あなたの名前を呼びたくなくて
『ここまでようこそ、次代の英雄。私はこの組織『デウカリオン』の教導者を担っている者だ。まぁ、リーダーみたいなものだと思って構わないよ』
油断なく見遣る憂姫の前で、立体映像に映し出された女は朗々と話す。
蒼氷のような薄青の短髪、真っ白な法衣の女性。年齢は二十代半ばほどだろうか。
親しげな語調と相反して、容姿は映像越しにも血管が透けて見えるほど痩せており、対照的に両目がギラギラとした光を放っていた。
「デウカリオン……? 氷室」
『…………』
聞き覚えのない名前について問うが、管制しているはずの氷室から返事はない。どうしたのだろうか。
こちらから確認する手段がない以上、憂姫は話を進めることにした。
「……。それで、そのデウカリオンとやらの首魁が私に何の話ですか?」
『言った通りだよ。君には利用価値がある。お互い暇じゃない身上だし単刀直入に言うけど――どうかな? 我々の同志になるというのは』
「仲間になれ、と?」
『そうだよ、汐霧憂姫。私は君が欲しい。君は我々を憎んでいるだろうけど、我々も何人もの同志を君に殺された。君達の求める少女はこうして生きていることだし、和解は難しくないと思うんだ』
「……」
憂姫は映像から目を外し、クロハの方を見る。群青と赤のオッドアイに、憂姫の知る彼女の気配はない。
再び映像を見上げ、憂姫は別の問いを口にした。
「なぜ、私を? このまま殺してしまえばいいでしょうに」
『利用価値があると言ったよね? その言葉通り、君が我々に必要な人材だからだよ』
「……」
『差し当たってはこの後来るだろう儚廻遥への抑えかな。本当なら藍染九曜を当てたかったんだけど、君が倒してしまったから』
「そんなことを私に教えてしまっていいんですか?」
『誰だって考えれば分かることだからね。あのモルモットちゃんと彼では化け物としての格が違う。もちろん対応策はあるけれど、後の展開を考えれば彼も同志に加えたい』
「……同志、同志と……随分基準が低いんですね」
宗教家のような言い回しながら、彼らのように厳格な響きではない。せいぜい仲間という言葉を入れ替えただけに聞こえる。
憂姫がそう言うと、返ってきたのは苦笑だった。
『まぁね。別に宗教してるつもりはないから。私は私の為すべきことを為すだけ。そのために必要なら手段は選ばないよ』
「為すべきこと……?」
『旧東京コロニーとの戦争。そしてこの世界全てのパンドラの殲滅』
「……正気ですか?」
『いや、狂ってるよ。私も研究者だから人類がパンドラに勝利できる確率くらいは知ってるし』
「それが分かっていて、どうして……」
『私がこう考えるようになったのも理由があるってこと。君もここに来るまでにピクシス教団が何かくらい調べただろう?』
「……」
聞かれ、憂姫は慎重に情報を整理する。
パンドラを崇拝する邪教。数々の犯罪、テロ行為に手を染めていた。『神子』としてクロハを生み出したが、当時の【ムラクモ】によって全滅した。
……過不足ないはず、と判断して慎重に頷きを返す。
『塔管理局の専属研究者だった私は、テロのどさくさで彼らに誘拐されてね。脅されて協力していた。そこで見たよ。パンドラに魅入られた人間の下劣を……』
「……」
『奴らはパンドラがいる限り絶えることはない。だから諸共に滅ぼす。……まぁ、要するに復讐だね。それが一つめ、私個人の理由かな』
「だったらどうして東京コロニーと戦争を? 手を取り合えばいいでしょう』
『うん、最初はそのつもりだった。でも今の東京コロニーはもう駄目だ。三年前の第二次東京会戦以降、パンドラの動きが小康状態にあるからと言って、奴らの殲滅より領土拡大に始まる国民感情重視の政策を取るようになった。挙句、そのせいで生じる負担を全て一人の少女に贖わせている』
その話に、憂姫は心当たりがあった。
あの楽園で眠りについていた少女。ひと時の休みもなくコロニーのために祈り続ける存在のこと。
「……『結界装置』」
『知っているなら話は早い。彼女は無理な魔法行使が祟ってもう保たない。保ってあと二、三年……だが彼女の後継者は未だいない。アマテラス計画も凍結された。あれほどの力があと数年のうちに見つかる可能性はゼロと言っていいだろうね』
つまり、今の大結界の崩壊は確実に起こるということだ。それも数年後という極めて近い未来に。
憂姫の背筋が凍る。もしそうなれば、その時生じる混乱は計り知れないものとなるだろう。
『で、そうなると大結界は二十年前の第一次東京会戦時に倣うだろう。千人単位の魔導師が日毎交代して祈りを捧げて結界を維持する。しかしそれでも結界の縮小は避けられないだろうね。コロニーの防衛線は後退し、想像もつかないほどの人間がコロニーから追放されるだろう。すると……』
「……国民権を奪い合う紛争が起こります。それも、魔導師と一般人が入り乱れた泥沼のような紛争が。そんな状態でパンドラに対抗できるわけありません」
『流石、聡明だね。私も同じ見解だよ。結論すると東京コロニーは崩壊する。民は一人残らず死に絶えるだろう。それが分かっていて、座して滅びを待つほど私は潔くない。それが二つめの理由だよ』
即ち新たなるコロニーの創造。パンドラの殲滅に特化した国家を作り、東京コロニーを滅ぼし、絶滅戦争の狼煙を上げる。
……筋は通っているように聞こえる。東京コロニーとの戦争にも勝算はあるのだろう。
なにせ相手は三年防衛すれば勝手に滅ぶのだ。アマテラスという絶対防御の砦があるなら、その程度の篭城戦は決して不可能じゃない。
『そこで話が最初に戻る。汐霧憂姫、君を我らの同志に加えたい。東京コロニーの滅亡はもう避けられないけど、失うには惜しいものもたくさんある。君達がいれば、そうなる前に彼らを制圧することも不可能じゃないんだ』
「……どうでしょうね」
『君の家族や友達くらいは迎え入れてあげてもいい。同志を殺されたことも水に流すよ。私が責任を持って皆を説得してみせる。だから……』
「お断りします」
瞬間、空気が緊迫した。
画面の中の顔が歪む。
『……理由を聞いてもいいかな』
「理由? そもそもクロハちゃんを攫った挙句、人格を喪わせた相手に交渉の余地なんてありません」
『おかしいな。今、そんなスケールの話はしてなかったはずなんだけど』
「奇遇ですね。私もそんなスケールの話をするためにここに来たわけじゃありませんから。私がここに来たのは、クロハちゃんを救い出すためです」
確かに興味深い話ではあった。だが、それは憂姫がこの場にいる理由と何一つ関係がないのだ。
何より……
「家族を迎え入れる? クロハちゃんを攫ったあなた達がそれを言うんですか。――あなた達は殺します。ここで、一人残らず」
『……視野の狭い。いいよ。愚か者ならいらない。君こそここで死ね。同志諸君!』
呼び掛けに、その場にいた者全てが憂姫に殺意と武器を向ける。
包囲網の中央で憂姫はナイフと拳銃を両手に展開する。眼球の裏側で彼我の戦力差、自身の生存率、突破口と取るべき行動が目まぐるしく導き出されていく。
『藍染九曜との戦闘で君の体はもう限界のはずだ。この人数相手に勝ち目なんてない。自害を勧めるよ』
「……そうかもしれないですね」
今の憂姫は魔力も体力も空に近い。負傷は重く、血もかなり流している。魔法行使はあと数回が関の山で、普段通りの動きなど望むべくもないだろう。
――けれど。
「教導者、でしたか? あなたは何も分かってないんですね。ハッ、研究者としてのお底が知れます」
『……何?』
「確かに私は満身創痍です。普段の半分の力も出せないでしょう。けれど、だからなんですか? あなた達が私より強くなったわけでも、私があなた達より弱くなったわけでもないでしょうに」
憂姫は口角上げて意地悪く笑う。ちょうど、どこかの馬鹿を真似るように。
こういう夢想家の手合は見下されることを極端に嫌う。そこに遥直伝の嘲笑まで加えたのだ。平静さなど保てるはずもない。
そして、統率者の激情は簡単に末端まで伝播する。
『……殺せ!』
故に号令の瞬間、憂姫は跳躍した。
怒りに支配された集団に、回避位置を予測する理性など存在しない。馬鹿正直な十字砲火は憂姫の残像を撃ち抜いて無為に終わる。
憂姫はシャンデリアに飛びつき、腕一本で更に跳躍。天井に着地する。
地上からの高さは25メートルほど。これだけ距離があれば、通り一遍の攻撃は見てから躱せる。
つまり、観察するだけの余裕が生まれるのだ。
殺到する弾幕を天井を疾走することで回避しつつ、地上の陣形を俯瞰する。
敵の想定の裏をかいたおかげで早くも陣形には綻びが生まれている。それらの数、強弱、突破する手段を割り出す。更にその後の展開を場合分けして分析、生存ラインを峻別。最も可能性のあるラインを絞り込む。
「見えた――」
内装の出っ張りを蹴り付けて斜め下に方向転換し、その先の壁を蹴って鋭角に落下。落下衝撃を利用して滑るように着地し、間断なく疾走に繋げる。
着地の硬直を狙った安直な攻撃を遠く置き去りに、憂姫はついに攻勢に転じた。
付近にいる敵は四人。銃持ちが三人、刀持ちが一人。敵の体自身が壁となって射線を切っているため、他の攻撃は届かない。
――どれでもいい。特に理由もなく刀持ちに狙いをつけ、一足飛びに間合いを詰めた。
迎撃の袈裟斬りが放たれる。
避けても良かったが、敢えて正面から突撃した。
左手の拳銃をフルオートで斉射して他三人を牽制しつつ、右手のナイフで切り結ぶ。
同時マガジンが空となるが、これだけ近ければ同士討ちを恐れて飛び道具は使えない。
無論、両手剣と短剣で鍔迫り合うのは憂姫とて無理がある。
手首の力だけで拳銃を顔面目掛けて投擲する。相手が首の動きで躱した準、力が緩んだのを逃さずにナイフを強振。体勢を崩す。
距離が離れたのを見計らい、周囲の二人が援護射撃を行い、一人が憂姫と刀持ちの間に割り込んで来る。
やはり練度が高い。正規軍とまではいかないが非常に統制の取れた連携を敷いている。個人個人が武功に逸らず時間稼ぎに徹底しているのも流石と言えるだろう。
だが、それでも。
儚廻遥や藍染九曜と比べれば、恐怖するにも値しない。
「【コードシニスター】」
虎の子の魔法を発動。ナイフの強度を大きく引き上げる。
正面、右翼、後方から殺到する銃弾と魔法。正面から七、右翼から三、左右から後方から十二。目で確認するまでもなく、憂姫は全てを把握している。
憂姫は焦らず、しかしこれ以上なく精密に、先頭の銃弾一発だけを斬った。
それだけで充分だと、彼女は読み切っていた。
真っ二つになった銃弾の破片が後方の弾丸と衝突する。威力を損なわせず、軌道だけ逸らされた弾丸が右翼の魔法と正面と更に衝突。魔法が爆散、衝撃。衝突が更に連鎖して憂姫の周囲を結界のように光が乱舞する。
銃器、魔法共に造詣の深い憂姫ならではの近未来戦闘予測、その本領。台風の目のような騒々しい静かさの中で、憂姫は一人その瞬間を待つ。
そして、嵐が明けた。
驚愕の暇も与えず、憂姫は獣の速度で飛び出した。
周りの誰が反応するより速く駆け抜け、刀持ちの三メートル前で跳躍。
旋風巻き上げる迎撃の斬撃はつま先を掠め、今度こそ空を切る。
体が軽かった。
思考が冴えていた。
感覚が澄んでいた。
負傷と疲労は色濃く残っているのに、そうと思えないほど十全に動く。
藍染九曜との戦闘――そして勝利が、憂姫をかつてない高みへと到達させていた。
直上から見下ろした刀持ちの顔は、恐怖に凍り付いていた。
「――シャアッッ!!!」
上下反転しながらの斬首。返り血が銀髪を赤く汚す。
空中から地面を見下ろすと、ようやく駆けつけた信者達がこちらを照準しているところだった。
撃ってこない。着地の瞬間を狙うつもりらしい。
わざわざ隙を突かせてやる趣味もない。
ちょうど横を飛んでいた刀持ちの頭部を掴み、魔力を注入する。
生首を放り、オーバーヘッドキックの要領で自分の落下予測地点に蹴り落とす。
着弾と同時に爆裂。圧縮した魔力が脳髄や頭蓋骨を吹っ飛ばして半径十五メートルを凌辱した。
込めた魔力が少量のため、爆発の規模はせいぜいが小型の手榴弾程度。包囲を崩すにはまるで足りない。
だが――眼球が、歯が、脳味噌が、頭蓋骨が目の前で弾け飛ぶグロテスクな光景は、想像を絶するショックを与える。それが同じ目的で結ばれた仲間ならば尚更だ。
ほら、動きが止まった――
憂姫は勢い良く着地し、一気に包囲を駆け抜ける。すれ違いざまに信者達の腱を切りつけて混乱を長引かせるのも忘れない。
落ちていた拳銃を回収。【カラフル】を使用して【コードリボルバ】に変化させる。
加速できる回数は残りおよそ二回。
たったそれだけで五十人近い集団を壊滅させるのは不可能だ。
ならば狙うのは――彼らの象徴!
「【コードリボルバ】!」
超音速まで加速した憂姫は、周囲の敵を全て無視してアマテラスへと襲い掛かる。
彼女を人質に取ることができれば敵は丸ごと木偶と化す。遥と氷室の元に連れて行けばクロハを取り戻す手段も見つかるだろう。自分に残された唯一の勝機だ。
這うような低姿勢からナイフを振り上げる。
あくまでクロハの体を傷つけないように。超音速衝撃波を叩き込んで血管を圧迫し、意識を奪い取る。
「【守りなさい】!」
ガギン、と鈍い音が響く。
憂姫のナイフはアマテラスの首筋紙一重で停止していた。
結界魔法による防御だと理解して、傷つけずに攫うのは不可能だと判断する。
方針を変更。手足を切り飛ばして動きを封じ、痛みと出血で意識を奪う。
「はあぁッ!」
叫び、目にも留まらぬ連撃を見舞う。人体急所を精密に穿つ乱舞がアマテラスの全身を滅多打ちにする。
一撃でも通れば――三百六十度から斬撃を叩き込む憂姫だが、その全てが硬質の感触となって返ってくる。
「どれほど鉄の棒切れを巧みに振り回したところで、私の結界は貫けない」
「……ッ!」
「邪魔です。【消えなさい】」
羽虫を払うような仕草でアマテラスが腕を振るう。
視覚的な変化は何もなかったが、何か嫌なものを感じて憂姫は飛び退いた。
見ると、それまで憂姫のいた床に力任せに削り取ったような跡が出来ていた。
不可視の鉄槌。圧縮した結界を撃ち出し、解放することで着弾した箇所を消し飛ばす。結界系統の数少ない攻撃魔法として有名な魔法だ。
「安心しなさい。一息に殺したりなどしません。――この世で最も素晴らしい人物を殺めた罪を贖わせる。万死を経て地獄に落ちなさい」
「ッ、何を言って……」
「藍染九曜は、あなた程度に殺されていい人間じゃなかった……!」
「!」
突きつけられた手のひらから再び無色透明の結界が乱射される。
憂姫は勘に任せて動き、何とか避ける。アマテラスの殺意は分かりやすく、狙いを読むのは難しくない。
しかし当たれば即死かつ不可視の大物量を躱し続けるなど、そう長くは続かないだろう。
どうにか隙を作る必要がある。憂姫は言葉を舌に乗せる。
「師匠に恋でもしてたんですか? 超笑えます……!」
「理解出来ませんか。かつて彼に学んだというのに。なんと愚劣な女でしょう。軽蔑を差し上げます」
「師匠のことを分かってないのはお互い様でしょうに。あれ人殺しのロクデナシですよ?」
「……想像以上に頭が悪いようなので言い直しましょう。分かったような口で、あの人を語るなッ!」
挑発により狙いが更に分かりやすくなる。が、同時に結界の量も増えた。プラスマイナスゼロ、どころか若干のマイナスだ。
仕方なく憂姫は接近を諦めて距離を取る。巻き込まれるのを恐れてか信者達も距離を空けているため、少し休むだけの時間は確保出来る。
しかし、状況は悪い。ナイフであの強度の結界を突破するのは不可能だろう。
魔力は加速魔法あと一発分。加えて体力も底が見えてきた。その二つが尽きてしまえば、流石にどうしようもない。
『……もう諦めたらどうかな』
あろうことか事の次第を見守っていた教導者からもそんな情けを掛けられてしまう始末だ。
『君は頑張ったけど、それも限界だ。アマテラスは絶対に殺せないし、同志達だって数だけ見れば倒せたのは一人だけだ。君に活路はない』
「余計な……お世話です」
『……気づいてないようだから教えてあげるよ。君、さっきから呼吸のたびに血を吐いてる。内臓か骨か……あるいは両方を負傷してるんだろ? 痛々しくて見てられないよ』
言われ、憂姫は口元を拭う。手の甲に毒々しい色の血がべったりと張り付いていた。
藍染との戦闘で破裂した内臓のものか、それとも折れた骨がどこかに刺さったか。どちらにせよ放っておけば命に関わるという意味では大差ない。
……分かっていた。
人道に悖る手段を使えるだけ使ってまでたった一人。アマテラスは難攻不落。敵は多くが健在で、こちらの攻め手は尽きかけている。
……少し癪だが、認めるしかないらしい。自分一人では奇跡でも起きない限り死ぬし、そう都合良く奇跡が起きるはずもない。どうしようもなく詰んでいる、と。
だから、本当に癪だったけど、憂姫はその名前を呼んだ。
「助けてください、遥」
同時、大聖堂が太陽が雲で陰ったかのように暗くなる。
何事かと憂姫以外の全員が辺りを見回す中、一つの声が――大声でも、誰かに聞かせるような声色でもなかったのに――響いた。
「あ、バレてた?」