19 残酷な魂胆
「初めて会ったときに、言いませんでしたっけ? 大学で演劇を専攻しているって」
依然として、一色さんは床に座り込んだままだった。だが、体から放たれる凶悪なオーラが僕を圧倒していた。これほど美しく、かつ恐ろしい微笑があり得るのかと思った。
「作品鑑賞はもちろんですけど、私は実際の舞台で使われる技術にも詳しいんです。特殊メイク用品を持ち出して、傷を偽装することなんて造作もありませんでした」
泣く演技を習得するのには苦労しましたけどね、と彼女はにこやかに、何でもなさそうに言う。背筋に寒気が走った。
「浅井さんに手首の傷を見せたのも、それが火傷によるものだとバレバレの嘘をついたのも、全部演技です。……『私が直樹君に暴力を振るわれている』って、浅井さんを誤解させるためのね」
一色さんの目に冷たい光が宿った。
以前、米田に叱られて、一色さんが泣いていたことがあった。あれも嘘だったのかと思うと、全身から力が抜けていくようだった。
僕は今までずっと、彼女の巧みな演技に騙されてきたのだ。狙い通りに作り話を信じ、一色さんのことを、米田に暴力を振るわれている悲劇のヒロインだと思い込んでいた。
「でも、直樹君との関係を断ちたいと思ったのは本当なんですよ? 肉体的な暴力こそ振るってきませんでしたけど、精神的なダメージは結構大きくて」
ゆらり、と立ち上がり、一色さんは妖艶な笑みを浮かべた。体に巻いたバスタオルを、右手で押さえている。
その手首には、痣など残っていなかった。
「一緒に暮らし始めてから、失敗したなって思いました。あの人、家事を全然手伝ってくれないんです。そのくせ亭主関白で、ちょっとしたことで私を怒るし」
「……あいつと別れるために、僕を利用したっていうのか」
「ええ」
ごめんなさいね、と一色さんは言った。まるで何かの社交辞令のようで、謝っている風には見えなかった。
「直樹君はああいう性格だから、私が別れを切り出しても聞いてくれないんです。無理やり説得して、自分の元へいさせようとします。何回か試したんですけど、駄目でした。……でも、浅井さんと会ったときにひらめいたんです。私が浅井さんのところへ駈け込んだことにすればいいんだって。そうすれば、直樹君も簡単には手出しできないだろうって」
どうやら、まんまと罠にはめられたらしい。
一色さんが僕のところで暮らしていると分かれば、まず間違いなく米田は激怒するだろう。彼女の狙いは、あいつの元から逃れることだけではない。米田の怒りの矛先を逸らし、僕へと向けるためでもあったのだ。
「今までは恥ずかしくて言い出せなかったんですけど、直樹君のことで、もう一つ悩みがあって。聞いてもらえますか?」
僅かに頬を染めて、一色さんが続ける。彼女の台詞を聞きながら、僕は「白々しいな」と感じていた。
百貨店で買った水着を僕に見せたのも、おそらくは戦略の一部だったんだろう。さっきだって、バスタオル一枚で僕に抱きつこうとしてきた。「恥ずかしくて言い出せなかった」とは見え透いた嘘だ。
本当の彼女は、僕が思っていたほど清廉潔白な人物ではない。
「……あの人、セックスも下手なんです。太ったせいで体力が落ちたのか、最近はすぐ疲れて寝ちゃうし。私が心から満たされたことは、ほとんどありませんでした」
あっけらかんとした口調で告げられ、僕は肌が泡立つのを感じた。それとは対照的に、一色さんは夏の日差しを思わせる、明るい笑顔をこちらへ向けていた。
「どうしてだ。どうして、僕を選んだんだ」
一歩、二歩と後ずさりながら、僕は声を震わせた。彼女の中から溢れ出す闇に、僕は今や恐怖すら感じていた。
「一色さんくらい綺麗な人なら、男を捕まえるのはわけもないだろう。何故、僕を選んだ。どうして僕の生活をかき回したんだ」
小首を傾げ、少し考えてから、彼女は再び微笑んだ。
「理由は二つあります。一つは、はっきり言って騙しやすそうだったから。直樹君ほどは女性経験がなさそうだったし、演技力を発揮すれば扱えるかなって」
百貨店に行ったとき、僕は一色さんと二人きりになった瞬間があった。そんな時間を与えた米田に対し、僕は「舐められている」と思った。彼女と二人になっても手を出さないであろう、弱い男と見られていると被害妄想をしていた。
だが、事実は真逆だった。本当に僕のことを侮っていたのは、米田ではなく、一色さんだったのだ。自分の言葉を疑いもせず信じてくれる、都合の良い男だと馬鹿にされていたのだ。
「もう一つは……」
そう言って、一色さんは僕の方へ近づいてきた。バスタオルを押さえている右手から力が抜け、胸元が露出する。
「浅井さん、意外とかっこよかったから」




