16 異変
決定的な事件が起きたのは、二月十四日のことだった。
その日付を、僕はきっと忘れないと思う。いや、忘れたくても忘れられないだろう。
あの日は、朝からどしゃ降りの雨だった。
特に出かける用事もなかったので、僕はほとんど一日中家にいた。大学は既に春休みに入っていたし、アルバイトもサークルの集まりもなかった。
こういう暇なときこそ小説を書かなくては、と気合を入れる。
思えば、最近は米田や一色さん、それから桐木に会いに行く頻度が増えていた。友人たちと良い関係を築くのも大事なことだが、自分のために使える時間も大切にしなければならない。
数こそ少ないものの、僕が投稿サイトにアップしている小説には読者がついている。最新エピソードの更新が滞り、彼らの期待を裏切るような真似はしたくなかった。
雨の音は嫌いじゃない。適度な雑音は集中力を高めてくれるし、落ち着いた気分になれる。夕方から夜にかけて、僕は黙々とパソコンのキーを叩いていた。
一、二時間ほど執筆すると、さすがに疲れてきた。僕はデスクを離れ、ワンルームマンションの狭いキッチンへ向かった。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを、ぐいとあおる。
少し気分転換でもしようかな、と考える。小説を書くということは、自分の中にあるものを文章というかたちで吐き出すということだ。アウトプットしてばかりでは、いずれ何も吐き出せなくなる。
インプットのための時間に充てようと、僕は読みかけの文庫本を手に取った。それを数十ページほど読み進め、今度は好きなアーティストの曲を聴く。
(……よし、そろそろ執筆再開だ)
満を持して机に向き直ったそのとき、スマートフォンが震えた。わけもなく不吉な感じがした。
画面には、着信を告げる表示がある。
「もしもし」
電話の向こう側からは、雨の音がした。それも、横殴りの強い雨だ。
『浅井さん?』
一色さんは、喉の奥から声を絞り出すようにしてすすり泣いていた。
『助けて。……お願いします、助けて下さい』
小説を上書き保存するのも忘れて、僕は家を飛び出していた。傘を差し、最寄り駅へと早足で進む。
歩きながら、先ほどの会話を反芻する。
『私、もう……直樹君と一緒にいることに、耐えられそうにありません』
何があったのか、詳しいことは語られなかった。しかし、米田によって一色さんが深く傷つけられたのは明白だった。
「……あの。もし、どうしても耐えられなくて、逃げ出したくなったら、浅井さんのところに行ってもいいですか」
以前、彼女にこう言われたとき、僕は拒まなかった。「あくまで非常手段としてなら」と条件をつけながらも、僕は一色さんの支えになると約束したのだ。
だから僕は、彼女を助けなくてはならない。
もちろん、卑劣な仕打ちを繰り返す米田に対し、強い怒りを感じてもいた。だが、物事には優先順位がある。まずは一色さんを、彼の手が届かない安全な場所まで逃がす。米田に対する措置は、それから考えればいい。
僕はひとまず、彼女を最寄り駅へ呼び出していた。
改札を抜け、現れた一色さんは、ひどく衰弱しているように見えた。
傘もささずに来たのだろうか。全身びしょ濡れで、寒そうに身を震わせている。
スカートから覗く細い足は、膝の少し上あたりが痛々しく腫れていた。米田に叩かれてできた傷に違いない。
「……一色さん!」
大丈夫ですか、と続ける暇はなかった。急いで駆け寄った僕の肩に、彼女は頭を押し当てて静かに泣いた。思わず、どきりとする。
傍から見れば、逢瀬の最中のカップルのようだったかもしれない。けれども実際の状況は、例えようもなく深刻だった。
一色さんが傘を持っていなかったので、僕のに入れてやることにした。結果的に相合傘をすることになり、やや気恥ずかしかったのを覚えている。
今思うと情けないが、僕は彼女を迎えに行った後、どうするかを全く決めていなかった。とりあえず家で休ませてあげよう、くらいの雑なプランしかなかった。
何を話せばいいかも分からなかった。一色さんはずっと口を閉ざし、涙を流すばかりだった。米田との間に何があったのか知りたい気持ちもあったが、不用意に彼女を傷つけたくはなかった。
道中、一色さんは何度もくしゃみをした。それを見かねて、僕は重い口を開いた。
「色々、大変だったと思います。シャワーくらい貸しますから、温まっていって下さい」
「……はい」
雨の降り続く街は底冷えがした。雪に近い状態のものも、混じっていたかもしれない。
「ありがとうございます」
掠れた声で答え、一色さんは儚げな笑みを浮かべた。蕾のように可憐な表情だった。




