血塗れ女の覚醒
朝、私は扉の開く音で目を覚ました。
研究者が二人やって来て、扉の向こうを
顎でしゃくる。
その時が来たのだと、私は理解した。
「ごめんね」
私の腕を枕にして眠っていた甘えん坊な妹の頭を優しく枕に置き直し、起こさないようにベッドを出る。
額に唇を落とし、頭を撫でて、むずがるような様子に苦笑いして……痺れを切らした研究者に腕を掴まれた。
私は逆らわず、静かに部屋を出る。
そして、最後に振り返って部屋全体を見回し、告げる。
「……さよなら」
◇
脱走防止にか手錠と目隠しをつけられ、研究者二人に乱暴に手を引かれて歩く。
その移動中、聞いてもないのに研究者共は私が廃棄処分になったこと、加えてその理由を語った。
――神子は神聖にして不可侵。お前達のようなゴミがその無謬性を脅かしてはならない。
反吐が出る、というのが正直な気持ちだった。だがもう反抗する気力も湧かない。
……やっと死ねる。だからもう、何もかもがどうでもいい。
あの子の顔がノイズのように思考を過ったりもしたが、気のせいだと自分を誤魔化した。
施設の地下、私たちの部屋よりも更に下層へと降りて行く。
地下4階。
目隠し越しにも分かる薄暗さ。
巡回の兵すらいない。
強い閉塞感と寒気を感じる。
いくらか歩き、廊下の果て、最奥らしき部屋の前に連れて行かれた。
研究者の片方が鍵だけ外すと、ガサゴソとマスクか何かを被る音。ややあって手錠と目隠しが外され、扉が開く音。
瞬間、私は背中を蹴り飛ばされた。
背後で扉が閉められる。極めて迅速な対応により、再び鍵がかかる音。
部屋は広く、ゴミで出来た山が大量にあった。
私は一等大きな中心の山の上に倒れ込んだ。
「――ウッ!?」
次の瞬間、私はのたうち回って、吐いた。
部屋を満たす腐臭。呼吸も出来ない。
胃の内容物などとっくに吐き尽くして、血と粘液をゲーゲーと絞り出す。
涙と鼻水と謎の粘着質な液体で全身グチャグチャ。何も見えない。
私は生理的反射に支配されながら、矛盾したことに今度こそ本物の地獄に堕ちたのだと思った。
そう勘違いしてしまうほどに、私の周囲は腐臭と死臭で溢れかえっていた。
息をすることも出来ない。
目を開くことすら許されない。
「ゲホッ、ゴボポッ!! おげえぇぇ……!!」
死の覚悟を決めても、肉体の反射は抑え込めない。
無意識のうちに酸素を求めて呼吸を行い、その度に悶え苦しんでゲロを吐く。そんなことを何度も繰り返した。
――そして、それは起こった。
「うがっ……ぁ……!?」
私が暴れまわった衝撃で、ゴミの山が崩壊したのだ。
私は雪崩や濁流に飲み込まれたように埋もれ、沈んでいく。
塵も積もれば何とやら。
圧倒的な質量に覆い被されて身動きが取れなくなる。
ああ……ここで私は死ぬのか。
……別に。それで、いいか。
目を閉じる。
相変わらず最悪の臭いだが、酸欠で感覚が狂ったのか今なら眠れそうだった。
意識が闇に融けていく……。
永遠の眠りに落ちる……その寸前で。
“――姉さん!”
そんな、ありえない声が、聴こえた。
私はカッと目を開いた。
「ッッッッ……ぁぁぁああああああああああ!!!!!」
咆哮して、全力でもがいてゴミを掻き分ける。
長い時間をかけて何とかゴミで出来た海面から脱出し、その場に体を横たえる。荒い息を整えながら、ふと右手に何かを持っている感触。
目を向ける。
目が合った。
「………………………………え?」
それは、人の顔だった。
腐りかけた子どもの、女の子の顔だった。
私は、その顔に見覚えがあった。
「……ファースト……?」
見間違えるはずもなかった。
私の最初の妹。
一番大事にしてた。
そんな子の顔が……顔だけが。
腐りかけて、私の右手に、あった。
私の呟きに応えるように、ファーストの頭部はポロポロと腐肉を落とし、ポタポタと腐汁を垂れ流す。
その瞬間に至って、私はようやく気づいた。
私がゴミだと思っていた、それらは。
海と呼べるほど一面に広がり、山と呼べるほど積み上がっていた、それらは。
死臭と腐臭を絶え間なく撒き散らす、それらは。
全てが腐り落ち、ボロボロに損壊した、およそ見る影もない。
人の、子どもの、女の子の、私の妹達の。
死体だった、のだ――……。
「――ああ、あ? ……あぁあ!? あ!? あああぁぁあ!! あああぁあああああああああっ!?!!!?!!!!」
私は恐慌して、手当たり次第に死体を掘り起こした。
みんなみんな見覚えのある顔だった。
みんなみんな触れた途端に崩れていった。
「ヒッ……!?」
私は逃げるように仰け反った。その先にも死体があって、ボロリと崩れた。
私は逃げるように仰け反った。その先にも死体があって、グチャリと潰れた。
私は逃げるように仰け反った。その先にも死体があって、ブチリと千切れた。
私は逃げるように仰け反った。その先にも死体があって、グシャッと潰れた。
みんなが私を見てくる。
白く濁った眼球で。あるいは空虚な眼窩の黒で。
みんなが私を呼ぶ。
姉さん。お姉ちゃん。姉さん。お姉ちゃん。
みんなが私に手を伸ばす。
小さな手で。べろべろになった肉が垂れ下がった腕で。骨だけの体で。
「……………………ぁ」
幻視というにはあまりにリアルなその光景を最後に、私は気を失った。
◇
夢の中にいた。
いつもと同じ夢だ。
私と、私の前に並ぶたくさんの妹達。
消えて行った妹達が、じっと私を見つめ続ける夢。
ただ、いつもと違ってみんなの体は死体になっていた。
腐っていたり、白骨が見えていたり、頭や、腕や、それぞれ欠損した部位を両手で抱えていたりして、立ち尽くしている。
その景色は不思議と現実味を帯びていた。
いつもと同じように見えて決定的に違う。
私の罪悪感が生み出した幻想ではなく、妹達の魂が見せている景色だと、心の奥底で理解できた。
「…………」
その時、妹達の集団から一人の少女が進み出る。
腐りかけの体で、首から上はなく、両手で頭を抱えている姿。
私は彼女の名前を呼ぶ。
「ファースト……」
「うん。さっきぶり、姉さん」
腕の中の頭が、優しく微笑む。
それを見て、視界がぼやける。熱い、熱い、涙が溢れるのを感じる。
「ごめん……ごめんね、ファースト……! 私のせいで……私が何もしなければ、みんなは……」
「下衆共に死ぬまで陵辱されてから廃棄処分になってた。……謝らないで。姉さんは何も悪くない。それを言ったら私たちだって謝らなきゃいけなくなるもの」
「……?」
「あの時、姉さんは『生きなさい』って言ってくれた。なのに私は、私たちは、みんな死んじゃった。だから……ごめんね」
「……!!」
違う、と私は首を振る。
みんなは悪くない。悪いことなんて何もしてない――謝らなきゃいけない理由なんてない!
「うん、そうだよ。姉さんは悪くないし、私たちも悪くない。だからもう自分を責めないで。自分を嫌わないであげて。ね?」
「…………」
「もう。頑固だなぁ」
くすくすと笑うファースト達。
俯けていた顔を上げると、そんな彼女達の体がだんだんと透明になっていっていることに気付いた。
なにより、みんな背を向けている。ここではないどこかへ行くように――。
「みんな……!?」
「私たちがここにこうしているのは、姉さんに伝えたいことがあったから。それが終わったから……私たちもいかなきゃ」
今度こそね――と微笑むファースト。
私は縋りつこうとして、見えない壁に阻まれたように届かない。
「嫌だよ、だめ、待って、行かないで……!」
「だめだよ。姉さんはまだ生きてるでしょ。生きてるなら、死んじゃだめだよ。だから夢から覚めて、行かなきゃね」
「行きたくない、生きたくない……! どうせ目覚めてもあの部屋で死ぬだけだ! だ、だったらみんなと一緒に……!」
「だーめ。それ、私たちは嬉しいけどさ。姉さんには心残りがあるでしょ?」
「……っ!」
独り残されたあの子の顔が浮かぶ。
確かにあの子のことは未練だった。けど、だけど……!
「……無理だよ。私じゃあの部屋から出ることもできない。あの子を助けるなんて……」
「大丈夫。夢から覚めても私たちがいるから。見守ってるとか、心の中にとか、そういうのじゃなくて、もっと物理的にね」
「……?」
意味が理解できず首を傾げるが、ファーストは答えなかった。
代わりにファーストは背を向けて、最後に一度だけ振り返った。
「自信を持って、姉さん。姉さんはみんなを、こんなにも多くの人を幸せにしてきたんだよ。それがあと一人増えるだけ。きっと全部上手くいく。だから、そしたら……」
絶対に、姉さんも幸せになれるよ。
その言葉を最後に、全てが白く染まった。
◇
私は目を覚ました。
死体の山の上で、ゆっくりと立ち上がる。
「…………」
抱えていたファーストの頭を持ち上げ、誓いを立てるように、願いを想うように、目線を合わせる。
……生きる。生きて、行かなければならない。妹達が行けなかった外の世界へ、それよりも更に先へ。どこまでもどこまでも、生きている限り、行ける限りに。
あの子を救って、守って、幸せになる。
先に逝った妹達のためにも私はそれを果たさなければならない。いいや、果たしたい!
それは私の中で生まれた初めての欲求だった。どこまでも独善的な、徹頭徹尾自分自身への欲望だった。
だからそうすることにも抵抗はなかったし、躊躇いもなかった。
――大丈夫。夢から覚めても私たちがいるから。
「あぁ……」
ファーストが言っていた言葉の意味。
目を覚ました瞬間に理解していた。
その通りだった。
みんなみんなここにいた。
魂が消えても、残っていた。
彼女達の肉体が。
私は敢えて大きく息を吸い、脳味噌に腐臭を慣れさせる。
その瞬間体内で爆発にも似た激痛が連鎖したが、今更そんなものは苦しくもなんともなかった。
私は呟く。
「いただきます」
ファーストの頭に歯を突き立てた。
肉は腐っていてドロドロだった。
――まずい。
骨も柔らかい。でもまだ硬い。バキバキ音がする。
――まずい。
目玉はすごく生臭くて、塩の味がした。
――まずい。
舌はグニグニしてて、噛むたび血が出る。
――まずい。
脳味噌は溶けて真っ白なジュースになっていたから頭蓋骨を器にして啜り上げた。
――まずい。
まずくてまずくて仕方ない。
――でもファーストの体だから、おいしい。
「……おいしい……おいしい……おいしい……!」
呪文のように唱えながら、わたしは一心不乱に喰らい続ける。
涎と鼻水と胃液と血と脳髄と肉汁と涙で顔中ぐちゃぐちゃにして。
何回も吐いて。
掻き集めて飲み込んで。
泣きながら、死にたくなって。
生きたいから、また食べて。
どれだけの時間が経ったか。
わたしはファーストを食べ切っていた。
最愛の妹は、もうこの世のどこにもいない。
「……だけど死ぬのはわたしじゃない……」
滂沱と流れる涙も拭わず、呟いた。
そして、気付く。
わたしに宿る禍力が、ほんの少しだけ強くなっていることに。
禍力を宿した人体という名の魔力袋。
喰えば喰うほど強くなる。
わたしは周りを見回す。
たくさんの妹達の死体。
一人一人は微弱でも、これだけあれば。
「いただきます」
わたしはすぐ近くにあった死体を貪る。
食べ終わったら次の死体を。
また次の死体を。
次の次の次の次の。
尽きることない死体の山。
喰らっても喰らっても終わらない。
わたしは食べる。
妹達を食べる。
血の味になれる。
腐肉がまずくなくなる。
腐敗ガスが肺を巡るのは当たり前。
それでも涙を流しながら食べる。
咀嚼するごとにその子との思い出がわたしに広がる。
もう魂はないけど。
背負わなくていいと言われたけれど。
それでも連れていくと、そう決めたんだ。
誰一人として置いていくものか。
みんなをわたしの血肉に変えて。
一つの存在に融けていく。
わたしは食べる。
わたしは食べ続ける。
暗闇の中、死体の山で一人。
けれど独りじゃない。
妹達と一緒だ。
もっと一緒になる。
そのためにも食べ続ける。
ガツガツと、一秒だって休むことなく。
食べ続ける……。
「……いただきます……」