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いつのまにか、日が落ちて、辺りは暗くなり始めた。
一日中、霧で薄暗かったけど。
夜はさらにもっと暗かった。
ねっとりとした闇が、絡みつくような暗さだった。
花守様の作った結界の中で、その夜は休むことになった。
ここなら万が一、怪物に襲われても、大丈夫だ。
保存食でさっさと食事も済ませてしまった。
だけど、花守様は、物足りないようだった。
昔のわたしは、食べることにあまり執着はなかったんです。
でも楓が来てから、すっかり食いしん坊になってしまって…
そんなことを言って、花守様はちょっと笑う。
楓はわたしに、生きることは楽しい、って教えてくれました。
楓といると、当たり前の世界は当たり前じゃない。
とても、素晴らしい世界に変わるんです。
…まあ、それは、オレも同意する。
楓と出会う前、わたしは生きることに無頓着でした。
なんとなく、生きていただけなんです。
けれど、楓といると、もっと懸命に生きたくなりました。
あの仔はほら、いつもどんなときも、全力疾走だから。
月も星もない。
暗い空を見上げて、花守様は淋しそうに笑った。
きっと、お前に会いたいんだろうな、ってオレは思った。
まだたった一日、離れていただけだけどさ。
なんと言っても、昨日、婚姻したばかりの新妻だからな。
あんな怪物、さっさと封じて、島に帰りましょう。
気休めじゃなく、オレはそう言った。
そう自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
花守様は、オレを見て、ちらっと微笑んだ。
わたしの力は、植物と呼応しやすいでしょう?
その理由をね?
わたしはずっと、自分が狐ではないからだと思ってたんです。
は、い?
素っ頓狂に聞き返すオレに、花守様は、また少し笑った。
思い返せば、なんとも愚かしいことだと思うんですけど。
いやでも、わたしは、本気でそう思ってたんですよ。
花守様は照れくさそうに肩を竦めてくすくす笑った。
郷の山吹の木がありますでしょう?
仔狐のころ、わたしは、あの木に命を救われたんですけど。
それをね。
自分はあの山吹の精霊で、倒れた狐の姿をもらった。
そんなふうに思っていたんです。
…花守様は、どこからどう見ても、狐だと思います。
オレは大真面目に断言した。
ええ、まあ、狐なんですけどね?
花守様は、また、くくっ、と笑った。
けどまあ、そんなことがあったものですから。
わたしは、楓とは結ばれてはいけないって思ってたんです。
それで、あいつのこと、振ったんですか?
お前が花守様に失恋したのは、オレも知ってるからな。
あのときのお前は、そりゃあもう、見てられなかった。
まあ、そんなこんなで、お前が都に来て。
大王とのあれこれやら、長生族とのあれこれやら。
そういうこともあったんだけれども。
花守様はひどく悲しそうな顔になって苦笑いした。
振った、だなんて、そんなこと、できませんとも。
振った、なんて、そんなこと、思いもしませんでしたとも。
ただ、それはいけないことだ、って。
ちゃんと、断らないといけない、って。
楓には幸せになってもらわないと、いけないんだから。
楓の幸せを、このわたしが壊すわけにはいかないんだから。
楓の幸せは、楓自身が決めることですよ、花守様。
始祖様相手に、また偉そうなことを言ってしまった。
けど、花守様は、怒りもせずに、ちらっと笑ってみせた。
それ、楓にも、言われました。
ええ、それ、実は、わたしも、よく分かってました。
楓の幸せは、わたしが決めることじゃない。
楓がそれを幸せだと言うのなら、って。
だけど、それでも、わたしには…
不幸になると分かっていて、楓にはさせられない、って…
ずっとそんなふうに思い込んでいて…
つまりは、わたしが愚か、なんでしょうけど…
まあ、気持ちは分からないこともないけどね。
なんだかんだ言って、結局、結ばれたんだし。
だからもう、いいんだと思うけどね。
けど、島のご神木がね?
教えてくださったんです。
わたしは、狐だ、植物じゃない、って。
花守様は泣き笑いになっていた。
もう、わたし、なあんだ、って思ってしまって。
そしたら、気持ちが溢れてしまって。
わたしは、楓のことを不幸になんかしない、って。
それが分かって、もう、嬉しくて嬉しくて。
ええ、もう、こんなわたしでもいいって言ってくれるなら。
なにもかも、まとめて全部、差し上げたい、って。
ええ、もう、押し付けてしまいましたよ。
よくもまあ、そんなこと、堂々と惚気られるもんだよな。
オレ、ちょっと、呆れたけどね?
まあ、花守様の本心なんて、とっくにお見通しだし。
郷の全員が、呆れかえっていたのにさ。
たったひとり、花守様だけ、無駄に抵抗してたからね。
だからね、わたしは、ご神木に、恩があるんですよ。
花守様はしみじみおっしゃった。
狐は、受けた恩は忘れません。
あ、ほら、わたしも、自分のこと堂々と狐と言いますよ?
言えるようになったんです。
なんて、喜ばしいことでしょう。
わたしは、ちゃんと、狐だったんです。
楓と同じ、妖狐なんですよ。
何回も言わなくても、知ってます。
という意地悪は言わないでおいた。
花守様にとって、それは、そのくらい大事なことだった。
そういうことなんだろうから。
あの怪物はね、ご神木にとって、大事な方。
その方の変じたモノ、なのです。
ああ、やっぱり、とちょっと思った。
あの、徹底的にご神木の痕跡を踏み潰したあたり。
怪物はご神木に深い関わりがあったんじゃないか、って。
島を護っていたご神木を、邪魔に思っていた。
それだけじゃなかったんですね?
もっと、暗くて冷たく深い怒り、のようなもの…
とでも言いますか…
いいえ。怒りではなく、悲しみ。
そう、悲しみ、という方が、より近いかもしれない。
花守様は、遠く遠くを見つめて呟いた。
ご神木は、わたしに何もおっしゃいませんでした。
それどころか、嘘を貫き通そうとしていらっしゃいました。
結果的に、それで、精霊の力を失うことになっても。
これだけは、本当のことを話すわけにはいかないと。
そう決心しておられたのでしょう。
そのお気持ちも、分かる気がしてしまうのです。
花守様は、ちょっと困ったように視線を逸らせた。
母君に先立たれ、誰にも愛されず、味方もなく。
魑魅魍魎のなかで、育つしかなかった。
卑しい血と蔑まれ、何故にお前だけと憎まれて。
それでも、生き残ったのは、神の血を引いていたからか。
母の出自を恨んだかもしれません。
海人族の血を憎んだのかもしれません。
それでも、大王位を継いだのは、父王への思慕でしょうか。
父王に愛されたかったのでしょうか。
それゆえに、父王と同じ、修羅の道を歩んだのでしょうか。
けれども、彼は、自らの血は次代に遺そうとしなかった。
おそらくは、いずれかの時点で、真実に気づいてしまった。
自らが、大王の血は引いていない、と。
たったひとり、肉親だと信じた人。
その人を、母と自分は裏切っていたのだ、と。
死してなお、恨みと憎しみの塊となってしまった彼を。
助けてほしい、とはおっしゃいませんでしたけれども。
実の父君にとっては、どれほどに、悲しいことだったか。
己が滅ぼされることで、彼の気が済むのなら、と。
おそらくは思われたのでしょうけれど。
徹底的に破壊してなお、彼の悲しみは癒えていません。
花守様の語っているのは、なんの話しだろう?
オレはそんなことを思いながら、ただ黙って聞いていた。
とても、悲しい話だと思った。
彼、とは誰のことだろう?
せめて、彼の痛みの癒えるまで。
これ以上、悲しみを増やさせないように。
それくらいしか、受けた恩を返す方法はないのです。
花守様は、オレをじっと見つめた。
わたしは、世界一の宝物をいただきました。
この上なく、幸せになってしまいました。
この恩は計り知れません。
狐は義理堅い。受けた恩は忘れない。
ただ、以前のわたしなら、己をもっと軽んじていました。
自分より大切なものは、この世界にたくさんあるから。
己はいつかその代わりになれればいいと思っていました。
けど、今は、それはちょっと違うのです。
わたしはもう、わたしのものではありません。
この世界一大切なヒトのものになってしまったのです。
わたしの命も魂も、もうわたしのものではありませんから。
わたしはそれを軽はずみにどうこうはできません。
わたしは、もう、隅々まで、楓のものですから。
そう宣言した花守様は、ちょっと憎らしいくらい幸せそうで。
だから、オレはちょっとだけむっとしてしまった。
もう、早く、寝ましょう。
そう言って、背中をむけたのだった。




