後編
曲が決定してからというもの、溝口さんと比べられるのが嫌で、私なりに練習を頑張った。
学校生活の方は、卒業式の練習をメインに進んでいく。最後の調理実習があったり、委員会で下の学年への引きつぎがあったり、六年生を送る会があったりした。
給食後の休み時間は、私の進学する中学校とは別の学校になってしまう友人たちと、たくさん話をすることを心がけた。
そんな感じで毎日が、学校との別れを意識させるものだったり、それでいていつもの延長のような感じだったりして、まるで波間にちゃぷちゃぷと顔をだしてるかのような気分だった。
いよいよ卒業式が終わっても、直ぐにまた皆と会えるような気がして、それほど落ち込んだりはしなかった。それより私にとっては、週末の発表会の方が気がかりだったのもある。
なんとか苦手な部分は、弾けるようになっていた。けれど発表会は小さい子順なので、私より生まれ月が遅い溝口さんの次に、私がピアノを弾くことになるのだった。
失敗するわけにはいかない。……そう思った。
発表会の日の朝先生が急ぎ足で、会場の準備室にいる私のところへやって来た。
「桂木さん、溝口さんが出られなくなっちゃったから、五年生の吉田さんの次になるわね」
「えっ! 溝口さん、どうしたんですか?」
「最後の体育の授業で、バスケットボールをしたらしいの。それで突き指しちゃったって。本人は出たがってるけど、まだ腫れが引いてないみたい……。ランクを落とした曲に変更したところで、しばらく弾いてなかった曲をいきなり弾くのも、ねぇ……?」
とても複雑な気持ちになった。かわいそうだ、とも思ったし、これで比べられなくて済む、とも思った。そんな自分を良い子ぶってるとも、嫌なやつだとも思った。
気持ちがざらざらしたまま、ピアノ発表会が始まった。
自分の番になって舞台に上がると、観客席の後ろの方に立っている、溝口さんを見つけた。目のまわりがうっすらと赤くなっている。腫れてるように見えたけど、それは照明のせいかもしれない。
みんなの前でお辞儀をしてイスに座り、背筋を伸ばして深呼吸をする。
そっと手を伸ばし、鍵盤に触れる。この瞬間が大好きだ。ゆっくりと音を置いていく。音の広がりを意識して、やわらかく、優しく……。
ここは好きな部分。楽譜から想像した景色を音に乗せていく。小鳥の羽や花びらが、風に泳いでいるところを思い描く。なだらかに、見えない背中の羽を羽ばたかせて……。
いつも通りに弾いてたら、さっきの溝口さんの顔を思い出した。きっと悔しかっただろうな、怪我をしちゃって。指、まだ痛むのかな。小学生最後の発表会、区切りの年だもん、きっと出たかったよね。
曲はそろそろ、溝口さんの得意なところに差しかかる。いつも聴いてた彼女の演奏。彼女はどんなことを考えながら弾いていたのだろう。
ーーそのとき、私の中で何かが起きた。
彼女の音が、すぐ耳元で聴こえて来たのだ。それに重なるように、自分が練習していたときの音。……それから、彼女の声!
ーー指を思いきり広げて、自分の指が鈴になってるところを想像するの。鍵盤の上を転がすのよーー
ああ! 同調してる!!
頭の中から音楽が溢れ出す。
転がれ、私の指!
もっと素早く、鍵盤の上で踊るのよ!!
広がれ、私たちの音楽!
これは私たちにしか弾けない曲なの。
私の中の音楽が、まるで静かな水面からわき上がる水泡のように、ぼこりと持ち上がり、弾けて広がっていくかのよう…………。
自信が持てなかった部分を弾ききり、曲調は次第に緩やかな部分へ戻っていく。
最後の一音を弾き終わると、何だかボーッとしてしまった。沸き上がる拍手と歓声に我に返る。慌てて立ち上がり、舞台の中央でお辞儀をした。
「桂木さん! 素晴らしかったわ!!」
舞台の袖に引っ込むと、先生が興奮した顔で迎えてくれた。
「あ、いえ、あれは……」
何て言えば良いのだろう。あの体験を話すべきか、……。
ふと見ると、奥の方に溝口さんがいた。いつかのように視線が合う。
困ってるような、それでいてどこか嬉しそうな、そんな不思議な顔をしている。と、目が優しくなり、口角を上げて首を傾げて見せた。
わあっ、そんな表情もできるんじゃん。何だか嬉しくなってくる。
「ねっ、言ったでしょ? 桂木さんと溝口さんは似てるのよ!?」
先生は私たちの様子に気づかず、興奮した声で早口にしゃべった。その声が聞こえたらしい溝口さんが、ふいっと横を向く。
ああ、そうか。彼女も先生にさんざん言われたんだな。私たちの年齢は、こういう事を何回も言われると嫌な気分になる。先生には、それが分からないのだろう。
私は溝口さんの側へ行った。黙って彼女の怪我をしてない方の手をとる。彼女が不思議そうに私を見る。
「改めてよろしく、同級生」
私たちは4月から、同じ中学の生徒になる。
舞台の上に飾られた、春の花の香りが漂ってきて、私たちを包み込んだ……。
おしまい