天空大聖堂
風邪ひいて治ったけど頭痛い。
だから許してください。お願い。
◇
――多くの人を殺してきた。
自分の無知で妹を殺し、自分の無力で妹を殺し。
その死体を食って手に入れた力で彼女たちの仇を殺し。
最後の妹を救うために罪のない人々をたくさん殺した。
クレハは知っている。
そんな自分が死ななかったのは、自分を殺せる人が誰もいなかったから。できる人がいなかっただけという話。
だからこうして自分を殺せる人が現れた今、塵も残さず滅却されるのはどこまでも当たり前のことだ。
世界はそうしてつつがなく回っているのだと――あの女研究者を殺した時にそう悟った。
死ぬことに抵抗はない。
クロハを預けられる人は見つけた。
それどころか、自分には縁がないと諦めていた名前まで贈られてしまった。
これ以上を望むのは強欲というものだ。
なら、いいだろう。
がむしゃらに走り続けてきたから分からなかったけど、ようやく自覚できた。
ワタシは、もういい。
もう……疲れた。
地獄の底で……少し、休もう。
…………。
「……そう、思ってたのに」
一面の茜色。
見上げた果てなき空の色。
天国と呼べるほど純粋ではなく……しかし地獄と呼ぶにはあまりにも綺麗だった。
眩しさに滲む視界の中、クレハは空へと手を伸ばす。
身体中が壮絶な痛みを発していた。それ以上に何かとても大きなものが抜け落ちたような喪失感があった。
苦痛と喪失感。
クレハの人生を象徴するもの。
それらが何よりの決め手となった。
「なーんでワタシ……生きてるのかなぁ……」
クレハは生きていた。
血塗れで、ボロボロだけど、生きていた。
自覚と共に生まれた感情は複雑で、とても言葉になど表せない。
知らずのうちに限界に達し、伸ばした手が地面に投げ出される。
その先に、背中が一つあった。
「……お兄さん」
言葉に引かれたように、背中が翻る。
振り返ったその男の顔は、クレハ以上に血塗れで、どういうわけか驚愕が張り付いていた。
その男……儚廻遥は戦慄したような声色で、
「……意識あるのかよ。破壊想直撃してんだぞ」
「知らないよ……だから聞いてるの。なんでワタシ生きてるのって……」
「そりゃ殺してないからな。僕が壊したのはお前の再生力だけだ」
つい先日のC区画襲撃にて、遥は『自分に掛けた破壊想を破壊する』という荒業を成立させている。
クレハの再生力の異常な部分のみを破壊することは、多少繊細な操作が必要なものの、それほど難しいことではなかった。
だが、クレハが聞きたいのはそんなことではない。
「そうじゃなくて……なんでワタシを殺さなかったのかって、そう聞いてるの。そんな面倒な手間まで掛けて……お兄さんなら、出来たでしょ」
「いやぁ、それがうっかりクロハと約束しちゃってさぁ。それも妹の名に懸けて。約束は守らなきゃいけないし、妹の名前を汚すわけにもいかないだろ?」
「お兄さん、お願い。嘘はやめて。こんなに正面から接してくれたのに、今更誤魔化すなんてずるいよ。……ワタシはお兄さんのこと、ちゃんと知りたいよ」
遥の過去を見て知った。彼は塵ほども自分に価値を置いていない。苦しみも、感情も、言葉も、全ては妹を救うためのもの。
逆説的に、妹を救うためならば、それら全てを捻じ曲げることにも一切躊躇わない。
妹の名に懸けた誓いも、約束を守るという信条も。
出来るだけ、極力、無理のない限りで叶えようとする――そんな努力目標に過ぎないのだ。
だからこそ、明らかにその範囲から逸脱してまで自分を殺さなかった理由がクレハには分からなかった。
遥は困ったような苦笑を浮かべる。
「……はは。やっぱり自分のことなんて知られるものじゃないな」
「お兄さん……」
「分かったからそんな声出すな。お前を殺さなかった理由だろ? あー、どう言ったもんかな……」
そう言って考える素振りを見せること数秒。
やがて内容がまとまったらしく、遥は口を開いた。
「……まず、お前を殺さなかった一番の理由はクロハのご機嫌取りだ。アイツは僕が死んだ時のバックアップだから、出来る限り望みを叶えて好感度を稼いでおきたかった。そこは誤解しないで欲しい」
「……出来る限りってのがミソだね」
クレハが言うと、遥は肩をすくめた。やり辛いったらないな――そんな心の声が透けて聞こえる。
「そうだね。じゃあ他のどうでもいい理由だけど……その前に。僕にとっての敵とは、妹を救う目的の障害となった存在だ。敵を殺すのは、もう二度と邪魔をされないようにするためだ」
「……うん。知ってるよ」
好悪の関係なく、遥は敵になった存在を等しく葬ってきた。
「そう考えると、お前は確かに敵だった。激しい戦意と殺意を持った極めつけの難敵だったよ。だから殺すのが一番だってのは間違いない。今でもそう思ってる」
「……じゃあ、どうして?」
「お前からは、敵意と悪意は感じなかったから」
「…………っ!」
「そんな敵は初めてだったからさ、驚いた……驚き過ぎちゃって、どうにも殺す気になれなかった」
再び敵として自分の前に立つ姿が想像出来なかった。
殺さなくても、もう二度と敵にならないと思えてしまった。
「まぁ……それだけだよ。僕の理由なんて本当にそれだけだ。たったそれだけのことで、お前はこれからも生き続けなければならなくなった。……恨んでくれて構わない」
「……いいよ、そうやって悪者にならないで。うん、でも、そっか。そっか……」
クレハは何度も「そっか」と繰り返す。遥はその傍らに立ったまま、沈黙を守る。
燃える血ような夕暮れの中、クレハは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ワタシさ……どこで間違えたのかな」
「……」
「自分なりに一番いい道を選んできたつもりだったの」
「……ああ」
「でもね……間違えたことをしてるって、間違えた道を進んでるって、自分でも分かってたんだ」
「ああ」
「もしかしたら……待ってたのかも。誰かが止めてくれるのを……」
「ああ……」
「だから、お兄さんに託したいの。あの子の未来を、幸せを……どうか、どうか。お願いします」
「――ああ。任せておけ」
打てば響くその心地良さに、クレハは微笑みを浮かべた。
ならば自分はここで信じて待とう。みっともなく生き恥を晒そう。
「ここで休んでいろ。後で必ず迎えに行く」
「……ん。じゃあ、待ってる」
それが、最後の会話。
瞬きを一つ挟むと遥はいなくなっていた。
「……なにが『それだけ』だよ。頑張りすぎでしょ、お兄さん」
ばーか、と罵倒未満の悪態が空に溶けていく。
あんなにも血反吐を撒き散らしておいて、全くどの口がそんなことを言うのか。感謝の一つや褒め言葉の二つくらい、素直に受け取ればいいのに。
誰が見たって、それだけのことはしてるじゃないか。
「ねぇ。オジサンも、そう思うでしょ」
「…………」
向けた言葉の先。誰もいなかったその空間に、遥と入れ替わるように一人の男が姿を現わす。
藍染九曜。『霧の魔人』の名を冠する最強の凶手が、そこにいた。
藍染は呼ばれたのが心底意外だったようで、返答には少し間が空いた。
「……気付いていたのか」
「お兄さんもね。あは、実は暗殺者、向いてないんじゃない?」
「…………」
「冗談だよ。どこか怪我してるんでしょ……違う?」
聞いておきながら、クレハは半ば確信を持っていた。
そうでもなければ自分程度が藍染に気づけるわけがないし、何より遥が全く急ぐ様子を見せず、長々と自分との会話に付き合っていたことからある事実が導けるからだ。
藍染は汐霧憂姫と戦い、負けた。
そして致命傷とまではいかずとも、概念干渉でも消し切れないほどのダメージを受けたのだろう。
「言い訳はない」
「いらないよそんなの……それより盗み聴きの謝罪ちょうだい。これでも乙女なんだよワタシ」
「それは……すまなかった」
「あはは。いーよー」
ケラケラと笑うクレハの様子に、藍染はからかわれたことを察し、押し黙る。
魔人と畏れられる殺戮機械の姿としてはひどく人間らしい姿だった。まるで年頃の娘を持つ親のような……。
……いや。
ような、ではない。
「許すついでにパパって呼んであげよっか?」
「いや……やめてくれ。重過ぎる」
「えー。ずっと全然父親してくれてなかったんだから今日くらいいいでしょ?」
「……。すまなかった」
「ん。もういいよ」
「……いつから気付いていた?」
「んー、実は今。確証なかったからカマかけてみたの」
「…………」
「前から『共有』の相性いいなーって思ってたんだけど……やっぱりかぁ」
遥と一番最初に戦った時のことだ。
クレハが使った縮地、憂姫や藍染が用いる影の歩法は臨戦態勢の遥にすら通用した。
『共有』は対象との相性で深度が変わることとか、他にも、藍染と自身の体組織を鑑定した結果それなりの数字が出たとか……だが、まぁ、そんなことよりも。
「あは……親娘の勘ってやつ?」
「……そうか」
「うん。ねぇ、オジサン」
「なんだ?」
「ワタシが生まれたのは、オジサンのせい?」
「ああ。そうだ」
もう二十数年も前の話になる。当時東京コロニーには一人の英雄がいた。
非正規軍という名の愚連隊をまとめ上げ、誰も寄せ付けない実力を誇り、Sランクという枠組み自体をその身一つで作り上げた伝説の魔導師。
【死線】と呼び畏れられる、その魔導師。
彼女がいなければ東京コロニーはとうの昔に滅んでいたとする者も少なくない。
だが、強過ぎる光は強烈な闇を生み出す。
複数の軍高官、上位研究者が結託し、彼女を殺害する計画を立てた。その一つが藍染による単独暗殺だった。
そうして藍染は万全を期して【死線】に襲い掛かり、そして――
「完膚なきまでに敗北した」
「…………」
「彼女は命どころか腕一つ取らなかった。……代わりに俺から『信用』を失わせた」
「……それで」
「ああ。研究者共は俺に遺伝子情報の提供を要求した。俺は呑み、そしてお前が生まれた」
提供した遺伝子情報がどこをどう巡ったのかは知らない。
だが、結果としてそれは教団の手に渡り、強力な魔導師の遺伝子によって失敗続きだった彼らの計画が初めて成功。クレハが生み出され、彼女の妹達が生み出され――多くの不幸が生み出された。
全ての始まりにして、元凶。そう詰られても藍染は反論しなかっただろう。
「後悔してるの?」
「……ああ。きっと」
「じゃあ、オジサンが組織にずっと手を貸してくれてたのは、ワタシのため?」
汐霧憂姫を捕縛するために雇った。始まりはそれだ。間違いない。
だが、そこから先。クロハの存在が確認されて憂姫の身柄が不要となった後も、藍染は変わらずクレハ達の組織に手を貸し続けた。
もちろん組織が莫大な金を払い続けてきたから、というのもあるだろう。
だがそれだけでは他に幾らでも仕事のある【トリック】の頭領が自ら留まる理由にはならない。暗殺者を防衛の要に起用するような、一見して間違っている戦略を取る組織ならなおさらだ。
果たして藍染の答えは、
「さあな……」
「もう、ちゃんと答えてよぉ」
「俺自身よく分からん。金、【死線】を継ぐ者の存在、結界が完成した場合の展開。それだけが理由じゃなかったのは確かだ」
「ふうん……」
合理的な判断――とは言い難いが。
それなりの理由があって、肉付けとなるだけの材料があった。そういうことだろう。
やはり、魔人などと畏れられる割にはやたらと人間臭いが。
「お前は……」
「?」
「お前は、恨んでいないのか。知っていたなら、なおさらに」
「ああ……まあ、ねぇ。恨んだし、ちょっと前までずっとそう思ってたけど……」
あの地獄に誕生するきっかけを提供した男。恨んだし、憎んだし、殺したいと思っていた。
だが、不思議と今はそんな気分になれない。それが何故なのかは何となく分かった。
「オジサン、あんまり悪くないもの」
「…………」
「そりゃちょっとは悪いけどさ。あそこが地獄だったのはあそこにいた連中のせいだよ。そいつらはちゃんと苦しめて殺した。だから……いいの」
「……冷静だな」
「あはは、だねえ。なんでだろ」
嘯きながらも、理由は分かっている。
遥が破壊したもの、クレハの再生力。クレハの禍力の結晶そのもの。
禍力は人格に強い影響を与える。
人間への憎悪や破壊衝動。怨念と殺意。妹達を喰らってから絶え間なく体を灼いていたそれらが、綺麗さっぱり消えているのだ。
……妹達から継いだものがなくなってしまったのは、少し寂しい。
だが、自分がそれに振り回されることこそ、優しい彼女達が最も望まないことだろう。
もう妹達の支えがなくても、自分は歩くことが出来る。
それが出来るくらいには、強くなれたから。
「オジサンこそ、いいの? その話ならお兄さんにリベンジしたかったんでしょ」
「……そうだな。そのつもりだった」
【死線】を殺すために編み出した魔の極致、【霧人】。
彼女亡き今、それが通用するか確かめる術は、その教え子である遥と死合う以外にない。
だが……
「やめておく。……盗み聴きの借りと思え」
「ふふ……そっか」
「安全な場所まで送ろう」
「いい。いらない。ワタシはここにいる」
差し出された手をクレハは拒否した。
確かに体は限界だし、こんな死臭漂う場所に留まるなんて気分のいいものではないけれど。
――ここで待つ、と。
「そう約束したからさ」
約束を信じるだけの信頼を、クレハは遥に寄せているから。
◇◆◇◆◇
「――ひどいにおい。野蛮な獣のにおい」
基地の最上階に辿り着いた憂姫を迎えたのは、そんな侮蔑の色を灯した少女の声だった。
大聖堂。信者全員が入れるようにか、かなり広い。焼けるような夕日がステンドグラスを通して複雑怪奇な彩りを与えている。
声は、その中心にある祭壇から届いていた。
「……クロハちゃん……」
祭壇に膝をつき、祈りを捧げるように瞑目していた少女。
長い黒髪、幼さの残る顔立ち。それは間違いなく憂姫の知るクロハの姿だったが――しかし。
「いいえ。その少女はもうどこにもいない」
少女は立ち上がりながら、目を開いた。
右が群青、左が赤。左目はクロハ元来の色であったが、右目は違う。
かつて藍染と共にいたアマテラス。
彼女の瞳の色だと、憂姫は正確に理解する。
「……クロハちゃんに何をしたんですか」
「答える義理はありません。それより、汐霧憂姫。あなたがここにいるということは、藍染九曜を殺したのですか」
「もう一度聞きます。クロハちゃんをどうしたんですか」
「――なるほど。奸計巡らし魔法を封じ、砲撃で跡形もなく消し飛ばしたと。それならば……あなたは死ぬべき人間ですね」
アマテラスが静かに手をかざすと、辺りに大量にある長机から魔導師らしき信者達が出現する。
数にして20人前後。一様に武装しており、即座に散開して憂姫を包囲した。
こうした事態を想定しての近衛兵のようなものだろう。練度はそれなりに高く、隙も少ない。
更に後方の扉から続々と信者達が駆けつけて包囲に参加を始める。他の侵入ルートを担当していた防衛部隊と言ったところか。
場の緊張が高まる。
誰かが引き金を引けば、その瞬間から大乱戦が始まる――そんな予感が現実のものとなる、その寸前。
『待ちなよ諸君。その娘は殺すには惜しい』
大聖堂の中心に、ホログラムの映像画面が現れた。