第56話 それぞれの闘い
夏が入院してから、六日が経つ。
善次郎は、毎日見舞いに行きたいところだったが、仕事の都合で、一度しか行けていない。
こんな時に限って、大口の商談がまとまりそうなのだ。
夏に会いたい気持ちは強いが、さりとて、仕事を疎かにすることもできない。
夏の見舞いに行きたい。
夏の顔を見たい。
しかし、夏も耐えている。俺も、耐えなければ。
そう思い、善次郎は歯を食いしばって、仕事に打ち込んでいた。
夏の入院費は、治療費や薬代や検査代を含めて、一日で一万も二万も飛んでいく。
保険が利かないから当然なのだが、それにしても痛い。
お金がいくらあっても足りないくらいだ。
これからも、どれだけ掛かるかわからない。
そんなわけで、夏可愛さに、会社を馘になるわけにもいかなかった。
「心配いらないわ。あなたの代わりに、私が、毎日行ってあげる」
「僕もだよ」
美千代は、今週はとても大切な用事があるからと言って、毎日会社を定時に退社し、洋平は塾をさぼっていた。
洋平が塾をさぼろうと、美千代は怒りもしない。
逆に、見舞にも行かず塾へ行っている方が、冷たいと言って怒るのではないだろうか。
ただ、善次郎には、仕事を頑張れと言った。
「私が馘になっても、あなたさえ稼いでくれたらなんとかなるから」
そう言われた善次郎は、その意味が理解できず、首を傾げるばかりだった。
ともあれ、今は美千代と洋平の報告を聞くのが、善次郎にとって唯一の楽しみだ。
夏は、徐々に回復しているようだが、退院の目途は立っていない。
明日こそ、見舞いに行ってやる。
その思いで、今日は帰らない覚悟で、見積り資料の仕上げに掛かっていた。
美千代は善次郎からの電話を受けて、頑張ってと、明るく励ました。
それから、夏の今日の様子を報告する。
善次郎は眼を閉じて、瞼の裏に夏の姿を思い浮かべながら、美千代の報告を聞いた。
閉じた眼から、滴が頬を伝う。
電話を切った後、暫く頬が濡れるに任せていたが、やがて眼を開けると、猛然と仕事に取り掛かった。
明日だ、明日こそ、絶対に夏の顔を見るんだ。
善次郎の胸には、闘志が火の玉と化して燃えていた。
予定通り見積りを仕上げ、朝一番に、クライアントにアポイントを取った。
想定外の速さに、先方はびっくりしていたが、午後から会ってくれることになった。
善次郎の提出した、分厚い資料を眼の前にして、クライアントは驚いている。
焦り、苛立ちながらも、善次郎の仕事は完璧だった。
なぜなら、この商談がまとまれば、善次郎には特別ボーナスが入ってくることになっているからだ。
それほど、会社にとっては大きな受注だった。
ざっと資料に目を通した担当者は、以外にも、その場で即決してくれた。
善次郎の仕事ぶりを評価したのと、その速さに誠意を見い出したからだ。
善次郎にとっては、特別ボーナスがほしかったのと、早く夏の顔が見たかっただけなのだが、それが好結果に繋がった。
早速会社に帰り上司に報告すると、上司はもろ手を上げて喜んだ。
「他社との競合もあったので、我が社が一番に見積りを提出しようと思って、徹夜で作成しました。その甲斐あって、受注が取れました」
わざと、疲れた顔で報告する。
上司は、善次郎を労って、今日はもう帰れと言ってくれた。
これが狙いだった。
お祝いに飲みに行こうとでも言われたら、たまったものではない。
ありがとうございますと素直に応じて、定時前だったが、堂々と退社した。
歩くのももどかしく、善次郎は駅へと、ダッシュで急いだ。
その顔に、疲れなど微塵も浮かんでいない。
夏に会える。
今はその喜びでいっぱいで、善次郎の心はウキウキしていた。
四日ぶりだ。
夏の顔を見るなり、善次郎の胸に、懐かしさが込み上げてきた。
夏も同じみたいだ。
善次郎の顔を見るなり、嬉しそうに何度も鳴いた。
起き上がるまで回復していないのか、横になったままだ。
「少しは元気になったな。よく、頑張った」
そう語りかけながら、ケージの扉から手を入れて、夏の身体を優しく撫でてやった。
その手を、夏がゆっくりと舐める。
一時間ほど夏に話しかけていると、美千代と洋平がやってきた。
「早かったわね。お仕事うまくいったの」
「ばっちりさ。夏の入院代くらいは出るだろう」
「それはよかったわ。夏も頑張っているものね」
美千代が善次郎を押しのけて、夏に触れた。
「おい、お前は毎日来ているだろう。もっと俺に触らせろよ」
文句を言ったが、無視された。
「お母さんは、いつもああなんだ。僕にも、あまり触らせてくれないんだ」
善次郎に耳打ちして、洋平が肩を竦めた。
「まあ、いいか。明日は土曜日だ。二日はたっぷり来れるからな」
善次郎と洋平は、なにやら語りかけながら夏の頭を撫でている、美千代の後姿を目を細めて眺めていた。
三人は病院が閉まるまで、夏の傍にいた。
「明日も来るからな、頑張れ」
善次郎は最後にそう言いながら、夏の頭を撫でて、名残り惜しそうに病院を後にした。




