第57話 浴衣姿
朝の光がカーテンの隙間から差し込んできて、瞼の裏を優しく照らす。
「いや、早起きし過ぎだろ……」
スマホの時刻を見て、俺は溜め息を漏らした。
時刻はまだ六時を少し過ぎたところ。待ち合わせは夕方のはずなのに、まるで小学生の遠足前みたいに目が覚めてしまった。
せっかくの休日なのに、早起きだなんて勿体ない。昨日はそわそわして寝つきが悪かったので、スト6のランクマに潜って結構遅くまで起きていたはずなのだけれど……やっぱり人間、緊張していると深く眠れないらしい。
外からは、ミンミン蝉の鳴き声が耳に届いた。窓を少し開けてみると、湿気の中に夏の匂いが混じっている。梅雨はまだ明けていないはずなのに、今日は朝からすっきりと晴れていて、空もどこか高く見えた。今年の梅雨明けは早そうだ。
「いよいよ、か……」
今日が特別な一日になることは、もうわかっている。それを考えるだけで、心臓が微かに早鐘を打っていた。
ベッドから抜け出し、軽くシャワーを浴びる。冷たい水が肌を滑っていくたびに、身体の中に残っていた重たい感情が流れていく気がした。昨日までの色んな出来事──期末テストのこと、柏木莉音との別れ、詩依の優しさ──その全部を、今日という新しい一日で上書きしていきたい。そんな気持ちがあった。
朝食を済ませても、まだ時間はたっぷりと残っていた。ゲームをする気にもなれず、テレビをつけても内容が頭に入ってこない。ソファに座ったままぼーっと天井を眺めたり、スマホを手に取っては何もせずに画面を消したりして時間を潰した。何をしても、どこか落ち着かない。
昼を過ぎても、相変わらず落ち着かないままだった。軽く昼寝でもしようかとも思ったが、布団に入っても目は冴えるばかりだった。
時間が進むにつれて、徐々に空の色が変わっていく。午後三時を回った頃には、少しずつ西日に傾いた光が部屋の中に差し込み始めていた。日差しの角度が変わるだけで、室内の空気がどこか非日常的なものに感じられるのが不思議だった。
鏡の前に立って、自分の髪を軽く撫でた。普段よりも少しだけ丁寧にワックスを馴染ませ、寝癖がつかないように整えてみる。服も、いつもよりちょっとだけ良さげなシャツを選んだ。誰かに指摘されるほどの変化じゃないけれど、精一杯の背伸びをしていると思う。
──今日、詩依に告白する。
正直、今更だなとは思う。お互いの感情をお互いが既にもう知っていて、でもまだ俺たちは幼馴染の関係を続けていた。
変わるには、やっぱり切っ掛けが必要で。その切っ掛けには、やはり儀式が必要なのだと思う。
玄関に並ぶいくつかの靴の中から、比較的新しいスニーカーを選んで足を通した。鏡の前でシャツの皺を伸ばし、少しだけ深呼吸をしてから──待ち合わせの場所、マンションのエントランス前に向かう。
エントランスに着いたのは、待ち合わせ時間の五分前だった。いつもより少し早めに家を出たつもりだったけれど、それでも彼女はもうそこにいた。
「あっ……桃真くん」
白く楚々とした浴衣に身を包んだ少女が俺に気付いて、嫣然と微笑んだ。
その瞬間、詩依に目を奪われてしまった。心臓が一瞬止まったような錯覚すら覚えたくらいだ。
ここ最近、毎日見ているのに。毎日会っているのに、今日の彼女は特別で。今日を特別な日にしようという意気込みと覚悟を、彼女からも感じてしまった。
「浴衣、着たんだな」
「……うん。お母さんが昔着てたやつ。借りちゃった」
少し恥ずかしそうに、詩依がはにかんだ。
その浴衣は、無地ではなく、薄く繊細な花模様が散りばめられていた。柔らかな生成り色の生地に、薄紫と水色の花びらが、まるで朝露を含んだ草花のように、静かに、しかし確かな存在感で咲いている。細身の体にきちんと結ばれた帯は、淡い藤色のグラデーションで、そこだけが夏の空気をふわりと帯びていた。
普段は真っすぐおろされている髪が、今日は高く結い上げられている。首筋が露わになっていて、浴衣から覗かせるその白いうなじに、思わず目が釘付けになった。繊細な髪の後れ毛が少しだけこぼれ落ち、そこに夕方の光が差し込んでいて、色っぽい。ただ彼女がそこにいるだけで、胸の奥の何かがぐっと締め付けられてしまった。
清楚なのに色っぽいって、何なんだよお前は。反則だろ。
「どう、かな……?」
おずおずと不安げに、詩依が訊いてくる。
しまった。ぽかんと見惚れているだけで、何もコメントを残していなかった。
何か言わなきゃ──そう思ったのだけれど、喉がひりついて、言葉が全然出てこなかった。頭の中では色々と浮かぶのに、どれも全部薄っぺらくて、彼女の浴衣姿の前ではどれも似合わない気がした。
でも、これで何も言わなかったら……多分、男としてダメだ。
「……似合ってる。すっげー可愛いよ」
結局口から出てきたのは、思い浮かんだ言葉の中で一番シンプルなものだった。
もっと気の利いた言葉が出てくればいいのに、こんなことしか言えない自分が恥ずかしい。そう思っていたのだけれど──
「ほんと……?」
詩依は、信じられないといった様子で目を丸くしていた。
それからすぐにはっとして恥ずかしそうに俯き、手元の巾着をもじもじといじっている。
良かった。シンプルながら、ちゃんと効果があったようだ。
「お母さんのだから、少し大人っぽいかなって思ったんだけど」
「全然。むしろ、その大人っぽさがなんかこう、ぐっときた。いや、もうぐぐぐぐってくらいはきたかな」
「なあに、それ」
俺の軽口に、詩依がくすくすと笑った。
そこで、お互いの緊張が解けたのか、空気が柔らかくなったように思う。
あれ? なんか俺、ちょっとだけ会話が上手くなった?
一瞬、そう思わなくもない。
でも、多分それは会話が上手くなったわけではなくて、純粋に自分が思ったことを素直に口や態度に出しているだけだ。
前まではどこか遠慮していて、表に出さないようにしていたのだけど……それで失敗したことがあるから。もう、同じ失敗は繰り返さない。
「じゃあ、行くか」
「うん」
ふたり並んで、歩き出す。
街は、既に祭りの空気に染まり始めていた。夕方にも関わらず気温は高く、アスファルトの隙間から蝉の鳴き声が響いてくる。
道沿いの軒先には提灯が吊るされていて、まだ明るい空の下で、淡く色づいた光を漂わせていた。
「……ッ」
途中、詩依の足がふともつれた。
下駄の鼻緒が少し緩かったのかもしれない。転ぶほどではなかったが、思わず足元に手をやるその仕草に、俺は反射的に立ち止まった。
「大丈夫か?」
「う、うん。下駄、慣れてなくて……」
そりゃそうだ。昔の人はよくこんなもので歩きまくっていたなぁと感心させられる。俺ならとっくに転んでいたと思う。
俺は小さく息を吐いてから……そっと、右手を差し出した。
「ほら、手」
「えっ……?」
詩依は、数秒間、その手をじっと見つめていた。どこか戸惑ったような、でもどこか嬉しそうな、複雑な表情だった。
「転ぶと危ないから」
「……う、うん」
彼女は顔を赤らめて頷くと、遠慮がちに俺の手を取った。
ひんやりとした指先が、俺の手のひらに重なって……その瞬間、心臓が跳ねた。
彼女の手は、何だか壊れてしまうんじゃないかと思うくらい細くて儚かった。
俺も、そっと彼女の手を握り返して……ふたりで手を繋いだまま、また歩き出す。
今日という一日は、きっと俺の人生でも間違いなく特別な日になる。
そう、確信した。




