第十三話 植物園(一)
腕時計を見て時刻を確認する。高校の入学祝いに父さんに貰ったこの腕時計も漸く馴染んできた。
待ち合わせ十五分前。よし、と僕は一人頷いた。
「男が女を待たせちゃいけないぞ。先輩紳士からの忠告だ」
「誰が紳士だよ誰が」
そう父さんに突っ込んだのは昨日のこと。
思わず半目になってしまったけれど、確かにその通りだと思った僕はこうして待ち合わせの時間より早く来た訳だ。
改札口を通り抜けて、さて、何処で待っていようかと辺りを見回した、のだが――。
「……え?」
ある一点をとらえて目を見張る。
時刻表ではなく大きな広告が貼られている掲示板。その前に香宮さんはいた。人々の通行の邪魔にならないように、こぢんまりと壁際に立っている。スマホを弄っているし、距離もあるからか僕がいることに気づいた様子はない。
「おいおいマジかよ」
もう一度時間を確認する。腕時計と、スマホと、ついでに駅構内の時計も見遣ったが、やっぱり待ち合わせにはまだまだ時間があった。
先に着いて待っていようと思っていたのに、まさか彼女より遅く着くとは。
一体いつから待っているんだ?
頭の中に疑問が浮かんだが、今はそんなことを考えている場合ではない。
僕は慌てて香宮さんに駆け寄った。
「待たせてごめん」
けれど、香宮さんから反応はなかった。未だその視線はずっとスマホに向いている。
「おーい、香宮さーん」
香宮さんの顔の前で手を振れば、そっと彼女が顔を上げた。そして、じっと僕を見つめてくる。
「……高瀬くん?」
香宮さんが小首を傾げ、恐る恐るといった様子で僕の名を呼んだ。その目には少しだけ警戒の色が滲んでいて。
うんまあ、警戒心を持つことは大事だけどさ……。
僕は苦笑を浮かべつつ、首肯した。すると、香宮さんがぱっと笑顔を向けてきた。いやいや、警戒心解くの早過ぎません?
「待たせてごめん」
「いえいえ。寧ろ、わたしこそごめんなさい。ちょっと小説を読むのに没頭して反応が遅れちゃった。というか、遅れた訳じゃないから謝らなくてもいいのに」
「とは言っても、待たせたことに変わりはないから」
「真面目だねぇ」
スマホを鞄の中に仕舞いつつ、香宮さんがくすりと笑った。
淡い水色のワンピースに薄手の白いカーディガン。ヒールもないぺたんこなパンプス。
普段は下ろしたままの髪はハーフアップに結われている。
私服姿の香宮さんを見るのはこれが初めてのことで、ついまじまじと眺めてしまった。
「高瀬くん?」
香宮さんに呼ばれてはっとする。
いけないいけない、何ぼーっとしているんだよ。夏の暑さにやられるのにはまだ早いぞ。
暑さにやられた訳ではないのは重々承知しているのだが、心の中でそう言い訳をした。
「何でもないよ」
「それならいいんだけど……では、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
居住まいを正して頭を下げた香宮さんにつられて僕もお辞儀をした。
顔を上げたら香宮さんと視線が交わって、お互いにくすくすと笑い合う。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
斯くして僕たちの長いようで短い一日が始まった。
*
地元の駅から電車に乗って、県の中心地へと向かう。
休日の、しかも夏休みシーズン。座席は何処も彼処も埋まっていた。
僕たちがこれから行くのは県内にある動植物園だ。園内にはその名の通り動物園や植物園があるだけではなく、遊園地もある。
だが、今日の目的は植物園で絵を描くことだから、動物園と遊園地には行かないだろう。多分、体力がもたない。僕じゃなくて香宮さんの。
電車に揺られながらスマホで電車の乗り換えを確認する。地下鉄はあまり乗ったことがないが構内に地図もあるし、いざとなったら近くにいる駅員に訊けばいいだろう。ここは日本。言葉は通じるのだから特に心配はない。
電車を降りて、さて、地下鉄はどっちかなと周囲を見渡したその時、くい、とボディバッグを引っ張られて体の重心が傾いた。少しよろけたが倒れるまでにはいかない。
バッグを引っ張ったのは言わずもがな。
「……香宮さん、何してるの?」
後ろを振り向くと、香宮さんが僕のバッグを掴んでいた。
半目で睨む僕に対して、香宮さんはにっこりと笑顔を浮かべる。
「高瀬くんが迷子にならないようにと思って」
「いやいや、それは香宮さんの方でしょ」
普通に考えて迷子になりそうなのは香宮さんの方だと思うのだが。
事実、スマホで地図を確認しながらじゃないと未だ一人で虹文堂に来られないみたいだし。
「べ、別にわたしは方向音痴じゃねーですよ」
「何か口調可笑しいけど。あと、誰も方向音痴とは言ってないよ」
まあ、実質言ったようなものだけどさ。
指摘すれば、香宮さんの顔が赤くなった。不機嫌そうに頬を膨らませたかと思ったら、ばしりと僕のバッグを叩いてきた。暴力はいけないと僕は思うのです。
「ほらほら、ちゃんと前見て歩く!」
「はいはい」
ぐいぐいと背中を押される。それが照れ隠し故の行動だというのは目に見えていて、僕は苦笑した。
と、ふいに香宮さんの手が緩んだ。
「高瀬くん」
「何?」
「もしわたしがはぐれちゃったら見つけてね」
「何ではぐれるの前提なの」
「もしもの話だよ。もしもの」
――お願いね。
懇願されて、僕は何だかなぁと思いながらも「わかりましたよ」と了承した。
そこまで必死にならなくても、とは思うのだが、香宮さんにとっては重大なことなのだろう。
地元の駅とは明らかに規模が違うこの駅で、もしはぐれたらと思うときっと不安で不安でたまらないのかもしれない。
香宮さんが安心したように口元を緩ませた。その手からはこの手を離してなるものかという確固たる意志が伝わって来た。
香宮さんを置いていくなんてことはないように、僕は歩調を彼女に合わせて歩いた。
無事に地下鉄のホームに辿り着き、ほっと息を吐く。
やって来た電車に乗り込もうとしたら、すぐ後ろから「わっ!」と悲鳴が聞こえた。今となっては聞き馴染んだそれは香宮さんの声で。
僕は咄嗟に香宮さんの手を掴んで引っ張った。
香宮さんをかばいつつ、次から次へと雪崩れ込んでくる人たちに押しつぶされないように移動する。
何とか壁際の方に移動できたはいいものの、車内はぎゅうぎゅう詰めで見事なまでの満員電車が完成した。そんな完成誰も望んではいませんよ……。
予想以上の人の多さに辟易するが今はそれよりも気になることがあって――
……近い近い近い!
人の波に抗うことができず、自然と香宮さんとの距離が近くなっていた。そのあまりの近さに僕はぐっと息を呑んだ。
香宮さんが俯いているためその表情は見えない。でも、黒髪からちらりと覗く耳は少し赤い。僕の顔もさぞかし赤くなっていることだろう。
あと、何か良い匂い匂いが香宮さんから漂ってきてくらくらする。香水とかの匂いじゃなくて、もっと柔らかな……きっと、シャンプーの匂いだ。
ああ、今日が僕の命日かもしれない。ありがとう、満員電車。
なんて、そんな馬鹿げたことを考えた僕は末期かもしれない。
……いや待て落ち着け自分。そういうのを世間では変態って言うんだぞ。
平常心だ、平常心。
何も考えないように、上部に吊るされている広告を見上げる。
目的駅まで約二十分。耐えろ、耐えるんだ僕!
途中の駅で少しだけ車内の人口密度が減ったが、それでも香宮さんとの距離はまだ近くて。
五月蠅いくらいに心臓が鳴っている。
早く駅に着いてくれという気持ちと、ずっとこのままでいたいという気持ちが相反する。
終始緊張しっぱなしで体を動かすことはできなかったが、僕の耳はちゃんと機能していた。
アナウンスが目的駅の名を告げて、漸くこの生き地獄が終わるのだと思うと少しだけ肩の力が抜けた。それと同時に残念だと思う気持ちがわき上がったがそれには蓋をした。
つ、疲れた……。
人混みに流されるように電車から降りて、改札口手前で乗車券を取り出そうとした時に僕は漸く自分がしでかしていたことに気がついた。
……香宮さんの手を掴んだままだった!
「ご、ごめん!」
慌ててその手を離す。空気に晒されたことにより、すーすーとして何だか物寂しさを感じた。
必死に謝れば香宮さんがへにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「全然大丈夫だよ。寧ろ、あの時掴んでくれてありがとう。あのままだったらわたし多分人混みに押しつぶされていたと思うから」
休日の地下鉄舐めていたわー、と香宮さんが嘆く。
対して僕は呆気に取られた。さぞかし間抜けな面を晒していることだろう。
いやだって、まさか感謝されるとは思わなかったから。
言い訳をするならば、香宮さんとの距離ばかりに気を取られていて手のことはすっかり忘れていたのだ。
小さくて、少し冷たくて、それが気持ちよくて……って、いやいや、何を考えているんだ僕は。だから、そういうのを世間では変態って言うんだって。
取り敢えず、振りほどかれることはなかったから良かった。尤も、あの状況で振りほどけなかったっていうのもあるんだろうけど。
香宮さんにとっては僕が手を掴むことは許容範囲のことなのだと頭の中にインプットする。意識されていないと言えばそれまでかもしれないが、もし振りほどかれていたら確実に凹んでいた。あと、キモいとか思われていたら凹む。無茶苦茶凹む。それはもう立ち直れない程に。
恐る恐る香宮さんの様子を窺う。
香宮さんはがさごそと鞄の中を探っていた。どうやら乗車券を探しているらしい。
特に気分を害した様子は見受けられない。僕はほっと安堵の息を吐いた。
「高瀬くん、早く改札口抜けよう」
「うん」
香宮さんに促されて僕は今度こそ乗車券を取り出した。
改札口を抜けた後、再度バッグを掴まれる。
手を繋ぐイベントなんて勿論起こらなかったし、起こすこともできなかった。
せめてこれだけは言っておこうと思い、後ろの香宮さんに話し掛ける。
「香宮さん、植物園に着いたらこの歩き方はやめようね」
「何で?」
「手がふさがっていたら絵が描けないよ」
「ああ、そっか。そうだね」
僕の言葉に香宮さんが頷く。
――香宮さんには後ろじゃなくて隣を歩いてほしいから。
とは、口に出して言えなかった。




