女性と相席
パレードの凄まじい紙吹雪の清掃(※裏でブラスバンド部隊が噴水に大爆発プロップで激突)を終えたゼクスは、猛烈な空腹に見舞われていた。
徹底した清掃業務は、想像以上にカロリーを消費する。
ゼクスは、今回のお掃除で稼いだ給料から洗剤代を差し引いた、残り少ない小銭を握りしめ、お祭り騒ぎで賑わう街の片隅にある大衆食堂へと足を運んでいた。
「い、いらっしゃいませぇ……っ!」
店主が、生まれたての小鹿のようにガタガタと震えながらお茶を運んでくる。
それもそのはず、今のゼクスは、風でオールバックになった黒髪のまま、鋭い三白眼を限界まで尖らせて、メニュー表を凄まじい眼光で睨みつけているのだ。
その姿は、どう見ても「たった今、闇の仕事を終えてきた冷徹な暗殺者」そのものだった。
周囲の席の客たちも、ゼクスと目が合わないように必死に下を向き、いつでも逃げ出せるように腰を浮かせている。
「……大盛り白米と、野菜炒めをください」
「ひゃ、喜んでぇぇぇ!」
実際は、メニューの端に薄く残った油汚れを見て「あそこの換気扇、セスキ炭酸ソーダで一発なのに」と考えているだけなのだが、そのストイックな真顔が周囲の恐怖を加速させていた。
まもなく運ばれてきた山盛りの白米を、ゼクスは粛々と口に運ぶ。
お掃除の後のご飯は格別だ。
そんな、ゼクスを中心とした「半径三メートルに誰も近づかない孤高の空間」に、突如としてその少女は現れた。
「あら……。どこも満席かと思いましたけれど、ここだけポッカリと空いていますのね」
鈴を転がすような、清らかな声だった。
現れたのは、夜空の欠片を溶かし込んだような、美しい青い髪を持つ同い年ほどの少女。
お忍びのようで地味なマントを羽おり、顔を隠してはいるが、その隙間から覗く衣服は仕立てが良く、何より彼女自身から放たれる気品が隠しきれていなかった。
彼女こそ、この人間国で最も崇められている存在――『聖女』その人であった。
お祭り騒ぎの街を視察するため、密かに護衛を撒いて一人で歩いていたのだ。
「あの、ここ、よろしいかしら?」
聖女は、ゼクスが放つ「常人なら気絶するレベルの暗殺者オーラ」に気づくことなく、微笑みながらゼクスの前の席――誰もが恐れて座らなかった特等席に、すとんと腰を下ろした。
ゼクスは箸を止め、真顔で聖女を見た。
(おや、青い髪の綺麗な方ですね。しかし、服の繊維がとても細かく、ホコリを吸着しやすそうな材質です。お洗濯が大変そうですね)
相変わらずの狂った思考で聖女を凝視するゼクス。その三白眼がギンギンに輝く。
対する聖女も、間近で見るゼクスの凄まじい眼光に、ようやく違和感を覚えた。
(な、何かしらこのお方は……。まるで、深淵の底から獲物を見つめる死神のような眼差し……。お忍びの私を狙う、魔王軍の刺客……!?)
緊迫する卓上。
だが、そこに店員が聖女の注文した『特製デミグラス煮込みスープ』を運んできたことで、空気は一変した。
「お待たせしました、特製スープです!」
「あら、美味しそう――」
聖女がスプーンを持とうとした、その瞬間。
ドンッ!!!
「うわっとっと! 悪いね、お姉ちゃん!」
近くの席の、すっかり出来上がった酔っ払いが千鳥足でよろけ、聖女のテーブルに激突したのだ。
ガッシャーン!!!
激しい音を立てて、運ばれたばかりのスープ皿がひっくり返る。
濃厚で真っ黒なデミグラススープが、放物線を描いて聖女の胸元へとバシャリと派手にかかった。
「あっ……!」
聖女が短い悲鳴をあげる。
酔っ払いは「わりぃわりぃ!」と笑いながら去っていったが、問題はその後だ。
マントがめくれ、その下に着ていた、教会の最高神職だけが着用を許される「純白の聖衣」の胸元に、見るも無残な、直径二十センチほどの真っ黒なスープのシミが広がっていく。
「そんな……。教会の神聖な儀式用の衣装が……。これ、普通の洗濯では絶対に落ちない、特殊な魔力糸で織られた服なのに……」
聖女は青ざめ、今にも泣き出しそうな顔で絶望した。
聖衣に穢れ(シミ)を残すことは、聖女としての失格を意味するほどの大問題なのだ。
だが。
その瞬間、目の前の男の雰囲気が、ガラリと変わった。
(――なんだ、あの美しい白を汚す、傲慢極まりない黒いシミは)
ゼクスは真顔のまま、静かに立ち上がった。その三白眼は、かつてないほど鋭く、暗い怒りの炎(※シミに対する怒り)で爛々と輝いている。
プロの掃除人として、目の前の一級品の汚れを放置するなど、絶対に許されることではない。
ズカズカと、大股で聖女へと急接近するゼクス。
「ひっ……!」
聖女は恐怖で身を硬くした。
(やっぱり暗殺者……!? 私が隙を見せた瞬間を狙って、トドメを刺しに――!)
聖女はギュッと目を瞑り、訪れるであろう衝撃に備えた。
しかし、ゼクスが差し出したのは刃ではなく――懐から取り出した、特製の「携帯用・弱アルカリ性高濃度シミ抜き剤」と、真っ白なクロスだった。
「動かないでください。繊維の奥に入り込みます」
ゼクスは地を調うようなクールな声で呟くと、聖女の胸元のシミに、洗剤を一滴垂らした。
正式な手順を踏み、クロスを添えて、心の中で生活魔法を唱える。
『摩擦係数:ゼロ・局所展開』。
その瞬間、聖女の衣服を構成する魔力糸と、デミグラススープの分子との間に働いていたすべての摩擦と吸着力が、完全に消滅した。
スルンッ。
「……え?」
聖女が恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
ゼクスがクロスでササッと一拭きしただけで、あれほど強固に繊維に染み込んでいた真っ黒なシミが、まるで生き物のように「ずるんっ」と丸ごと浮き上がって、クロスの方へと吸い取られていったのだ。
一瞬。わずか一秒。
そこには、シミ一つない、むしろ以前よりも輝きを増した、新品以上の「純白」が蘇っていた。
「よし。完璧に親水性の汚れを分離しました。これで安心ですね」
ゼクスは満足そうに小さく頷いた。
聖女は、我が目を疑った。口をあんぐりと開けたまま、自分の胸元と、ゼクスの顔を何度も往復させる。
(な、何が起きたの……!? 私の『聖なる祈り(浄化魔法)』ですら、数日はかかるような強固な穢れ(シミ)を……道具も呪文も使わずに、一瞬で、完全に消し去った……!?)
魔法の世界において、衣服の汚れを完全に「無」にすることは、高位の光魔法でも至難の業だ。それを、この男は呼吸をするように平然とやってのけた。
聖女の脳内に、電撃のような衝撃が走る。
(このお方、ただの暗殺者じゃない……! 周りを威圧するほどの凄まじい闇のオーラを纏いながら、その本質は、世界を白く塗り替えるほどの圧倒的な『光の浄化力』を秘めた、隠れた聖者様なんだわ……っ!)
さらに、聖女のために無言で立ち上がり、躊躇なく手を差し伸べてくれたその行動。
ぶっきらぼうで恐ろしい見た目の中に隠された、底知れない優しさと神聖さ。
ドクン、と聖女の胸が高鳴った。
真っ白に蘇った胸元の奥で、心臓がうるさいほどに鼓動を刻み始める。
「……あの、貴方は一体……?」
聖女は上気した顔で、潤んだ瞳でゼクスを見上げた。
ゼクスは、自分の席に戻って残りの白米を一気にかっこむと、食器を綺麗に重ね(※店員が片付けやすいように)、真顔のまま目がギンギンの状態で告げた。
「……やはり、白は白くあるべきです。これで美味しくご飯が食べられますね。それでは、お掃除(仕事)が残っていますので、私はこれで」
それだけ言い残すと、ゼクスは私物のバケツを手に取り、颯爽と食堂を出て行った。
去り際、店主に深々とお辞儀をするのを、聖女は見逃さなかった。
(なんてストイックで、謙虚なお方かしら……。自分の成した奇跡を誇ることもせず、ただ『白はあるべき姿に戻った』と告げるなんて……!)
聖女は、顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げ、自分の胸に手を当てた。
生まれて初めて知る、胸の疼き。それは紛れもない、恋だった。
「名前さえ教えてくださらないなんて……。でも私、貴方のような気高き聖者様に、必ずまたお会いしてみせますわ……っ!」
名前も知らない「黒髪の暗殺者(お掃除バカ)」に、完璧に恋の魔法(勘違い)にかかってしまった聖女。
元・荷物持ちの、クール?なプロ掃除人ゼクス。
何も知らない彼の「徹底したシミ抜きへの執念」は、人間国で最も高貴な少女のハートを完璧に撃ち抜き、物語はさらなる予測不能な大混乱へと加速していくのだった。




