仕込み・一華
昼前、ルイが声をかける。
「一華。今日は午後からスクールがあるよ」
「ありがとう。準備してくる」
ルイが材料のトレイに布をかけてアトリエの奥へ運ぶ。
スクールは都心にある。道が空いていて、開始三十分前には着いた。講師たちが授業の準備を終え、出迎えてくれる。その中にいる村重に声をかけた。
「今日は授業が終わったら、橋本さんと一緒に私の部屋に来て。終わるころにまた声をかけるから。いい?」
「はい。いったい何でしょう?」
「いい話よ」
それだけ言って、自分の個室に入った。
スクールが終わってから、千尋と村重を別室に呼ぶ。
「どうしたんですか先生。終わったあと残れって」
「二人に報告があるの。みんなより先に伝えたくて。私が今度個展を開くのは知ってるわよね。それでね、せっかくなら生徒さんの作品も展示しようと思って」
「生徒の中から上手な作品を選ぶの?」
千尋がにこやかに言う。
「いいえ。選出はしない。全員展示するの」
「へえ、そうなんだ……えっ、ちょっと待って。全員って、私も?」
千尋が、いつになく大きな声をあげた。
「もちろん。私の可愛い教え子の作品、みんなに見てもらわないと」
驚く千尋の仕草には、子供のような幼さがあって可愛らしい。
「私なんてまだ始めたばかりだし、上手じゃないのに」
「大丈夫。千尋は才能あるって、私が保証する」
千尋は首を振るが、私はそうは思わない。
「千尋に足りないのは自信だけ。だから村重君も呼んだの。これから個展に出す作品をみんなに作ってもらうから、いい作品になるよう手伝ってあげて」
「は、はい」
「村重先生、よろしくお願いします」
千尋は丁寧に頭を下げた。
「二人で美術館でも行ってきなさい。素敵な絵画を見るのも役立つわ。村重君は絵画の知識もあるし、解説もしてくれるでしょ」
私は机の引き出しからチケットを取り出し、二人に差し出した。
千尋と村重が顔を見合わせる。
「今後のためにも、ぜひ行ってみて。千尋」
「う、うん」
戸惑いながらも千尋はチケットを受け取る。村重も続いた。
「今日は呼び止めてごめんなさい。送りたいけど、これから個展のことで出版社と打ち合わせがあるの」
「いいの、気にしないで」
千尋はそう言い、村重と共に部屋を出た。
二人がフロアから完全にいなくなったのを確認してから、私は急いで部屋に戻り、バッグの中の受信機のスイッチを入れた。
さあ、二人はどう出るか。
建物の外に出たらしい足音のあと、千尋の声が聞こえる。
「先生、どうぞ」
「えっ、これは……」
「私、美術館とか縁がなくて。それに、先生だってこんなおばさんと行くの嫌でしょ? 彼女さんと行った方が絶対いいですよ。だから、私の分のチケット差し上げます」
折角渡したものを、あげてしまうつもりらしい。
「いえ。僕は橋本さんと一緒にいて恥ずかしいなんて思いません。橋本さんさえ良ければ、一緒に行ってほしいくらいです」
村重には、千尋がいかに自分にとって必要な存在か、あらかじめ教えておいた。それがようやく若芽のように吹き出しつつある。
「それは嬉しいんですけど……ねえ?」
探るような千尋の声。
「それに、彼女とかいませんし……むしろ橋本さんの方こそ結婚してますし。それでも、橋本さんが良ければ」
「じゃあ、行きましょう!」
きっと、あの笑顔で言ったに違いない。
「はい」
村重の声も明るい。
「良かったら、この先のファミレスで少し話しません? 美術館のこととか」
「でも夕飯の支度とか」
「今日は主人、遅いんです。だから、ちょっと遅れても大丈夫」
千尋の夫・明は遅くなる――いい傾向だ。
千尋は、私からのプレゼントを気に入ってくれたようだ。そう思うと自然と口元が緩む。
盗聴器は千尋のバッグに仕込んである。すぐに見つかるだろう。
地下の駐車場に降りると、車の中でルイが待っていた。
「待った?」
「まあね」
「これ、お願い」
「任せておいて」
受信機をルイに渡し、入れ替わりに私が運転席に乗り込む。
出版社との打ち合わせを終えた私は、丸の内のビジネス街にいた。ガラス張りの超高層ビルの前で、ある人物が出てくるのを待つ。
一時間ほどして、お目当ての人物が現れた。
「明さん」
声をかけると、彼が振り向く。
「小川さん」
千尋の夫・明は、驚いた顔で私を見た。
「今度、個展を開く関係で作品の写真集も出すんです。その打ち合わせで。明さんのお勤め先は、こちら?」
ビルを見上げながら尋ねる。
「ええ。そうです。それより、この前は本当にありがとうございました。ろくなお礼もできていなくて」
「そんなこと気にしないで。でも、もしどうしてもと言うなら……明さん、証券会社でしたよね?」
「はい」
「実は資産を運用したくて。投資に興味はあるんですけど、そっちの知識が全然なくて。よかったら相談に乗ってもらえませんか?」
「ああ、そういうことでしたら、いつでも。力になりますよ」
明はカバンから名刺を取り出し、差し出した。
「今度、家に来てください。いろいろお話ししたくて」
「そうですね。そのときは千尋も一緒に」
「いいえ。ビジネスのお話ですから。その間、千尋を放っておくのも申し訳ないですし」
「……わかりました。ご都合のいい日を連絡してください」
「ありがとうございます。ねえ明さん、これから家に帰るところ?」
「ええ、まあ」
「私は車で来ているから、送っていきます。車の中でも話ができるし。今、回してきますから、ここで待っていて」
微笑むと、彼は困惑したような曖昧な笑みを返した。
橋本明。千尋が選んだ男。
この男がどういう人間か、これからじっくり吟味しなければならない。




