天使長ルメル
「君、地獄行きね」
腕が伸びてきて、判子を押そうとする俺の右手が止められる。
「ちょっと待て」
筋骨隆々の岩みたいな男、もとい漢がその濃い顔面をずいと俺の顔に近づけた。
「なんだって俺が地獄行きなんだ」
どうやら俺の審判が気に入らないらしく、額には青筋が浮かんでいる。
とはいえ俺も独断と偏見でそのようなことをしているわけではないのだ。
顔がいかにも悪人面だとか、見た目が好みじゃないからとか、前世でもうちょっと同情の余地があればとか、そういうことは考慮していない。
地獄に落とすのは、単純にそういう決まりだからというだけである。
「漢なんだろ。ぐだぐだ言うのは女々しいんじゃない?」
「唯々諾々と納得いかねぇことに従うことを漢とは言わねぇよ」
「見た目の割に難しい言葉を知ってるんだねぇ」
「あ?」
「じょーだんだよ」
脳まで筋肉が詰まってそうなのに、と言ったらどんな風に怒るだろうか。
俺はこれ見よがしに溜め息を吐いて、掴まれていない方の手で頬杖をつく。
「でもさぁ、君は魂の格が足りないんだよ」
「そこをなんとかしてくれって頼んでるだろ」
「頼まれても無理なもんは無理なんだよ。規則は規則だって」
「だーから、そこをどうにかしてくれって言ってんだろって」
さっきからずっとこの堂々巡りの会話をしている。
しかしてそこに交渉の余地はなく、まさしく平行線だった。
「俺にはどうしようもないって言ってるじゃん」
「じゃあ誰ならどうにかできるんだ」
「さぁ? 神様とか?」
「ならその神様を呼べ。俺が交渉してやる」
「おっけー。じゃあちょっと手を離してくれる?」
男は舌打ちをして投げるように手を離す。
離された手から判子を置き、引き出しから棒付きの鈴を鳴らした。
数秒ほどで天井から柔らかな光が走り、イリアが降りてきた。
「……………………え、?」
イリアは手に持った何枚かのカードとにらめっこをしていたが、呼び出されたことに気が付いて心底驚いた顔をしている。
男は男で神様の降臨という神々しい演出に呆気に取られていた。
俺は突然の呼び出しを心の中で謝罪しつつ、鈴と判子を素早く持ち替えた。
折よく我に返った男が口を開く。
「お、お前が神様か?」
「え、えー、うん、まあ。戦の神イリアちゃんだよ」
イリアは瞳を挟むように置いたピースサインとウィンクをする。
普段なら語尾に♡や☆がついているばかりか、ポーズや表情もばっちり作るので、傍から見ても困惑は必死なのだろう。
男の方を見てみろ。あまりに投げやりなもんだから、返答に困っているじゃないか。
まったく、神になった程度で初心を忘れてしまうなんて、リブラが見たら腹を抱えて笑い転げていたところだ。
沈黙を守るイリアから目を離して、俺は書類に捺印した。
「ああ、いや、まあ、その、なんだ。ちょっと聞きたいことがあってだな」
「あ、はい。なにか?」
初めてのお見合いか何かだろうか。「ご趣味は?」とか聞きそうな雰囲気だ。
「俺が地獄行きだって旦那に言われてだな」
「旦那? え、ルメル結婚したの」
「実はそうなんだよね。改名もしてさ、うっふーん今はルメ子よーん」
「やめろ気色悪い。男を娶る趣味はねぇよ」
ノリの悪いやつめ。これじゃあまるで俺がフラれて、バツイチになってしまったみたいじゃないか。
「えっと、それで?」
「いやだから、地獄行きは納得いかねぇんだ。どうにかできねぇかな」
「なるほど。んー、でもそういう規則だし」
「だからその規則が気に食わねぇって話だ」
「私に言われてもなぁ」
「なんでだよ。神様なんだろ?」
「だって私は最近神になったばかりだもん」
「おい旦那、話が違うじゃねぇか」
おっと、矛先が俺に向いてしまった。だがしかし、時はすでに逸している。
俺は書類を指でつまみ、これ見よがしに男へと見せつけた。
「ごめん。もう押しちゃった」
「は?」
男の下に真っ黒い穴が開き、じゃらじゃらと音を立てた鎖が伸びてくる。
鎖は一瞬にして男へと巻き付き、その体を縛り上げた。
「くそっ、んだこれ。こんなもん」
男は自慢の力で鎖を引きちぎろうと抵抗しているが、そんなもので拘束から逃れられるなら苦労はない。
「ぐぅっ」
鎖できつく縛り上げられ、苦悶の声を上げて身動きできない状態にされる男など絵にもならない。さっさと送ってしまおう。
「カロシーデ」
つまんでいた書類に青い火が点き、あっという間に燃え広がった。
書類が灰すら残さず焼失するのと同時に、男は「ちっくしょぉぉぉぉ」断末魔と残しながら鎖に引かれて穴に吸い込まれていった。
手を振って男を見送り、地獄の穴が塞がれてふと、イリアと目が合った。
「で、なんで私は呼ばれたわけ?」
「んー……、なんとなく?」
視線を宙にさまよわせて少し考えたが、いい感じの返答が浮かばなかった。
「そう。まあ、いいけど」
どうやら許されたらしい。溜め息を吐いて額を抑える様子は諦めたとも言えるが、それはそれこれはこれだ。
「あ、思い出した」
ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、わざとらしく声をあげたイリアの言葉から、何やら嫌な予感がした。
こっちの用事は済んだのだし、さっさと帰ってくれないかな。
「ルメルに」
「慎んでお断りします」
「まだ何も言ってないんだけど」
「どうせあれだろ、カードゲームの練習相手をしろとかだろ」
「そうなのぜんぜん勝てなくってぇ。って違くて」
「この前他の神にぼろ負けして『がぢだい』ってガチ泣きしてたじゃん」
「あれれー、なんで覚えてるのかな? もう一回消しとく?」
微笑む表情はまさしく女神のそれなのに、握る拳の圧が強すぎて空間が歪んでいる。今度こそ記憶が、というか存在ごと消えかねない。
「おっともうこんな時間だ。ちょっと外回りに」
「逃がさないよぉ」
残像を置いて背後に回ったイリアに、立ち上がろうとした俺の肩が上から押さえつけられる。
腐っても戦神の名は伊達ではないということか。
どうにかして逃げようにも、体はぴくりとも動かなかった。
「それで、天上におわすいと尊き御方がこんな末端天使に何の御用で?」
「働き者のルメル君にプレゼントだよ」
「いやいや、労いのお言葉だけで胸と肩の荷がいっぱいです」
「大丈夫、ルメル君ならやれるって」
「あれれおっかしいな。まだ何も承諾してないんだけど」
「ついさっきね、カードゲームのついでに審判が下ったんだよ」
「っすー、審判?」
「うん」
「誰が?」
「ルメル君が」
「何に?」
「天使長に」
「どうしたって?」
「昇格したって」
だん! 両手に作った握りこぶしをデスクへと叩きつけた。
「いやだ!」
心からの、否、魂からの叫びである。
ただでさえ事務所を一人で回しているというのに、天使長などというさらに面倒ごとが増えるのは看過できない。
それにせっかくなんやかんやと天使長にはならずに、その業務をイリアへ押し付けていた俺の苦労が水の泡じゃないか。
というかこれ以上やることが増えてしまうと、いよいよもって俺一人では手が足りず、この事務所は早晩無くなることだろう。
まあ、そうしたらそうしたで、代わりのやつが配置されるだけなんだけど。
「部下を作ってもいいんだよ。天使長ならその権限があるんだし」
簡単に言ってくれる。有能なやつはすでに他の事務所に入っている。
野良の天使なんてめったにいないし、いたとしても他所で雇ってもらえなかった能力の低いものたちばかりだ。
かといって一からその辺の魂を天使にするなんて、仕事が増えるだけ。
俺が求めているのは即戦力であって、足手まといではない。
「でもさでもさ、私がずっと天使長兼務ってのも変な話じゃない?」
このくそ女神、言うに事欠いて正論をぶつけてきやがった。
だが、それを言っていいのはきちんと引き継ぎを済ませたやつだけである。
こいつのように、天使長時代から代行として仕事を俺に押し付けて、自分は遊び呆けてきた戦うことしか能も脳もないやつが言っていいセリフじゃない。
まったく。いったい誰の手柄で神になれたというのか。
「それにもう決まったことだし。じゃ、そういうわけだからあとよろしくね」
片手を挙げて光に包まれたイリアは、言い終えるかどうかくらいの早さで天上界へと帰って行った。
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