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20 苦渋の選択

 彼女の手が伸びてくる。

 払いのけようと腕を伸ばしたが、猫のような俊敏さで躱される。一色さんの細い手は僕の顔へ近づき、眼鏡を取り去った。じっと覗き込み、悪戯っぽく笑う。


「……うん、やっぱり整ってる。コンタクトにしたらモテるんじゃないかな」

「おい、何するんだよ。返してくれ」


 やみくもに腕を振り回したが、かすりもしない。彼女が失笑するのが聞こえる。

 僕は幼い頃から視力が低く、眼鏡をかけていなければほとんど何も見えない。一色さんの顔さえもぼやける状態では、眼鏡を取り返すことはままならなかった。


 抵抗できなくなった僕に、一色さんは思い切り抱きついてきた。今度のハグは愛情表現というより、肉欲へ素直に従った結果のように思えた。


 そういえば彼女は、米田との行為で満たされたことはほとんどない、と言っていた。溜まりに溜まった不満を、僕で解消するつもりなのか。

 僕から奪った眼鏡は、どこか手の届かないところへ置いたらしい。両手を僕の背中へ回して、一色さんは甘い声で囁いた。


「ねえ、浅井さん。私の企みを見破ったことは褒めてあげる。けどね、だからといって、浅井さんの立場が有利になるわけじゃないんですよ」

「それはどうかな。君の作戦を米田にばらせば、全部終わりだ」

 こんなあからさまな誘惑に屈してなるものか。タオル越しに伝わる体温を無視し、僕は反発した。


「直樹君が、あなたの言うことを信じると思います?」

 馬鹿にしたように、一色さんが言う。


「むしろ、状況は浅井さんにとってますます不利になりますよ。家に連れ込まれて乱暴されたって言えば、直樹君は私の言葉を信じてくれるから」

 思わせぶりな言い方に、僕ははっとした。



『私、もう……直樹君と一緒にいることに、耐えられそうにありません』


 僕の家に来る前、一色さんは電話でこう言っていた。てっきり、米田からひどい仕打ちを受け、耐えられなくなったのだとばかり思っていた。

(でも、そうじゃなかったとしたら?)

 恐ろしい可能性に気づかされ、僕は自問自答した。


 米田に暴力を振るわれていたというのは、一色さんの狂言だ。それは先刻のやり取りで分かっている。

 本人曰く、肉体的な暴力はなかったとのことだ。軽い喧嘩をして、家を飛び出すくらいのことはあったのかもしれない。けれども、僕にはそうではない気がしていた。


 米田には「用事があるから」とでも言って、彼女は出かけたのかもしれない。そして僕へ電話をかけ、迫真の演技をした。おかげで僕は騙され、今こうして彼女と向き合っている。

 その可能性が現実になっているのだとしたら、米田から見て、今の僕は何をしているのか。


(……多分、一色さんの用意したシナリオはこうだ。外出先でたまたま僕と出会って、話し込んだ。家に寄らせてもらったが、そこで僕が本性を現し、彼女を襲った)

 一色さんからこんな風に説明されれば、米田は信じるだろう。その結果、僕とあいつとの友情には修復不可能な亀裂が走る。


 結局、どちらに転んでも彼女の思惑通りなのだ。

 一色さんに利用され、彼女が米田と別れるための道具となるか。それとも、無理やり彼女を追い返すことで親友を失うか。

 二つに一つ。いずれにせよ、後味の悪い結末が待っていそうだった。



 しかし、彼女が選んだのは前者だったらしい。


「分かりますか? 浅井さんが抵抗しても無駄なんです。このまま大人しくして、私に身を委ねてくれればいいんです」

 僕の体を抱く一色さんの手に、強い力がこもった。彼女の瞳は熱っぽく潤んでいる。


「騙していたのは謝りますけど、別に浅井さんに気がないわけじゃないんですよ。満足させてくれたら、セフレくらいにはしてあげます」

 にやりと笑い、一色さんが僕をベッドへ促す。


 正直なところ、もう何をしても無意味なのかもしれない、と思った。長い間女性を抱いていないのも事実だ。どうせ彼女に操られて下僕となるのなら、快楽を味わった方が良いのでは、とさえ思った。

 いつまで抗っていられるか、自信がなかった。眼鏡を取られて視界が不明瞭な僕には、至近距離であっても、一色さんの体の輪郭がぼやけて見える。力ずくで家から追い出すのは難しいと思われた。


(……ごめん、桐木さん)

 ぎゅっと目を瞑り、僕は激しく悔やんだ。彼女の忠告を真摯に受け止めていれば、こんなことにはならなかったのに。

 そのとき、不意にインターホンが鳴らされた。



 極限まで僕に近づけていた柔肌を離し、一色さんが表情を硬くする。

 返事がないのを不審に思ったのか、もう一度インターホンが鳴らされた。彼女はぱっと身を翻し、僕に眼鏡を手渡した。


 顔をしかめたまま、玄関ドアを指さす。

「応対してもらってもいいですか? 私、この格好じゃ出られないので」


 眼鏡をかけると、彼女の姿がよく見えるようになった。なるほど、バスタオル一枚では玄関へ出て行けまい。服を着るにしても、雨に濡れたものを再び羽織るのは気が進まないはずだ。

 分かったよ、と小声で返し、僕は玄関へ足を向けた。しかし、その途中で足を止めることになった。


 インターホンの受話器から流れ出た声が、よく知っている人物のものだったからだ。


『……もしもし? 桐木だけど。浅井、今いる?』

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