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準備万端整えたオレたちを、丸い結界が覆う。
と言っても、陸上では結界の端は見えない。
すべて整ったところで、花守様は静かに風を起こした。
結界の玉は、ぎりぎり、海の傍に作ってあった。
そして、風に押されて、ぼちゃん、と海に落ちた。
海の中では、さっきのように、丸い玉の形が分かった。
玉はゆっくりと海の底へ沈んでいく。
花守様は玉の底に座ると、静かに琴を弾き始めた。
琴の音に合わせて、辺りの木々はちらちらと光る。
その光が、幾重にも波のように周囲へと拡がっていく。
この森では、霊力は光って見えるらしい。
オレは辺りを警戒しながらも、その美しさに魅了されていた。
ここの森は、とても美しい。
郷の森も、とても綺麗なところだけど。
ここには、また違った美しさがある。
森はオレたちを歓迎してくれている。
なぜだか分からないけれど、そんなふうに感じた。
琴の音は玉から直接、水のなかを伝わっていった。
なずの木たちがざわめくのが、はっきりと分かる。
揺れてざわめき、森が膨張する。
それはまるで、森の深呼吸のようにも見えた。
森そのものが、まるで大きな生き物のようだ。
他の生き物とは、大きさも時間の流れも違っている。
ゆったりとした時間を生きる、巨大な生き物。
森には意志のようなものもちゃんとある。
そして、求めるモノに、必要に応じて力を貸してくれる。
森の力を借りるには、森に行って直接交渉しないといけない。
森もまた、妖狐と同じモノだ。
花守様の言ったことの意味がよく分かる気がした。
ふわふわと揺れる森のなかを、玉はゆっくりと降りていった。
薄暗い底のほうはよく見えなくて、ひどく冷たそうだ。
結界の玉の放つ光を、あたたかく感じた。
外に投げ出されれば、すぐにも命を失う海の中。
結界の玉がとても頼もしかった。
花守様は、琴に合わせてゆっくりと歌った。
ゆらのとの となかにふれる なずのきの
さやりさやさや さやりさや
確か、あの婚礼式のときに披露していた歌だ。
すると、さっきよりもさらに、森の木々が大きく動いた。
明らかに歌の効果は絶大だった。
なずの木々は、全身を大きく震わせて揺れ動く。
まるで、からだ全体で、歓びを表現しているかのようだった。
森は、花守様の歌を気に入ったらしい。
オレにもそれははっきり分かった。
気のせいか、辺りの瘴毒が、少し薄まったようだ。
もしかしたら、森の浄化能力も増幅したのかもしれない。
花守様の歌の力は、なんてすごいんだろう。
オレはつくづく感心した。
それにしても、花守様の歌は素晴らしかった。
お前から、花守様は歌が上手だと聞かされていたけど。
お前以外の前ではあまり歌ってくださらない。
オレも、あの婚礼式のときと合わせて二回目だった。
けど、その声の調子も響きも、とても素晴らしい。
都の歌師にも勝るとも劣らない力量だと思った。
もっと堂々と歌えばいいのに。
いや、単純に、もっと聞かせてほしい。
すみません。下手な歌を聞かせてしまって。
だけど、花守様はすまなさそうにそう言った。
いいえ。とんでもない。
すごくお上手だと思います。
もっと聞かせてください。
本心だった。
けど、花守様は、ちょっと苦笑して、首を振った。
歌の効果を見るために、ちょっと歌ってみただけです。
なずの木の反応は確かめましたから。
もう、十分です。
なんだ。もっと聞きたかったのに。
オレは落胆してため息を吐いた。
楓が、ね?
そんなオレに、花守様は、言った。
わたしの歌を好きだと言ってくれたんです。
上手だとか下手だとかではなくて。
ただ、好きだ、って。
そのときから、これからは、楓の前でだけ歌おう、って。
決めたんですよ。
歌ったっていいじゃないですか。
減るものじゃなし。
オレは少しばかり仔狐みたいに拗ねて言った。
ええ。
でも、決めたんです。
花守様は頑固だった。
わたしにとって、楓は、特別、なんです。
だけど、滅多にそれを形にできないから。
こんなことでも、特別、にしたいんです。
オレはさ。
花守様は、十分お前を特別扱いしていると思ってるけどね。
けど、花守様の言うことも、なんとなく、分かる。
だから、ちょっと残念だけど、諦めることにした。
けど、やっぱり歌のほうが効果はありそうですねえ。
花守様はちょっと苦笑した。
歌には、詞があるでしょう?
詞は言葉。
言葉には霊力が宿ります。
わたしの下手な歌でも効果はありそうですから。
仕方ありません。
楓には何かまた他の、特別、を考えましょう。
そんなふうに、特別、を考えてもらえるだけで、特別、だ。
って、オレは思ったけど。
余計なことは言わないでおいたぞ?
花守様は他にもいろいろと試していた。
けど、結果はあまり芳しくはなさそうだった。
音は水中をうまく伝わるようだけれど。
妖術をうまく伝えるのは難しいらしい。
というより、海の中で術を使ったのはおそらく初めてだから。
なにかと勝手も違ったのかもしれない。
修行の時間さえ十分にあったらな。
もしかしたら、花守様は、会得なさったかもしれない。
けど、そのときは、そこまでの余裕はなかったんだ。
木々に宿る精霊は、とても臆病で用心深いのです。
ここの木々にも精霊はいるのでしょうけれど。
わたしにはまだまだ、心を開いてはくれないのでしょう。
花守様は郷の森の精霊たちと仲良しだ、って。
前にお前は言ってたっけ。
そのおかげで、お前も精霊と会うことができた、って。
だけどさ。
それって、お前、滅茶苦茶、幸運だったんだぞ?
あの精霊たちは、滅多に姿を見せてくれないんだ。
花守様以外じゃ、お前だけだよ。
精霊たちの姿を実際に見たことがあるのはね。
そのくらい、精霊ってのは、普通は気難しいもんだ。
だから、すぐに仲良くなれないのは仕方ない。
時間をかければ、きっとなんとかなるんだろうけど。
その時間が、なかったから。
それは、仕方なかったんだ。
しかし、怪物を封印するには。
どうしたって、森の精霊の助力が必要だった。
やはり、結界の中から、では、遠いのでしょうね。
直接、話しかけるしかありませんかね。
花守様は淡々とそう言った。
けど、直接、って、そもそも無理だろう?
結界を解いたら、海の中にはいられない。
オレたちは、水のなかでは息ができません。
息ができなければ、いくら妖狐とは言え、命は保てません。
仮に、長い時間、息を止めていられる、なあんて。
都合のいい術があったら、話しは別ですけど。
オレは軽い気持ちで言ったつもりだった。
けど、花守様は、それを聞いて、ふむ、となにか考え込んだ。
オレは、なんだかひどいしくじりをした気がしていた。




