皇后としての責務Ⅱ ギーゼラの結婚とウイーン万博編
旅ばかりでしていた?
いいえ公務を責務もしていたわ。
オーベロンさんのお願いだもの。ティタニアは断れない事もあるの…。
確執のあった義母ゾフィーの死、ギーゼラの結婚、ウイーン万国博覧会が開催されます。
1871年3月16日1人の運命の女性と出会う様になっている。
計画したのはアンドラシーン伯爵とディアークの2人が私に合った女官候補を紹介したいと以前から聞いていたのだけれど。
相手の女性がいたく悩んでいて、傍に仕える事を躊躇しているというの。
2人がせっついてせめて王妃に会ってほしいと懇願されていたようだった。
私は2人が押す女性だから会ってもいいわ。と返事をした。
ブタからウイーンに帰る列車の随行員に紛れて彼女はいた。
私と彼女はウイーンまでの5時間をずっとじっくりとお互いの話をしたわ。
彼女はマリーフェステテッチュ伯爵夫人。
ハンガリーの地方の貴族で私より2歳下だった。
話をしているととても批判精神が高く自尊心も高い。
私に相応しいと思ったわ。
彼女の心象の悪く無くて。
ウイーンに帰ってからこう言っていたそう。
「これほど美しい人に会った事はありません。
威厳に満ち同時に優雅であの方のお声は優しい。
そして素晴らしい瞳」
大公妃主催の晩さん会にマリーを伴い出席した。
マリーは物珍しそうにそれでいて率直な面白い感想を言っていた。
魅力的な男性、愛想のいいひと、エレガントな人、成り上がり、暇人、おしゃべり、美人、親類縁者、わずかな馬鹿者と出世主義者、これが高貴な社交界のすがたなのだと。
私はすぐに気にいった。
そして丁度空いていた私付きの女官に任命したいと伝えたの。
彼女は考えるといって即答をさけたわ。
私はウイーンの宮廷で私達は徹底的に批判されるので、常に控えめに接する事。
そして信頼しているからこそ。ずっといてほしい。
結婚したら女官は退任しないといけないので一生独身でいて傍にいてほしい。
十分な給与と年金を主人として約束をした。
しばらくしてアンドラシーン伯爵が強く彼女に言ったみたいなの。
「考える事はこともない御引き受けなさい。
祖国に対してその程度の犠牲を払わなければいけない。
神にこれほどの知性を受けられた以上それに感謝しなくてはいけない。
王妃には誠実な人が必要。
王妃は優しく、純粋で理知的、王妃が我が国を愛するのがオーストリアはいけないのだ。
ウイーン宮廷は王妃を絶対に許さないだろう。
だからあなたも迫害されるかもしれない。
大した事ではない。
これで貴方は王妃と祖国の両方に仕える事になるのだから。
今回の任命を受けるのは貴方の義務」
アンドラシーン伯爵はオーストリア・ハンガリ二重帝国の外相を就任した。
皇后の後押しにぜひともマリーが必要だったよう。
控えめながらこの任を受けてくれた。
私もこの女性がとても信頼出来きとても喜んだのよ。
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私の娘ギーゼラは1872年に私の実家の本家筋ヴィテルスバッハ家の摂政宮ルイトポルド王子の次男レオポルドと婚約した。
私がレオポルドをオーフェンとゲデレー城に招待して二人は出会ったのだけれど、偶然を装わせたお見合いね。
夫と話し合って娘を彼に紹介して自然に会わせたの。
二人を見ていると、とても似ているしお似合い。
雰囲気というか二人とも美しいとはいえないけれど、誠実で足に地が着いた家庭生活を営めるわ。
私と違ってギーゼラは夫に似たのね。
えぇ幸せになるわ。
実はこの縁談には私の弟このレオポルドと婚約まじかと言われていたザクセン公女アマーリエに一目ぼれしたのがきっかけだった。
丁度ギーゼラの結婚相手を探していた時だったから。
レオポルドの人柄は実家でもよく聞いていた。
ギーゼラにぴったりだと実感して今回の招待を思いついたの。
レオポルドは迷ったけれど皇帝の娘婿という地位とギーゼラの持参金の誘惑に勝てず、アマーリエとの縁談を白紙に戻したのよ。
表向きはコーブル家の持参金の調整がつかなかったという理由だったようよ。
アマーリエは失意の中にいたけれど、いい時期を選んで私が機会を作り弟を紹介したの。
二人は美男美女でとてもお似合いだった。
結婚後は幸せに暮らしたの。
でも弟は若く死んでしまって弟が死去した後、アマーリエは長男の病気の介護で疲れ果て死去したの。
私がとりもった縁談はニ組とも夫婦生活は平穏だったわ。
不思議よね。
私は波乱万丈なのに。
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1872年5月
義母ゾフィー大公妃が劇場の熱気に酔いバルコニーで涼んだ時にうっかり寝てしまいその後、発熱し肺炎を起こして寝込んでしまって長く患っていらしたの。
しかも私の旅行中に危篤の知らせが。
私は急いで王宮に戻って義母の介護をしたわ。
私の辛いこの王宮生活の根源だった。
あのビスマルクに「オースリア宮廷で唯一の男」といわれ、夫を即位させれば自分は皇后になったはずなのに。
後継を息子に譲る為に夫に皇位を諦めさせた女傑。
若い頃はナポレオン一世とマリールイーズ皇女の一子ライヒシュッタット大公と恋の噂もあったとか。
私が至らないと事或る毎に私を否定し、皇后の責務を宮廷のしきたりを強要し続けた人。
でもそれはおそらく私を思い通りの皇后に。
彼女が描く皇后にする為だと今は思う。
だからと言ってなかった事には出来ないけれど、死を目の前にして誰が無視できるのか。
私は出来るだけ傍にいて介護をしたわ。
大公妃の周りがざわつくくらい。
介護中大公妃が意識を回復する事はなかった。
心からの和解は残念ながらなかった。
でも…過去も忘れるように努めた。
そしてその日はやってきた。
永眠されたのだ。
長い果てしない家庭の小宇宙の戦いは幕を閉じた。
安堵感?違う、なんともいえない重責に窒息しそうになる。
何故なのかは分からない。
その臨終で死を告げられると皆しきたりだと言って、義母の遺体を残し食事に行ってしまった。
私は一人遺体の傍で離れる事なくずっとそばにいた。
何故か涙が勝手に流れてくる。
もう宮廷で私以上の威厳をそなえた人はいなくなった。
でもそれだけ…。私は私。
大公妃は儀礼に則り、礼拝堂からカプティーナ教会へ。
そして何故かマクシミリアンとライヒシュタット大公の棺の間に納棺されて静かに眠っている。
一つの時代が去った瞬間だった。
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その一年後1873年4月20日ギーゼラは喪が明けて結婚式を挙げてた。
「こんなに若いのに自由を捨てるなど本当におかしなことです。
自分の持っているものを失って初めて何を持っていたのかをしるのだけど。気付いた時にはおそすぎます」
と言ったけれど彼女の意思は変わらない。
私は銀糸の刺繍ドレス、長い髪を巻き上げその上に王冠を頂いた姿で祝の席にいた。
皆花嫁より視線は私に釘つけだ。
マリーも「一番美しいのは皇后の外見でなく雰囲気とでもいうか。
優雅さ、威厳、素晴らしい、若い乙女のよう」
だと称賛してくれた。
祝に真夏の夜の夢が上演された。
「結婚式だというのに王女が驢馬に恋する芝居なんて…」
新郎は噴き出していたわ。
「私の事をおっしゃっているのですか」
久しぶりに楽しい行事だったわ。
ギーゼラはミュンヘンへ旅立った。
ルドルフとの別れが悲しくて泣いていたわね。
ルドルフは幼い時から一緒に育った姉と離れるのは辛いと号泣していた。
結婚してウイーンを離れたわ。
あの子は家族という雰囲気が王宮ではなかったから。
自分の温かい家族を早く持ちたかったのかもしれない。
あの子ならそう出来るはず。
賢くて謙虚で真面目で優しい子だから。
あまりに感動的で私は目頭をハンカチでおさえたわ。
ギーゼラを見送った後、私達はウイーンで開催される万博の準備で大わらわになるの。
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ウイーンで国際博覧会の準備に大わらわになったウイーンでは数カ月あちこちで工事や改修、そして祝いの準備が街中で行われていた。
パリ万博の五倍の規模よ。
開会式の日にちょっとした事故が起こったの。
会場に向かうドイツ皇太子夫妻の馬車が私達より先に出発してしまったの。
しかも
夫は激怒してグリュンネ伯爵に言ったわ。
「まったく信じられない。かの賓客が到着されそこに私がいないなど!
なんたる醜態だ!
私の命令に反してこんなに早く馬車を出させたのは
誰の不注意だ!」
夫は序列や順序には非常にうるさかったから、グリュンネ伯爵は青白い顔で夫の前に立って言ったわ。
「私の不注意でございます」
腰をひざにつくのではないくらいに曲げて頭を下げている。
「世は皇帝の命によりそなたのこの不祥事の責任を……」
そういいかけた時に私はさっと彼の横にすべり込むように、腕を彼の脇にそっと寄せた。
彼はまるで何もなかったように静かになって、私と腕を組んだわ。
「遅れてしまいますわ。
さぁ参りましょうあなた
お願いですから急ぎましょう」
事はすみやかにしばらく私達が到着するまで馬車を待たせる事で決着した。
私はグリュンネ伯爵は嫌いよ。
若い時に大公妃のスパイだと思って辛いめにあったから。
でもそれより今は夫を諌めほうが大切だもの。
開会式は三時間のセレモニー、群衆が私に注がれる各国の貴賓席にはずらりと身分の高い王侯貴族が臨席している。
そして何人にも及ぶ招待者への接待だった。さすがの夫も疲れきっていたわ。
マリーは私の忍耐力を危惧している。
突然癇癪を起しその場から去ってしまわないからしい。
そんなことはしないわ。この場が重要なのはわかっているもの。がんばるわ。
しかも会期中ウイーンの株式市場が大暴落したの。当時はバブルで借金しても一般市民が株を買っていた時代よ。
私はスイス銀行で投資を委託しているから大丈夫だったけれど。
ウイーンはしばらく失業と不況で暗い治世になる予感がするわ。
この万博はバブル消滅、コレラ感染もあって千五百フローリンの赤字になったわ。
今回の万博では日本というアジアの国も参加したのよ。私も立ち寄った日本館で、木を削る職人の作業を見たわ。削った木くずからすごくよい香りがして、女官に持って帰らせたわ。
それと武士を見たくて、晩餐会の私の横に使節団の岩倉?という日本人を席に用意したのだけれど、髪を切ってしまって残念にも丁髷姿を見ることはなかわなかった。
各国の王や王妃、皇帝、皇后のお相手の連続彼らと合う合わないわ関係なく。
中には戦争し合った国の君主もいるわ。
どれだけ緊張していたか。
これが数カ月続くのよ。耐えられないわ。
最初の三カ月頑張ったわ。
でも休息は必要よ。
抜け出してパイアーバッハで静養したわ。なんとか予定をやりくりしてバート・イシュルに家族で静養できたけれど、その後心労が重なって熱が続いて胃も痛くて散々だった。
7月に到着してきたペルシャのナースディン王が初めてのヨーロッパに来たのよ。
ラクセンブルグ宮殿に入ったそうよ。
本当に不思議な方で羊、馬、犬、ガゼルを贈ってきたわ。
なんでもウイーンでもペルシャ風の生活をして過ごしたそうよ。
しかもなんでも私と会わなかったらペルシャへ帰らないと言っているというのを聞いたわ。
異国の異教徒の王怖いわ。
何度かのやり取りで私は王に会う事を了承したの。
会うまで帰らないと粘っているらしいから。私も出国も出来ないわ。
シェーンブルグ宮殿で歓迎会を開催しそこで私が出席する手はずになったのよ。
私もウイーンに戻り、シェーンブルグ宮殿の宴会に出席する準備をしていたら。
ぺルシャ王が突然体調不良でいけないと言ってきたというのよ。
宴会は予定通り始まり、私はペルシャ王に会うという確約の使者を送ってようやく宮殿にいらして夕食を共にしたわ。
現れた彼ったら。見た事ないくらい着飾って手元に眼鏡を取り出して。
私の頭からゆっくり舐めまわす様に詰め先までゆっくりと眺めたの。
そうまさに眺めていたわ。
瞳がとろりとして、深い溜息の後呟く様に言ったわ。
「あぁ~なんという美女…」
再び丹念に眺めながら。
「なんて綺麗な」
思わず声を出して笑いそうになったわ。
こういして波乱を起こしたペルシャ王は帰国したわ。
「なんという威厳、なんとういう微笑み、なんという優しさ。
もし再び訪れる事があるならそれは皇后の敬意を表すためだ。
これがヨーロッパ最後の宴だった。だが生涯で最も美しい宴だった」と言い残し帰国した。
アンドラシーたら、イタリア国王夫妻を接待してほしいと言い出したの。
彼らは私の妹マリアをナポリ、ローマから追い出した張本人よ。
今もヨーロッパ中を流浪の民のように暮らしているのに無理よ。
だって楽しみにしていた馬術競技祭すら欠席したのよ。どんなにか辛かったか。
マルガリータ王妃は私に会えなくて残念がっていたらしいけど。
私は全然残念な事ではないわ。
10月ようやく回復してゲデレー城に行って過ごしたわ。
ウイーンの貴族や一般市民は私がすぐにウイーンを去った事に憤慨しているらしい。
でも息が詰まるわ。あの街そして群衆の見世物の様にギラギラした視線は怖いの。
その年の暮れ待ちに待った物がボヘミアから届いたの。
皇后専用のお召し列車二両。
外装は深いグリーンに内装はオリーブ色、コンパクトにおさまるようにソファー兼ベット、そして身支度出来る化粧台私使用の個室、2両目は居間になっているのよ。
絢爛豪華ではないけれど、落ち着いた内装と質素な車両に仕上げてもらったわ。
さあ旅の始まりよ。
ウイーン万博は日本が参加した初めての国際博覧会だった。
当初は経済的にも期待されたものの感染症の流行もあいまって当初の入場数を達成出来なかった。
しかも開催中にウイーンの株式市場のバブルが弾けて影響する事になる。
日本館は伝統工芸品や文化施設などを大変好評を得て、ウイーンで日本ブームが起こり絵画やデザインに大きな影響を与えました。