第36話 猫の恩返し
次の日の朝、善次郎は寝不足の重い頭を抱えて、美千代に言われたように、息子の洋平と顔を合わさぬよう、いつもより早めに出社した。
どうしよう?
そればかりが頭を駆け巡り、昨夜はあまり眠れなかった。
うとうととし出したのは、明け方近くだ。
活と夏も、善次郎と同じく、あまり眠れないようだった。
さりとて、運動会をすることもなく、二匹とも善次郎の傍で、静かに脚を折っていた。
電車の中でも、善次郎はずっと考えに耽っていた。
洋平が自分の顔を見た時、どんな反応を示すだろう。
善次郎には、予測もつかない。
自分は決して、いい父親ではなかった。
もしかしたら、洋平は善次郎のことを、なにか美千代に喋っているのかもしれない。
だとしたら、いい話ではないだろう。
だから、美千代が会わせたくないのかもしれない。
それに、善次郎自身が息子に会いたいのかどうか、自分でもわからない。
そういえば、美千代は再婚しているのかどうか訊き忘れたな。
昨日の様子では、亭主はいないようだったが。
そう考えて、頭を振った。
そんなことは、どうでもいいではないか。
もう俺には、なんの関係もないのだから。
家族でいる時は、妻も子供も省みなかったのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
久しぶりに会ったからなのか?
負い目がそうさせるのか?
いや、違う。
動揺だ。俺は、ただ動揺しているだけだ。
必死に、そう言い聞かせた。
残業を早めに切り上げて、七時過ぎに善次郎が帰宅すると、待っていたようにチャイムが鳴った。
ドアを開けると、美千代が立っていた。
「立ち話もなんだから、中に入れてくれない」
そう言われて、美千代を部屋へ招き入れた。
部屋へ入って、活と夏を見た美千代が息を呑んだ。
昨日はショックで、部屋の片づけをしていなかった。
ベッドは捨ててきた。新しいベッドを頼んではいたが、まだ届いていない。
そんなわけで、二匹にとって隠れる場所がないせいもあったが、活も夏も、美千代を出迎えるように、玄関までやってきていた。
木島さんに続いて二人目だ。
「これは? 」
掠れた声で、美千代が尋ねた。
「猫だけど」
我ながら間抜けな答えだと思いつつ、善次郎にはそれしか言いようがなかった。
「そんなことは、見ればわかるわよ。そうじゃなくって、どうしたのって訊いてるの」
美千代の苛立ちはもっともだ。
善次郎は素直に謝った。
それから、二匹を拾った経緯を簡単に説明した。
善次郎が説明している間、驚いたことに、活と夏は身体をこすり付けるように、美千代の足にすり寄っていた。
美千代の身体が強張っている。
こいつは、猫が苦手だったっけ?
以前、猫は気持ち悪いから嫌だと言っていたのを、善次郎が思い出した。
「あなたも変わったわね」
善次郎の話を聞き終えた美千代が、ため息をついた。
眼は、足元の二匹に向けられたままで、身体の硬直は解けていない。
と、いきなり活が腹を出した。
そんな仕草は、善次郎にも滅多にしたことがない。
なぜだ? 猫が苦手なのに、こんなに猫に好かれるなんて。
善次郎が不思議に思っていると、なんと、夏までもが腹を出したではないか。
善次郎は驚いた。
善次郎も羨む態度を二匹にとられた当の美千代は、困った顔をして善次郎を見た。
どうしてよいかわからないのだ。
「撫でてやれよ。こいつらが腹を出すなんて、俺にも滅多にそんなことはしないよ。それが、初めて会った人間に腹を出すなんて、おまえは、とんでもなく幸運だ」
その言葉に気をよくしたのか、美千代が恐る恐るといった態で、活の腹に手を触れた。
その途端、活がニャーンを鳴いた。
慌てて美千代が手を引っ込め、再び善次郎を見る。
「怒っているんじゃない。甘えているんだよ。その証拠に、眼をみてごらん」
確かに、活は目を細めて、気持ちよさそうにしている。
美千代が、再び活の腹に手を置いた。
もう一度、活が鳴く。
今度は手を引っ込めずに、そのままゆっくりと腹を撫でていく。
活の喉から、ゴロゴロという音が聞こえる。
美千代も慣れてきたようだ。
もう片方の手で、夏も撫でる。
二匹はさも気持ちよさそうに、尻尾をゆっくりと、左右に打ち振りのたうっている。
「犬みたいね」
美千代が、善次郎を見て微笑んだ。
そんな姿を、微笑を浮かべて見ている善次郎だったが、心中穏やかではなかった。
一体、こいつらはどうしたんだ。こんなことは初めてだ。
美千代の身体から、なにかフェロモンでも出ているのだろうか?
それとも、美千代が女だから。
でも、夏は雌だ。
これまで、猫が好きだという人間にも寄っていかなかった二匹が、なぜ美千代にだけ、そこまで心を許すのか。
もしかして、こいつらは美千代の怒りを和らげるためにこんなことを。
いや、そんな馬鹿なことがあるはずはない。
そうは思うのだが、善次郎にはそんな気がしてならなかった。
美千代に腹を撫でられている二匹が、どうだと言わんばかりに、善次郎の眼を見つめているように見えたからである。




