第八話 昼休み(一)
中館こと教室棟から渡り廊下を通って特別教室のある北館へと移動する。目指すは社会科室。使用したことはないが、美術室の近くにあるため場所は知っていた。
購買で買った焼きそばパンと自販機で買ったコーヒー牛乳を持って、僕は『社会科室』の札がぶら下がっている教室の前で立ち止まった。
扉の窓から中の様子を覗いてみる。しかし、そこには誰もいなかった。
「……少し早かったか」
扉に手を掛けて、ゆっくりと動かす。建て付けが悪いからかがらがらと音がした。
おお、本当に開いたぞ。
先輩からそう聞いてはいたのだが、正直半信半疑だったため少しばかり感動した。
僕以外誰もいない教室は照明が点いていないため薄暗い。
近くの席に座って、手持ち無沙汰にぼんやりと窓の外を眺める。
頭の中を占めるのは、僕を向日葵と称した一人の少女のことで。
言わずもがな、昨日の先輩の襲来のせいである。と言っても、昨日の出来事がなくても、彼女のことを考えてしまっているのだけれども。
と、ここで思考を中断させる。廊下から駆ける足音が聞こえてきたからだ。
今は昼休み。大半の生徒は教室か部室で食事を取っている。だから、ここにはそうそう人は来ないはずだ。
一瞬先輩かなとその姿を思い浮かべたのだが、別の人の可能性もなきにしもあらずで。
足音はどんどん近づいてくる。僕は、少しだけ身構えた。
ぴたり、とその足音はこの教室の前で止まって、そして、勢い良く扉が開かれた。
ふわりと揺れる黒髪。ひらりと翻る紺色のスカート。左肩にかかった鞄。扉を開けた勢いのままその右手は掲げられる。
「……あれ?」
扉を開けた人物――香宮さんの少し間の抜けた声が静かな教室内に木霊した。
ぱちぱちと目を瞬かせる僕と香宮さん。お互いを見て唖然としているその姿は、傍から見たら至極滑稽に見えることだろう。
両者動かず、話さず、まるで時が止まったかのように固まっている。
先に反応したのは香宮さんの方だった。
「ふあっ!」
「ふあ?」
よくわからない声を発して、香宮さんがささっと扉の影に隠れる。
え、何その反応。まるで小動物みたいだな。
僕はのんびりとそんなことを考える。その間も静寂は続いたままだ。
暫し間を置いた後、香宮さんがゆっくりと顔を出した。
「な、何で高瀬くんがここに?」
「何でって……呼び出されたから」
まあ、その張本人はまだ来ていないのだけど。
「呼び出し……はっ!まさか告白とか?」
「違う違う」
あらぬ勘違いをした香宮さんに、僕はふるふると手を振って否定した。
自分で言っておいて何だが、あらぬって何だよあらぬって。もしかしたら僕に告白しようとする女の子がいつか現れる可能性だってあるはず……ある、かな?いや、これ以上考えるのは止めておこう。
「香宮明実って名前の先輩に呼び出されたんだ。香宮さんの従姉妹だって聞いたけど」
「明実ちゃんに?」
香宮さんが親しげに名前を呼んだ。どうやら、従姉妹というのは本当のことらしい。別に疑っていたという訳ではないのだけれど、あの先輩はほら、何となく胡散臭いところがありそうだったから。
「香宮さんはどうしてここに?」
「わたし、いつも明実ちゃんとここで昼食食べているの」
なるほど、だから昼休みは教室にいないのか。
「まあ、立ち話も何だし座りなよ」
促せば香宮さんが室内に入ってきた。軽やかな足取りだ。
香宮さんが僕と向かい合うように机を動かす。鞄を机の横に引っ掛けて、すとんと椅子に座った。
「昨日先輩が虹文堂に来て、その時にこれを渡されたんだ」
ズボンのポケットから昨日渡された付箋を取り出す。
折りたたまれたそれを開いて、香宮さんに見せた。
付箋を受け取った香宮さんが「明実ちゃんらしい書き方だ」とけらけらと可笑しそうに笑う。その笑い方は先輩とそっくりだった。
――あの子には、秘密があるんだよ。
不意に過ぎったのは、昨日の先輩の言葉だ。
香宮さんの、秘密。
知りたければ本人に訊きなさいと先輩は言った。確かに気になるけど、いざ本人を目の前にすると訊けない。
そもそも、香宮さんと接点を持つのに一ヶ月近くかかったのだ。
それなのに、「香宮さんの秘密を教えてください」なんて、ずけずけとそんなこと訊けやしない。
僕がじっと見つめていたからか、香宮さんがたじろいだ。
「どうかした?」
「何でもないよ」
緩くかぶりを振った僕に、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「というか、高瀬くんと明実ちゃんって知り合いだったの?」
「知り合いじゃないよ。昨日が初対面」
何故か先輩は僕のことを知っていたけど、と付け足す。すると、「あー」と香宮さんが視線を彷徨わせた。
「もしかして……」
「もしかして?」
「わたしのせい、かも、です。いや、わたしのせい、かな」
僕から視線を逸らして香宮さんがか細い声で申告した。
「わたしが、高瀬くんのこと喋ったからだと、思います」
ぷるぷると香宮さんの体が小さく震えている。頬を赤らめて恥ずかしそうなその表情に、正直に言おう。グッときた。
その感情を押し込めるために、「へぇーそーなんだー」と相槌が若干棒読みになってしまったが致し方ない。
けれども、香宮さんは僕が怒ったと思ったらしい。
言い訳をするように彼女がぶんぶんと拳を振る。
「でもでも、悪口は言っていないから安心して!」
「つまり、悪口以外のことは言ったと」
僕はニヤリと意地悪く口元を上げる。
香宮さんが「あうー……」と呻いて机に突っ伏した。
「高瀬くんは時々意地悪だよね」
少し顔を上げて、香宮さんが僕を睨む。本人は無自覚なのだろうが上目遣いで、だ。
可愛いな、と僕は思った。
思って、そして――
「……あの、高瀬くん」
「ん?」
「この手は、何でしょう」
「……何だろうね」
香宮さんの目には動揺の色が滲んでいた。でも、安心してほしい。僕も動揺している。いや、全然安心できないな?
自分でも知らぬ間に動かしていた僕の手は、引き寄せられるように香宮さんに伸ばされた。
そして、今、その手は彼女の頭の上にある。艶やかでさらさらな黒髪をゆるゆると優しく撫でていた。
はっきり言おう。無意識だった。たった今、僕は自分の行動を自覚した。
そう、自覚したのだ。自分の行動に驚きつつ、それだというのに手が止まらない。僕とは違うその髪質を堪能するかのように何度も何度も撫でている。
香宮さんの顔はさっきの比じゃないくらいに真っ赤になっていた。
耳も首元も赤くて。その大きな瞳は潤んでいて。
何とも言えない衝動が僕の身の内を駆け巡る。
ごくり、と僕の喉が鳴った。
「女の子の髪を触るなんて……いやはや、高瀬くんもやるねぇ」
突如聞こえてきた第三者の声。
はっと弾かれたように僕は香宮さんから手を離す。香宮さんも姿勢を正して声がした方に顔を向けた。
「せ、先輩……」
「あ、明実ちゃん……」
僕と香宮さんの声が揃った。いや、呼び方が違うから完全に一致した訳ではないのだけど、言葉を発したのは同時だった。
僕たちの視線の先――少し開けた扉から顔を覗かせていたのは先輩だった。
ばんっと扉が勢い良く開かれる。
……先輩といい、香宮さんといい、もっと静かに開けられないのか?
なんて、僕の現実逃避は置いておくとして。
「気づかれたのなら仕方がないな。やあやあやあ、こんにちは、お二人さん。お楽しみのところ邪魔して申し訳ないね」
「先輩、誤解を招くような言い方は止めてください」
電気を点けて部屋に入ってきた先輩を睨む。香宮さんはといえば、すっかり黙りこくってしまっていた。
「電気も点けず薄暗い教室で男女二人……ふふふ、何ともまあ怪しい響きだねぇ」
「明実ちゃん!」
怒鳴るように香宮さんが叫ぶ。またもや顔を真っ赤にさせて。
といっても、僕も人のこと言えないのだが。顔が熱い。香宮さん程ではないにせよ、僕の顔もさぞかし赤くなっていることだろう。
「冗談だよ冗談」
「もう!」
特に悪びれることなく先輩が言う。
未だ憤慨している香宮さんを微笑ましそうに見ている先輩に僕はそっと声を掛けた。
「先輩、謀りましたね?」
きっとこの人は最初から僕と香宮さんを会わせようとして、僕をここに呼んだに違いない。
何故、そんなことをしたのかはわからない。だが、直感的に僕はそう思った。
まだ二回しか会っていないけれど、この人ならやりかねない。
「さあ、どうだろうね」
先輩は肯定も否定もしなかった。
こそこそと話している僕たちを不思議に思ったのか、訝しげに香宮さんが首を傾げる。
「二人とも何話しているの?」
「いや別に」
「なになにー?日咲ちゃん、もしかして嫉妬?嫉妬してるの?私の従姉妹は可愛いねぇ。でも、だいじょーぶ、だいじょーぶ。日咲ちゃんから高瀬くんを取ったりしないからさ」
「嫉妬じゃないもん!」
からかわれる香宮さん。からかう先輩。うん、この従姉妹同士の力関係がわかった気がする。
「まあまあ、兎に角二人とも突っ立ってないで座りたまえよ」
先輩が椅子を引っ張ってきて我が物顔で座る。僕たちも促されるまま座った。
先にこの教室にいたのは僕たちだったのに、完全に先輩がこの場の支配者になっていた。
すらりとした足を組んで、不敵に笑うその姿はさながらボス――上司という意味ではなく、ゲームの敵キャラという意味で――のようだった。
更に言うならば、ラスボス。全然勝てる気がしない。
ふふっと笑い声がして意識を戻す。香宮さんが笑っていた。対して、先輩は「ほおー」と眉を吊り上げていた。
「ラスボス、ねぇ……なるほどなるほど。君には私がそんな風に見えているのかい?」
「え、何でそれを……」
「口に出ていたよ」
どうやら、またやってしまったらしい。独り言が多いと指摘されたことは今までなかったのだが……え、もしかして気づかないうちに僕って結構独り言を言ってしまっているのか?
自分の知らない間に何か失態を犯していたのではないかと思うと何だが不安になってきた。
そんな僕の不安を吹き飛ばすように聞こえてきたのは、軽やかな笑い声だった。
「ら、ラスボスだって、……ふふふふ」
「ちょっと日咲ちゃん。笑い過ぎだよ」
未だ笑い続ける香宮さんを呆れたように先輩が突っ込んだ。
「全く。この場合、ラスボスは日咲ちゃんだっていうのにねぇ」
意味ありげにこちらを見るのはやめてくれませんかね、先輩。
そう視線で訴える。睨まれた本人は何処吹く風といった様子で、笑い続ける香宮さんを落ち着かせるようにその背を撫でている。
……別に羨ましくなんてない。だから、そのドヤ顔やめてくれませんかね!
僕と先輩の攻防戦に気づかずに、未だ香宮さんは笑っていた。
まあ、僕の独り言で香宮さんの笑う姿が見えたのなら、それはそれで結果オーライなんじゃないか?
香宮さんを眺めつつ、そうポジティブに考えることにした。過去のことはもうどうしようもないから、これからは気をつけよう。
そう心に決めて僕は香宮さんが落ち着くのを待った。
……意味ありげに僕を見てくる先輩のことは無視だ無視。




