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第六話 勉強会(一)

 僕の傍らには、今日も今日とて虹文堂にやってきた香宮さんがいた。

 いつもなら絵を描いたり、陽気に喋ったりしているのだが今日は違った。

 うー、うー、と頭を抱えて唸っている。その原因は、彼女の手元にある数学の課題プリントのせいだ。



「ちょっと今日は量が多いから課題やってもいい?」


 そう最初に断りを入れたのは僕の方だった。

 いいよ、と香宮さんが快く返事をする。


「香宮さんもやってもいいよ?」

「ほんと?それなら、遠慮なく」


 香宮さんが鞄を開けてプリントを出そうとしたその時、店の奥から声が掛かった。


「響、そんなところで日咲ちゃんに勉強させるんじゃない」


 暖簾越しにぬっと現れたのは、言わずもがな父さんだった。


「こんにちは」

「こんにちは、日咲ちゃん」


 挨拶をした香宮さんに父さんが笑い返す。おいこら、女子高生の笑顔見てだらしなく顔を緩めるなよおっさん。全く、この前注意したばかりだというのに……。

 というか、何で名前呼びなんだよ!いや、別に羨ましいとか思っていない。思っていないからな!


「そんなところじゃ勉強しにくいだろう。上がってもらいなさい」

「あ、お構いなく」

「日咲ちゃん、遠慮しなくていいんだよ。勉強するなら集中できる場所の方がいいだろう」

「でも……」

「店番は俺がするから。二人は勉強してきなさい」


 このおっさんはやたらと香宮さんを家に上げようとする。……何かこの言い方だと犯罪臭がするな。でもまあ、事実だ。勿論、無理やり上げたらガチで犯罪になるのでそんなことはしない。……してない、よな?

 きっと僕の友達が家に来ることが珍しいのだろう。それが、女の子だから尚更だ。でも、勝ち誇ったように何度も名前呼びするなよな!

 と、ここで思い出したのは、とある日の父さんとの会話である。



「あの子、素直で良い子だな」

「ん?ああ、香宮さんのことね」

「やっぱり可愛い女の子は良いなぁ……」

「父さん、その発言はヤバいよ。無茶苦茶犯罪臭がするんだけど」

「父さんはな、可愛い娘が欲しかったんだ!」

「はいはい」


 香宮さんが帰った後、必ずと言っていいほど夕食中にそう言われる。僕の発言が聞こえているのか聞こえていないのか、父さんはばんっと机を叩いた。


「父さん、ご飯中にそんなことしたら母さんに怒られるよ」

「む……」

「あと、若い女の子にだらしない顔していたら多分母さん怒るよ」

「違うんだ母さん!これは決して浮気ではなくてだな!」


 なんて、弁明している父さんは無視して口の中にきゅうりの漬け物を放り込む。

 あー、この浅漬け上手いなぁ。

 ぽりぽりと漬け物を咀嚼して飲み込んだ僕は口を開いた。



 その時発した言葉と同じ言葉を今、僕は呟いた。


「父さん、香宮さんを困らせないでよ」

「別に困らせているつもりじゃなくてだな……」


 僕に咎められ、しゅんと父さんが落ち込んだ。そんなことしても、全然可愛くないからなおっさん。

 でも、香宮さんは慌てていた。慌てて、言った。


「お、お邪魔させていただきます!」


 半ば叫ぶように香宮さんが言い放つ。僕は瞠目した。


「どうぞどうぞ。汚い所ですが」


 ささっと暖簾を退かす父さんに、「さあ、響。案内しなさい」とどやされる。おい、変わり身が早いなおっさん。


「あ、でも、響の部屋だと危険だからな。居間を使いなさい」

「ちょっと」


 危険ってなんだよ危険って。変なこと言うなよな!

 僕は深い溜息を吐いた。

 ちらりと香宮さんの様子を窺ったが、緊張しているためか父さんの発言に気にした様子はなかった。


「香宮さん、こっちだよ。靴はそこに入れていいから」

「お、お邪魔します」


 脱いだ靴を靴箱にしまって僕は廊下を歩き出す。香宮さんも僕の後ろをついてくる。

 あの時と同じ感覚だ。駅からこの店に彼女を案内した時と同じ。

 いつもと同じなのに、いつもと違って。香宮さんがいるというだけで、家の中なのに緊張する。

 香宮さんを居間に通す。ローテーブルの前の座布団に座ってもらった。


「飲み物持ってくるよ」

「あ、ありがとう」


 部屋の片隅にリュックを置いて香宮さんに一声掛けて居間を後にする。

 お勝手に向かう途中の廊下で、僕は壁に片手をついた。


「何がどうしてこうなった……」


 一人項垂れる姿はさぞかし滑稽なことだろう。


「耐えられるかな……」


 何が、とは訊かないでほしい。いろんな意味で、だ。



   *



 落ち着け。平常心だ、平常心。

 深呼吸をして、僕は飲み物を持って居間へと入る。

 すると、遠慮がちにきょろきょろと香宮さんが部屋を見回していた。

 僕が戻ってきたのを見て、ぴんっと居住まいを正した。

 くすり、と僕は苦笑する。


「足、崩してもいいから」

「正座は得意だから平気だよ」

「それならいいけど」


 飲み物を机の上に置いて、香宮さんの向かい側に座る。リュックの中から課題プリントと筆記用具を取り出す。

 そして、僕たちは課題をやり始めた、のだが――



 集中できない……。

 ちらりと前を向けば、眉を顰めながら難しそうな顔で香宮さんが問題を解いている。

 その現実が集中力を途切れさせる。

 伏目がちな姿だったり、邪魔な横髪をそっと耳にかける仕草だったり……本人にはどうとでもないことが僕の心を乱す。

 いかんいかん。集中だ集中!

 落ち着くためにも深呼吸を一つ。そして、気を紛らわすように僕は問題を解く。無心で解いたせいか、いつもより早く終わった。


「よし、終わった」

「え、もう?」

「まあ、途中まで内職していたから」


 ここでいう『内職』とは、授業中に課題プリントや予習をすることだ。

 問題を解かされる授業もあれば、話を聴いて終わる授業もある。

 先生によってはバレたら叱られることもあるが、怒らない先生もいる。生徒の居眠りや内職について気づいていると思うが、先生は敢えて叱らないのだろう。居眠りや内職をしていたが故に先生の話を聞いていなくて、テスト勉強の際に慌てるのは生徒自身な訳で。まあ、所謂自業自得ってやつだ。

 僕個人の見解としては、こくこくと船を漕いでいるよりは内職していた方が有効な時間の使い方だと思うので内職に精を出している。勿論、板書はノートにしっかりと書き写しているし、先生の話も聴いている……そこそこだけど。

 中にはスマホを弄っている人もいて、勇者だなと思う。僕の通う高校はスマホを持ってくることを校則として禁止はしていない。休み時間に弄っているのを先生に見られても黙認される。所謂、暗黙の了解ってやつだ。

 だが、授業中となれば話は別だ。着信音などが流れれば没収。勿論、弄っているのがバレれても即没収。職員室に呼び出され、反省文を書かされる。この前も僕の斜め左側の席の人が没収されていた。まあ、それこそ自業自得なのだけど。


 閑話休題。


「香宮さんは内職はしないの?」


 僕の席は香宮さんの席よりも後ろ側にある。だから、授業中の香宮さんの様子も見えるのだが、船を漕いでいる姿は今まであまり見ていない。


「してはいるけど、問題集とかは堂々と開けないから」

「まあ、そうだね」


 古文や漢文や英語だったら、知らない単語が出てきたら机の上に置いてある電子辞書をさりげなく使って調べればいいだろう。

 でも、その問題集などの代物はやたらと分厚いのだ。確かに数学が苦手な人にとって内職するのは難しいかもしれない。

 しかも、その問題集などの代物がやたらと分厚い代物ときた。確かに数学が苦手な人にとって内職するのは難しいかもしれない。


「わたし、数学が苦手で……」

「みたいだね」


 プリントを覗いてみれば埋まっている部分はあるにはあるものの、空白の方が多い。


「この前のテストも酷くて……うー、中学の時は得意だったのになぁ」

「そういえば、期末テストの範囲発表まであと少しだね」

「やめて!現実を突きつけないで!」


 聞きたくないと言わんばかりに香宮さんが耳を塞いだ。……そんなにか。

 うーうー、と唸る彼女を眺めつつ、僕はあることを思いついた。


「良ければ、教えようか?」


 いつかと同じように、そんな言葉が口をついて出ていた。

 あ、と口を押さえる僕にぱちぱちと香宮さんが目を瞬かせる。


「ほ、本当に?」


 ずずいと近づいてきた顔。期待に満ちた眼差し。

 その近さに気圧されつつ、詰まらせながらも、「う、うん」と僕は首肯した。


「他の教科も、わからないところがあったら教えるけど……」


 続けて言えば、香宮さんが顔を輝かせた。九死に一生を得た、とその顔は物語っていた。

 ぱあっと空気が華やいで、そして――


「ありがとう高瀬くん!」


 勢い良く手を握られた。僕とは明らかに違う手。僕の手よりも色白で、小さくて、


 ――ああ、女の子の手だ。


 少し冷たくて、柔らかくて、ずっと握っていて欲しいと思った。思って、しまった。

 まじまじと握られた手を見つめていると、その視線に香宮さんが気づいた。

 ゆっくりと下げられた視線の先で、自分が僕の手を握っていることを漸く認知したようだ。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて離された手に少し名残惜しいと感じてしまった僕は可笑しいのだろうか。

 顔を俯かせて「……ごめんなさい」と香宮さんが再度謝る。どうやら、勢い余っての行動だったらしい。艶やかな黒髪から覗く耳が真っ赤だ。


「気にしないで」


 何てことないように返したが、正直に言おう。顔が凄く熱い。

 動揺が現れないように努めて冷静に言葉を紡いだつもりだったのだが、少しだけ声が震えてしまった。

 でも、香宮さんは自分のことで手一杯のようで、僕の様子が変なことに気づいていないようだ。

 よかった、と僕は内心一人でほっと息を吐いた。

 何とも言えない空気を変えるために、ごほんと一つ咳払いをする。


「因みに、この前の数学のテストの点数は何点だったの?」


 実際にどの問題が解けなかったのか、どの時点で詰まったのかはテスト自体を見なければわからない。だが、平均点と比べれば、香宮さんがどれほど数学を苦手にしているかは何となくわかるだろう。

 まずは前回のテストで解けなかったところの復習からするか。

 躓いたところをそのままにしておく訳にはいかない。これからもっと難しくなっていくだろうし、何事も基礎は大事だ。

 頭の中でどういう風に教えるかを考える。だが、さっきの僕の質問に対して、なかなか香宮さんからの返答がなかった。


「香宮さん?」

「あの……い、言わなきゃダメ?」

「まあ、言いたくないなら言わなくてもいいよ」

「そ、そう……」

「ただ、そのテストでわからなかったところから教えようと思うから、結局後で何点かはバレるけど」

「……」


 安堵した様子の香宮さんだったが、次の瞬間この世の終わりと言わんばかりに絶句した。


 ……ごめん、そんな顔をさせるつもりはなかったんだ。ただ、後で打ち明けるよりも言うなら早いうちに言っておいた方が良いかなと思っただけなんだ。


 その言葉がブーメランで返って来るなんて今の僕は知らなくて。

 今、僕が気になっているのは香宮さんのことだけだった。

 香宮さんは何回か口を開閉させて、視線を彷徨わせる。至極答え辛そうにしながらも、唇が動いた。


「……さ、三十九点、です」


 両手で顔を覆って消えそうな声でそう告げられた。


 ……ああ、これはなかなか骨が折れそうだな。

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