8
俺は集落の中で唯一、奇跡的にまだ形を保っていた一軒の小屋へティナを運び込んだ。
煤で汚れた床を払い、残っていた布切れや干し草を寄せ集めて簡易的なベッドを作り、そっと彼女の体を横たえる。
胸元を検分しても、やはり傷跡は綺麗さっぱり塞がっていた。破れた服の隙間から覗く肌には、あの鮮やかな赤色の蝶の紋章が静かに光を宿している。
……なのに、ティナは一向に目を覚まさない。
呼吸は小さく続いているものの、いくら声をかけても、頬を撫でても、まるで深い眠りの底に落ちてしまったかのように反応がなかった。
(傷はふさがってるはずなのに……なんで起きてくれないんだ)
焦りと不安が胸を締め付ける。
だが、今の俺にできるのは彼女の側にいてやることくらいだ。
ふと、ティナが空腹のまま限界を迎えていたことを思い出す。起きたとき、少しでも栄養をとらせてやらなきゃならない。
俺は小屋の周りを必死に探し回り、食べられそうな熟した木の実をいくつか拾い集めてきた。
木の器代わりに使えそうな破片を用意し、拾った頑丈な木の棒をすり棒代わりにして、実をひとつひとつ丁寧にすりつぶしていく。少しでも飲みやすいように、果汁を搾り出してトロリとしたジュースにしていく作業。
柄にもなく、手元に全神経を注いで集中していた。
――カサ……。
ふと、背後に微かな気配を感じた。
ハッと息を呑み、振り向く。
そこには、簡易ベッドの上でゆっくりと身体を起こしかけている小さな影があった。
「――っ、ティナ……!?」
手に持っていたすり棒をその場に投げ捨て、俺は弾かれたように駆け寄った。
そのまま勢いあまって、華奢な身体をがっしりと腕の中に抱きしめる。
「アーサー、さま」
ぼうっとした様子のティナが、ぽつりと俺の名前をつぶやいた。
俺の胸の中で、ティナの体温が確かに伝わってくる。
――生きている。本当に、生きて俺の腕の中にいるんだ。
「ティナ……よかった……本当によかった……!」
何度も何度も名前を呼びながら強く抱きしめると、ティナは俺の背中にぽつんと小さな手を回し、ゆっくりと首を傾げた。
「あーさー様……? わたし……なんだか、すごくいっぱい眠っていた気がします……」
「ああ、急に倒れたからな。……気分はどうだ? どこか痛むところはないか?」
「痛くない、です。でも……」
ふと、ティナの大きな耳がピクピクと揺れ、鼻先が微かに動いた。
小屋の隙間から吹き込んでくる風に乗って、焦げ臭い煙の匂いと、静まり返った外の気配が届いたのだろう。ぼんやりとしていた彼女の瞳に、少しずつ色が戻り――それと同時に、怯えの色が濃くなっていく。
「あの……お父様は? みんなは……? 集落のみんな、どこに行っちゃったんですか……?」
すがるような目で見つめられ、喉の奥がキュッと詰まるのを感じた。
だが、嘘をついて隠せるような状況じゃない。抱きしめる腕の力をゆるめず、彼女の耳元で静かに、けれど胡麻化さずに事実を告げた。
「……すまない。集落は……全滅した」
「え……?」
「あのチンピラどもに襲撃されて……助けられなかった。生き残ったのは、お前だけだ」
一瞬、時が止まったかのように静まり返った。
理解が追いついていないのか、ティナはポカンと口を開けたまま俺の顔を見つめている。だが、じわじわと現実に呑み込まれていくにつれ、その瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出してきた。
「嘘……嘘ですよね……? お父様……! みんな……っ!」
「嘘じゃない。俺の力が足りなかったせいで……本当にごめん」
「やだ……やだぁっ! お父様ぁっ! みんなぁぁっ!!」
ティナは俺の服の胸元をキュッと握りしめ、顔をうずめて激しく泣き叫び始めた。
小さな背中が、壊れてしまいそうなほど激しく震える。家族も。家も。幼い彼女が知っていた世界のすべてが、たった一晩で灰燼に帰してしまったのだ。その絶望と悲しみは、俺なんかが想像できるものじゃない。
泣きじゃくるティナの頭を優しく撫でて、そのまま力強く、安心させるように抱きしめ続けた。
「ティナ、泣いていい。泣いていいんだ」
「うわぁぁぁんっ! ひとりはいやだ……おいていかないでぇっ!」
「一人になんかさせない。俺が……俺が、お前のそばにいて、居場所になってやるから」
「あーさー様……っ」
「約束する。お前たちの婚姻の約束は果たせなかったが、俺がお前を守る。居場所も家族もなくなったなら、俺がお前の家族になってやる。だから……俺から離れるな」
俺の言葉に、ティナは声にならない悲鳴のような泣き声を上げながら、何度も、何度も強く頷いた。
◇
それからのティナの変わり様は、凄まじいものだった。
集落の焼け跡からなんとか使える荷物を回収し、俺たちはランヴィル郊外にあるあの『風車亭』へ戻ってきた。
誰も近づかない無人の宿屋。ここなら人目を避けて潜伏できるし、情報収集の拠点にするにはうってつけだった。
だが、安宿の一室で過ごし始めてすぐ、俺はティナの異変に気づくことになった。
人数も増えたことだし二部屋借りようと提案していたのだが、それをティナが強く拒否。あんなことがあったあとだし無理もない。仕方なくふたりで泊まれるベッドが2つある部屋へと移させてもらったのだが。
最初は同じ部屋にいればティナも満足そうにちょこんっとベッドに腰掛けて大人しくしていた。――そう、『最初』は。
次第に、悲しみを埋めるためなのか、それともトラウマの反動なのか――ティナは恐ろしいほど俺に依存する姿を見せるようになっていた。
昼間、俺が部屋の中で旅の支度をしたり、ギルドから持ち帰った資料を整理している時も、ティナはぴったりと俺の背後にくっついて離れない。俺が右へ歩けば右へ、左へ歩けば左へ。まるで金魚のフンのようにトコトコとついてくる。
「ティナ、ちょっと喉が乾いたから階下で水汲んでくるぞ」
「い、いきます! 私も一緒に行きますっ!」
ほんの数メートルの移動すら、彼女にとっては死活問題のようだった。俺の服の裾をギュッと掴み、片時も離れようとしない。
夜になり、部屋に二つあるベッドのうち、ティナ用に整えた方へ寝かせようとしても無駄だった。俺が自分のベッドに入ると、トテトテと小さな足音が立てながら、躊躇なく同じ布団の中に潜り込んでくる。
「ティナ、狭いだろ。あっちのベッドで寝な」
「やだ……アーサー様のおとなりがいいの……」
胸元に顔をうずめ、必死に俺の胴体に手足を巻きつけてくる。
もともとネズミ族は身体が小柄な種族だが、それにしても今のティナは幼すぎた。まるで生まれたての動物の赤ちゃんが親にしがみついているかのようだ。一連の惨劇と、死の淵から生き返ったショックのせいか、精神が大きく『幼児退行』を起こしているように思えてならなかった。
参ったな……これじゃ着替えすらままならねえや……。
苦笑しつつも、無下に追い払うことなんて到底できなかった。冷たくなった彼女の体を思い出すたびに、こうして温もりを求めて甘えてくれることが、俺にとっても救いだったからだ。
――だが、本当の試練は深夜に訪れた。
草木も眠る夜も更けに更けた頃合い。
あまりの喉の乾きと、生理現象に耐えかねた俺は、熟睡しているティナを起こさないよう、細心の注意を払ってベッドを抜け出した。
しがみついていた小さな手をそっとほどき、呼吸を殺してすーっと布団を押し上げる。完璧に布団から離脱できたのでティナをちらりと見て、可愛らしく寝息を立てていることも確認した。――よし、起きない。
この軋む宿で、泥棒もびっくりなほどに足音を立てずに素早く部屋のドアを開け、廊下の奥にある手洗い場へと向かった。用を足し「ふぅ」と一息つく。ほんの三分か四分の出来事だ。
部屋に戻ろうと廊下を歩き始めた時だった。
「――ぁ……っ、あーさーさま……? あーさーさまぁぁあ――っ!!」
静まり返った風車亭の中に、鼓膜を割らんばかりの絶叫と、パニックに満ちた大泣き声が響き渡った。
「っ……!?」
心臓が跳ね上がるのを感じながら、廊下を全力でダッシュした。
ドアを勢いよく蹴開ける。
「ティナっ!?」
暗闇の中、ベッドの上で頭を両手で掻きむしるように抱えてボロボロと涙を流し、全身を激しく震わせているティナの姿があった。
俺の姿を認めた瞬間、彼女はバネで弾かれたようにベッドから飛び出し、裸足のまま俺の胸へと飛び込んできた。
「どこ行ってたのぉぉっ! おいていかないでぇっ! もういなくならないでぇぇっ!!」
「わ、分かった! ごめん、ちょっとトイレに行ってただけだから! どこにも行かない、置いてかないから!」
しがみついてくるティナを抱き上げ、背中をトントンと優しく叩く。
胸元に押し当てられた彼女の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、呼吸もしゃくりあげるほど乱れていた。
「あーさー様……あーさー様ぁ……」
「ここにいるぞ。ずっとここにいるからな」
膝の上にティナを乗せ、落ち着くまで何度も頭を撫でてやる。
以前にも似たような光景を見たことがある。城で、まだ末姫が幼く淑女の何たるかを学ぶ前のこと。離宮から本宮に帰る王妃の腕の中に飛び込んで――これじゃあ本当に赤ちゃんじゃねえか。
弱り果てて俺にすがりつくティナを見下ろし、深いため息をついた。
だが、そのため息に安堵はあっても苦痛はない。
「よしよし、もう泣くな。ずっと一緒にいるからなー」
ようやく落ち着きを取り戻したようで、俺の服を涙と鼻水でべとべとに泣き濡らしながら、小さな頭を上下にかくんかくんと。そして次第に動かなくなり、くーくーと寝息を立て始める。




