縦横霧尽 b
状況と見合わない穏やかさに、憂姫は思わず攻め手を止めてしまう。
「ああ、その通り。俺の干渉の特性は互換。魔法名を『霧尽』という」
「……随分と素直に教えてくれるんですね」
「正体が割れた以上は殊更に隠す意味もない…….あとは俺にこの力を使わせてみせたお前への餞別、そして自罰と言ったところか」
「自罰……ですか?」
「恥ずかしい話、あの弱かった小娘がここまで強くなるなど思いもしていなかった。……ああ。全く、俺の目も節穴だな」
自嘲する藍染。そんな姿に、憂姫は不思議と懐かしさを覚えていた。
『筋がいい。そこの二人、名前は?』
『ユウヒ、サキ。お前達には俺の技術を教えようと思う』
『モノに出来たら?』
『……そうだな。そう長くないだろうお前達の命を一瞬、一秒。伸ばすことが出来るかもしれないな』
あの日、初めてナイフを握って、初めて人を殺したあの日。
あの場所では他の何にも勝る代物を、そんな風に嘯いて。その価値も分からないような子ども二人に惜しげなくくれてやって。
そうだ。依頼や契約が絡まない時の藍染はいつもそうだった。
最強の暗殺者と聞いて誰もが思うような機械じみた殺人者ではなく、その評価に対して意外と自己評価が低くて、無愛想ながらも多少の遊び心を持つ人間。
「――っ!」
降って湧いた恐れを振り払うように十発、二十発と拳銃を連射する。
白銀の魔弾が藍染へと群がるが、彼は防ぐどころか動こうともしなかった。
必殺を期した威力の弾丸が次々と突き刺さる。
しかし藍染に傷はない。どの弾丸も彼に当たった途端に霧散してしまう。
「やめておいた方がいい。魔力を無駄にするだけだ。普通の魔法では概念干渉を貫けないのだから」
「っ……そんなに便利な力なら、どうして最初から使わなかったんですか?」
「どうせお前の仲間がこの状況を管制しているのだろう? よしんばお前を殺せたとして、魔法の特性が露見したら笑い話にもならない」
切り札が何の制約もなく使えるのは、それを知る者がいない最初の一回のみ。概念干渉は切り札でもあるが命綱でもある。
確かにこの力は強力だが、決して藍染だけが持つ力ではない。ただでさえこの後に遥が控えている現状、特性を知られることは避けねばならなかった。
「だが、それも終わりだ」
「……!」
「お前相手にこれ以上の出し惜しみをしていては、この力を知られること以上の損害に繋がる。そう確信した……故に」
瞬間、憂姫はその場にしゃがみ込んだ。
それは何の根拠もない、直感による行動だったが、それが彼女の命を救った。
藍染は真後ろにいた。
今までのような加速ではない。突然虚空から現れた。瞬間転移による挙動。だが、常道の転移とは比べようもないほど凶悪だ。
それまで首があった場所が一閃される。掠った髪が一束ほど消え去った。
憂姫は距離を取ろうと前へと跳ぶ。空中で反転し、予備のダガーを投擲。
ナイフは狙い過たず藍染の首に突き立つが、先の銃弾同様塵と消えてしまう。憂姫の内にあった物理攻撃ならばあるいは、という希望的観測もまた同様に。
「くっ……!」
牽制にすらなかった目の前の現実に憂姫は思考を巡らせる。
概念互換。見たままを語るなら、攻撃を“無”に互換された。
だとすれば、斬撃どころか指先一つ触れられればそれで終わりだ。
一挙一動すら見逃すわけにはいかない。
憂姫は藍染を睨みつけようとして、
「――っ!?」
真上に現れていた気配に気づいた。
馬鹿な、早すぎる。
転移は超高等魔法、一秒以下のこんな刹那で再使用出来るわけがない――。
憂姫は咄嗟の判断でコートを脱ぎ、投げつける。
彼女愛用のそれは中空で広がって両者の視界を寸毫塞いだ。瞬間閃く斬線。袈裟懸けの斬撃がコートを消滅させる。
その僅か一瞬の空隙で、憂姫は辛うじて距離を取ることに成功する。
だがどれほど距離があろうとさしたる意味はない。この程度の距離、今の藍染にはあってないようなものだろう。
「氷室っ、今の転移の分析は!?」
『馬鹿を言うなよ。ボクには目視も出来てないんだぞ。最短でもあと三十秒は』
それ以降の言葉を憂姫は聞いていなかった。コートは失った。打てる手はもうない。
藍染の姿が消える。上、後ろ、前、左、目まぐるしく気配が明滅し、その処理に憂姫の脳がバチバチと灼けつく。
白い燐光は恐怖となって、憂姫の体を動かした。
「ぅあっ――!」
直感任せの回避は今度こそ読まれていた。
上に飛んだ憂姫は、そこでようやく藍染の姿を発見する。
藍染は直上にいた。
その体は、引き絞られた弓のように、解放の瞬間を今か今かと待ちわびている。
「慈悲なき死を」
限界まで溜められた力が解放されるまで――あと一秒。
放たれる一撃を憂姫が対処出来る可能性は――絶無。
死んだ。
「遥っ……!」
――ごめんなさい。クロハちゃんのこと頼みます。
そんな意思を込めて、最期に遥の名前を叫んだ。
少なくとも、憂姫はそれが最期になると思っていた。
「【蕣】」
声が聞こえた。
そして、藍染の振り下ろしたナイフが空を切った。
「む」
手応えもなく、掠った感触すらない。しかし藍染には全てが見えていたため、特段驚きもしなかった。
むしろ助かった憂姫の方が混乱は大きい。死を覚悟した瞬間、気付けば地上にいたのだから。
思わず呆ける憂姫に対し、藍染は極めて冷静に追撃に移る。
凶刃が憂姫に迫り――しかし。
「【薊】」
羽状に展開された薄桃色の巨大なブレードが、その刃を弾き返した。
魔法、ではない。その刃からは魔力を感じない。むしろその逆――
「……え……」
だが、憂姫にとってはどうでもよかった。
自分が助かったことや、防げないはずの藍染の攻撃を弾いたことや、ブレードの正体、一切合切どうでもいい。
そんなことよりも。
耳元で聞こえた声。自分を守るように立つ後ろ姿。
聞きちがえるはずも、見間違えるはずもなかった。
「咲……?」
「あら、正解です。流石に察しがいいですね、ユウヒは」
そう言って微笑む少女の姿に、憂姫の困惑はいよいよ頂点を極める。
艶のある黒髪。深みのある黒目。雪のような肌を臙脂色の着物に身を包むその姿は確かに憂姫のよく知る姿である。
だが、それでも以前との違いを見過ごす事は出来ない。まず硬質な輝きを放つ左腕と左脚。二つのブラッククロームは生身ではあり得ず、つまるところ義体である。
気配も少しおかしい。以前の咲と比べてあまりに力強いのだ。例えるなら魔導師のそれに近いが、それとも少し違う。加えて彼女に魔力資質はないはずだ。
それに、そもそもどうしてここに。彼女はコロニー内の医療刑務所に収監されているはず。
――脱走してきた? 馬鹿な。現実味がなさ過ぎる。
そんな彼女の困惑を打ち破ったのは、氷室の一言だった。
『ああ、間に合ったか。よかったよかった、これでハルカにガタガタ言われないで済む』
「すみません。この体にまだ慣れてなくて」
『調子は?』
「控えめに言って最高です。早くも夢が一つ叶いました」
『それは重畳。というわけでユウヒ、援軍のサキだ』
その言葉が意味するのは、事前に言っていた助っ人の話。
でも、待ってくれ。じゃあ、その助っ人というのは――
「ほら、ユウヒ。立てますか?」
「…………。一つだけ聞かせてください」
「どうぞ。なんなりと」
「これは、咲の望んだことですか?」
「ええ、勿論」
「……ならいいです」
いや、本当はちっともよくないけど。
とりあえず帰ったらあの馬鹿二人は引っぱたこう。頬骨砕く。
差し出された手を取って立ち上がり、憂姫は再びナイフと拳銃を構える。
隣に立つ咲も同様に、生身の右手と義手の左手にそれぞれ小太刀を握った。
「行きます。合わせてください、咲」
「誰にもの言ってるんですか、ユウヒ」
こうして。
第二ラウンドのゴングが鳴った。