プロローグ2~犀華~
紫音が初めての友達ができた日の夜、久しぶりに紫音はその日の出来事を笑顔で母親に語った。
「あら、せいか……犀華ちゃん? っていうの? 良かったわね紫音にもお友達ができて」
「うん! ころころ表情を変えてとても元気な子だったよ!」
母さんはとてもうれしそうに笑顔を浮かべてくれた。
「でもその娘はどこの子供なのかしら?」
「高そうなドレスを着てたし、お屋敷に遊びに来てるお金持ちの娘さんなんじゃないかな?」
「あら、今、お屋敷に誰か来ていたかしら? 今お屋敷に来てるのは……」
母はとても真剣に悩み始めてしまった。
「母さん?」と呼びかけても返事はない。しばらく母は悩んだ後、何かの結論に至ったらしく、急に青ざめた。
「し、紫音……!」
「ど、どうしたの? 母さん」
「その、犀華ちゃんっていうのは、どんな娘だった?」
「だから、表情を変えて元気な子だったよ?」
「えっと、だからそういうのじゃなくて見た目、はどんな感じだった?」
母はどこか焦って見えた。
「綺麗な亜麻色の髪で、碧色の瞳で、高そうなドレスを着てたよ?」
「そ、そう……」
目に見えて顔に影が差す。
「だ、大丈夫?」
「ええ……大丈夫よ!」
母親はすぐに明るい顔に戻るが、どこか無理して見えた。
「紫音、その子とはもう会わないようにできる?」
そんな提案をしてくる母に紫音は戸惑いを浮かべるしかない。
「……え?」
「ごめんなさい、冗談よ。……そうね、じゃあ、その娘と遊んでいるところは奥様には見られないようにしなさい」
「う、うん」
真面目な顔でいう母に紫音は抵抗なんてできなかった。
「こんにちは!」
次の日の昼下がり、いつものように昼下がりお屋敷の狭い部屋で紫音が勉強をしていると、窓から元気な声が聞こえた。
紫音は声のほうに顔を向ける。
「え、うわぁ?」
そこには昨日と同じく女の子――犀華が太い木の枝の上で向日葵のような笑顔を浮かべていた。
「またそんなところに! 危ないってば、昨日も落ちちゃったじゃないか!」
「こんにちは!」
「え、うん、こんにちは……じゃなくてっ!」
「よし、あそぼ紫音!」
「話を聞いてよ!」
「何して遊ぼうか?」
「全然聞いてくれない?」
「聞いてるよ」
「じゃあ、早く降りてよ!」
「何して遊ぼうか!」
「うん、それは判ったから――」
「じゃ、窓開けて」
「え、窓?」
「うん! そこから中に入る」
「ええー……」
「またあたしが足を滑らせてもいいの?」
それはずるいよ、と紫音はしぶしぶ窓を開けた。
犀華は木の枝から身軽に開いた窓に飛び移ると紫音の部屋に入ってきた。
「えへへ」
「えへへ、じゃないよ全く」
笑顔の犀華とは対照にうんざりとした表情を浮かべる紫音。
「へえー。ここが紫音の部屋なんだぁ。大きな本がいっぱい」
犀華は興味深そうに部屋の中を見回す。興味を惹かれたのか本棚から一冊本を抜いてペラペラめくるが数ページめくっただけで本を閉じ、元に戻してしまった。
「だいたいが母さんの私物だよ」
「じゃあ紫音は本を読まないの?」
「全部って訳じゃないけれど、半分くらいは読んだよ」
「うわーすごーい! あたしは本とかダメダメなんだー!」
とても感心したように言う犀華。
「まあ、その君の様子じゃね……」
「…………」
何か思うことがあったのか、彼女は大きな碧色の瞳をこちらに向けて黙った。表情もどこかまじめだ。
「ど、どうしたのさ」
「……ううん、何でもない!」
犀華は向日葵のような笑顔を浮かべて首を横に振った。
それからさっき読むのを断念した本のあたりを指さして聞いてきた。
「ここの本はどんな本なの?」
紫音も近付いて本を取ってみる。
「ああ、この本はギリシャ神話についての本だよ。母さんは神様の話が好きだからそういった神話の本を集めているんだ」
「へえ……ギリシャ神話っていうとオリュンポスの神様の話だよね」
「うん、オリュンポスの12神だね。でもこの本はそういうのではなくて、主に英雄たちの話を取り扱ってるんだ。テセウス、ペルセウス、ヘラクレス、イアソンとかね」
「ほぇー」
「ふふっ、って言っても興味ないよね。英雄たちの話は小さいころから母親とかが教えてくれるんだろうし」
ここの本はおとぎ話のように聞かされてきた神々の話よりも詳しく書かれているけれど、犀華のような元気な子には退屈に違いない。紫音は口を閉じた。
しかし、犀華は首をブルンブルンと横に振った。
「ううん! そんなことない。あたし、紫音のお話聞きたい。本を読むのはちょっと難しいけど、お話には興味あるし!」
必死さも感じられる犀華の言葉に少し鼓動が早くなった。
今まで蓄えてきた知識を友達のいなかった紫音は、人に話したことはなかった。頭がいい母なので、母にも話したことはあまりない。
「そ、そう? ……じゃ、どこから話そうか」
「うん、楽しみ! ここ座っていい?」
犀華は本棚の脇に置かれ椅子を引っ張ってくるとそこに座った。紫音も自分の椅子に座る。
それから紫音は日が沈み始めるまで本の中で活躍する英雄たちの話をした。
「あ、もうこんな時間だね。……えっと、君はまだ戻らなくても大丈夫なの?」
「あ、本当だ。もう暗くなっちゃうね」
外を見た犀華の顔に暗くなり始めた光が当たる。
「うん! 紫音の面白い話をいっぱい聞けて楽しかった。話すのがとても上手なんだね」
「そ、そうかな? 母さんの話し方をまねしてるからそのせいかな?」
褒められるなんてことはとても新鮮で紫音は嬉しさを隠せなかった。
太陽が森の奥に沈んでいく。
「……紫音のお母さんはとってもいい人なんだね」
「……え?」
紫音が犀華を振り向くと、少女はうつむき加減に床につかない自分の足を見ていた。
どんな言葉をかけてあげるのが正解なんだろうか。
確かに母さんはとてもいい人だと思うが、果たして今、そう答えていいものなのか紫音には判らなかった。
「……ごめん変なこと言っちゃって。暗くなってきたから、あたし気分も暗くなっちゃたのかな……えへへ」
いつものように笑顔を浮かべるが、その顔はやはり少し影が差して見える。
昨日も犀華のいろいろな表情を見たが、こんな辛そうにしているのは初めて見た。
「僕が話を――」
訊こうか? と言いたかったが、自分と犀華はまだ知り合って1日2日の関係だ。そんな資格はない気がした。
紫音はこぶしを強く握りなおした。
「――どうやったら元気を出してくれるかな?」
だから犀華に元気を出してほしくて訊いてみる。
「……ほぇ?」
何を言ってるのか判らない、というように首を傾げる犀華。
改めて聞かれるととても恥ずかしい。
「だ、だから……ぼ、僕にできることだったら何でもするからさ、君が元気になることを言ってよ。笑ってた方が可愛いし、さ……」
紫音自身も恥ずかしいことを言っているな、と感じた。
「あたしがして欲しいこと……?」
「うん」
けれど、誠実に切実に頷いてみせる。
「そーだなー……。あ! さっきから紫音に思ってたことがあったんだよね」
「思ってたこと?」
「うん。紫音さあ、さっきからあたしのこと名前で呼ばないよね?」
「うぇっ? ……そ、そそ、そんなことない、ですよ?」
「いや、動揺しまくりだし、そしてどうして敬語で、しかも疑問形で返してくるの?」
「君がおかしなことを――」
「ほらまた!」
「……う」
犀華の的確なツッコミに紫音はうめくことしかできない。
実際ずっと紫音はこの時間に至るまで犀華の名前を呼ぶのを避けていた。
それはまず恥ずかしかったからであり、自分は人の名前を呼ぶ、なんて経験をしたことがなかったからだ。何度か「犀華」と口にしようとはしたが、結局は口に出さずにいた。
「言ってみて、あたしの名前!」
「いや、あの、恥ずかし――」
「あたしが元気になれることしてくれるんでしょ?」
「うう……」
自分から言い出したことでまさかこんなに苦しい気持ちになるだなんて。
「せ……」
「せ?」
「せい……」
「うんうん!」
「……せいうち」
「どうしてっ?」
「ごめん、仕切り直させて」
「うん。あたしは犀華だよ、犀華」
「せ、せ……せい」
「…………」
「精霊っていると思う?」
「知らないよ! でもいたらいいなあ、っては思う! じゃないでしょ! あたしの名前を呼んで! 呼びなさい!」
「……うう、おなかが」
「仮病は使わないっ!」
本当にお腹が痛いのだが、それは言わないことにした。
紫音は一つ深呼吸をする。吸って、吐いて、また吸って、吸って、吸って……。
「……きゅ~」
「ちょっと、過呼吸で倒れないでよ?」
犀華にガクガクと体を揺すられて気絶することもできなかった。
犀華が不安そうな表情を浮かべる。
「もしかして……あたしの名前呼ぶの、嫌……?」
「そうじゃなくて……その恥ずかしい……」
「もう! 男の子でしょっ!」
「わ、判った……。じゃ、じゃあ言うよ?」
「……う、うん」
紫音と犀華の間に何とも言えない空気が流れ始める。
「……せいか」
今の部屋のような静かな部屋でなければきっと聞き取れないような小さな声で紫音は、やっと少女の名前を呼んだ。
「うん!」
そして犀華は今まででとびきりの笑顔を輝かせるのだった。
それからあっという間に数日が過ぎた。
紫音と犀華は毎日2人で遊んだ。紫音が今まで読んだ本の話を犀華に聞かせたり、お屋敷の外で遊んだりした。
といっても、外で遊ぶ時は前のことがあったので紫音は最大の注意を危なっかしい少女に払いながらだ。
しかし、彼女の好奇心はこのお屋敷では高くなるようで、犀華が木を登ろうとしたり、池の真ん中に咲く蓮の花を見ようと言い出したりしたときは、必死に周りの植物や虫を探して、気を引かせたりする。
正直、とても疲れるし、時に彼女の言動にうんざりさせらることはあったけれど、一緒にいて楽しい、という気持ちも自分で判っていた。
ある日の夜。紫音は犀華とも別れ、自分の部屋でいつものように母の帰りを待っていた。
彼は今まで、勉強をするか本を読むかをして母が帰ってくるまで待っていたが、最近――犀華と出会ってからは、この時間はとても興奮冷めやらぬ、といった具合で何をするにもすぐに集中できずにいた。
10年か生きてきた中で、こんなに毎日が楽しいと思ったことがあっただろうか。少なくとも紫音には思い至らなかった。
母と一緒にいる時ももちろん楽しかったが、それとは全くもって別種の喜びが胸中を漂っている。
犀華と出会う前、家庭教師やお屋敷のお手伝いさんとだけしか触れあっていなかったあの頃は、ただただ何に対しても無関心で、紫音が何もしなければ辛いこともなかった。もちろん楽しいこともだ。
なんてつまらない生き方だったんだろう。
今なら素直にそう思えた。
――ずっとこんな日が続けばいいのに。
そう思っていた。
いつの間にか紫音はまどろみを覚え、いつしか着替えもせずベッドに倒れこみ眠りについていた。
……その日、母は帰ってこなかった。




