやれなくて悪かったな。食事の前に治すか」
「あ、いや……今はいいよ」
「? 食事が滲みるだろう」
「ちょっと今日一日は浸らせて……」
「よくわからんが、必要なら言ってくれ」
「うん……」
◇
その夜。
クロミちゃんの絆創膏は、綺麗に洗ったあとノートへ貼り付けた。
御守りにした。
ちょっと叱られちゃったけど。
やっぱ、ああいう強いとこ……。
好きだなぁ。
ノートに貼られたクロミちゃんを見つめながら、ソウシは机に突っ伏した。
そのまま、しばらく液体のようになっていた。




