ただいま、ありがとう
人生二度目となる復讐を遂げたウォルターは気力を失ってしまった。妻と娘を殺し、辱めた貴族連中には彼女たちと同じかそれ以上の目に遭ってもらったが、結局それだけだった。
奴等は泣き喚き、必死に許しを請うだけの本当につまらない連中だった。その程度の覚悟でこの俺から大切な者を奪ったのか、という気持ちだけが残る。
そして萎えた。最後の方は義務感だけで復讐を完遂した。
故郷を失った時はまだマシだったのかもしれない。敵討ちという目標が出来たからだ。復讐という魂を焦がすほどの欲望が彼の心を守ったのだ。
今はない。何もない。故郷、家族、目標、名誉、ウォルターはもう何もかも失ってしまった。
唯一の後悔と言えば戦うしか能のない自分を貴族に取り立ててくれた国王陛下からの恩を仇で返してしまった事ぐらいだろう。せめてもの償いとして出頭した。迷惑ついでに陛下の手で処分してもらおうと思ったのだ。
しかし賢明なる陛下は全てをご存知だった。そして慰めの言葉を頂いてしまう。本来なら死罪が免れない所を奴隷に落とされるだけで済んだ。済んでしまった。
結局、ウォルターは死に損なった。彼を購入してくれたジャックという奴隷商は非常に気前の良い男だった。部屋を与え、暖かなベッドと食事を与えてくれた。欲しいものを言えば何でも用意してくれた。もしかしたら陛下からそういった指示が下されていたのかもしれない。
そんな環境に置かれたウォルターは酒に逃げてしまった。酔っている間は美しい過去だけを見ていられる。大切な家族との思い出に浸っていられたのだ。
しかしその輝かしい過去こそがウォルターを苦しめる事になった。思い出は時間の経過とともに勝手に美化されていく。酔いから冷めた瞬間、美しい過去とくだらない現在とのギャップに打ちのめされるのだ。
早く死にたいと思った。だが死ぬと決意し、行動を起こすためにはウォルターはあまりにも気力を失いすぎていた。
ウォルターは惰性でもって生き続けた。何年経っただろうか。数えるのもおっくうなくらいぼんやりとした日々を過ごした。
そしてヒロトと出会った。穏やかそうな表情の裏に、どこか達観したような、厭世的な雰囲気を持つ青年だった。嫌な目だと最初は思った。聞けば彼も家族を奪われた口なんだそうだ。しかも家族を殺した犯人は既に死亡しているという。
――なるほど同族嫌悪か。
最初はそんな風に思ったのだった。
「貴様ーッ! このワシを過労死させる気か!?」
『それくらい元気があるならまだまだ大丈夫ですねー』
ヒロトは楽しげに答えてくる。朝昼晩と大量の魔物と戦わせ、空いた時間に子供達に剣術を指導させる。命令を効かなければ奴隷紋を使って<苦痛>を与えてくる。
奴隷紋の痛みは耐えられなくはない。しかし、痛いものは痛い。反抗するぐらいなら命令に従っているほうがマシだった。
奴隷虐待もいい所である。さしものウォルターでさえ悪態をつこうというものだ。
「クソガキめ、老い先短い老人を扱き使いおって……」
長い勤務を終え、くたくたになって床に就く。酒を飲む時間もない。
明日も早い。一刻も早く眠らなければ仕事に差し障りが出てしまうのだ。欠伸を噛み殺しながら指導など出来ぬ。それは必死に努力を続ける子供達に失礼だ。
「まったく、こんな殺人鬼にお高い布団なぞに与えよって……」
悪態をつきながら鳥の羽毛を使ったという軽く柔らかな布団に潜る。すぐに体がじんわりとしてくる。
そろそろ眠りに落ちそうだという時、部屋のドアが開いた。
「せんせーい」「おじゃまします」「一緒に寝よー!」
「これ、止めんか……たまには一人で寝かせよ」
子供達が枕を片手にやってきて勝手にベッドに入ってきた。一人二人ではない。毎日ダース単位でやってくる。ベッドから入り切れない者は部屋から布団を持ってきて床に敷いて眠り始める。
「全く……」
ウォルターは嘆いた。この職場には大人が極端に少ない。奴隷の子供は生産性が低く安価に手に入るからだ。
そして戦いの才能に年齢は関係ない。ヒロトは巷に溢れる難民や子供達を集め、シルバースライムと戦わせて無理矢理に成長させる事でダンジョンの防衛戦力に変えているのだ。
最初は悪魔の所業だと思った。しかしダンジョンの子供達は明るい。毎日充分な食事と暖かな寝床を与えられているからだと思う。下手な平民よりもいい暮らしをしていた。全てヒロトの差配である。悔しい事に人類の敵たるダンジョンマスターこそが、この王都において最も多くの子供を幸せにしている。
とはいえ、いくら子供が安かろうと大人が少な過ぎる。二十歳を超えているのはウォルターとキール、辛うじてクロエだけ。
恐らくヒロト自身が大人を苦手としているからだろう。奴は無意識に成人奴隷を買わないようにしている。
過去に何かあったのだろう。例外的に存在している知識奴隷達はほとんどが外に出かけているか鍛冶場へこもりきりとなっている。
子育て経験のある者も殆どいないために皆、親の愛情に飢えていた。理解してしまったら断る事が出来なくなる。
仕方ない、と諦めかけたところで影からぬっと黒髪の少女が現れる。
「……お爺ちゃん、起きてる?」
「クロエ……お主もか……」
もうすぐ二十歳になるクロエもまた親の愛情に飢えている者の一人だった。暗殺者として育てられていたため精神的にひどく幼い所がある。最初の出会いは最悪だったというのに少し話して、軽く指導してやったらこんなにも懐かれてしまった。
こんなに人懐っこいと無下に出来ないではないか。
困る。本当に困る。子供達が心の中に入り込んでくる。無遠慮にずけずけと。笑顔こそが通行手形だと言わんばかりだ。
これでは酒に溺れる暇もない。
悲しみに暮れる暇さえも与えてくれない。
「いかんな……」
ふいに訪れた穏やかな感情を無理矢理に振り払う。失った日々を無理矢理に思い出す。
「すまんの、ソフィア、ミリア」
妻子の名前を口に出す。いつだって思い出せたはずのあの姿が、今は少しだけ薄れているように思えた。
誰かを大切に想える量には限界があって、アップルパイを切り分けるみたいにその時々で配分を変えるのだろう。誰かを大切に想う事で、これまで大切だった誰かへの想いが小さくなる。
それならばウォルターはこれ以上、誰かを好きになってはいけない。
愛してはいけない。
幸せになってはいけない。
大切だった。彼女等のためならこの身を捧げても惜しくないと言えるほど愛おしかった。
忘れたくない。
例えこれからの日々が地獄のような物になろうと構わなかった。
それだけがウォルターの願いであり、愛する家族に捧げられる全てだった。
「ウォルター」
ふとヒロトの声で目を覚ます。かすんだ視界の先、苦痛に耐えるような主人の姿がある。若い者がそんな顔をするんじゃないと叱ってやりたくなった。
子供達のすすり泣く声が聞こえた。よく見えないが、それでもいい、むしろその方がいい。子供達の泣き顔は見たくない。子供はいつも笑顔がいい。
「すまんのう……」
謝罪する。それは子供達だけのためではなくて、妻や娘に向けた言葉でもあった。
誰よりも愛していた二人。
護ってやれなかった二人。
辛い目に遭わせてしまった二人。
最近は上手く思い出せないはずだった記憶が今は鮮明に思い出せた。
よく三人で遠乗りに出かけたな。夕焼け、コバルトブルーの湖、宝石のように美しい郷里の風景。娘の愛嬌のある笑顔。妻のむくれたような笑顔。甘えた表情は母子で似てくるものらしい。
やっと許されたのだ、とウォルターは思った。
二人から、そして何より自分自身から。
――よかった、本当によかった……。
自分は今度こそ大切な者を守り切った。
「ヒロトよ……まだ居るか?」
「ああ、居るとも」
手を握られる。冷たい手だ。自分のような半死人よりも冷たいなどと笑い話にもならん。
「我が主よ……子供達を、頼んだぞ……」
自嘲する。何と身勝手な男だろうか。妻子を守れず、むざむざ殺された男が言っていい台詞ではない。
「約束、してくれ……子供達を、幸せに、すると……」
しかも僅かな間に彼女達との思い出を薄れさせてしまった薄情者である。
しかし、ヒロトは応えてくれた。
「約束する……だが、一人じゃ無理だ。ウォルター、手伝ってくれ」
「無茶を言う……たまには年寄りを……労わらんか……」
無理矢理に笑ってみせる。
「それとな……復讐は止めよ……何も生まぬ……」
「それは綺麗事だ」
ヒロトの返しは容赦がない。事ある毎に復讐鬼と化した男が口にしてよい台詞ではないなと思う。それでも言わなければならない。
「それでも……子供達には……綺麗なままで居て欲しい」
「……うん、僕もそう思うよ」
「そう、じゃろう?」
不思議なものだ。最初は虚ろな人形のようだと思った。若くして人生に厭いたつまらない男だと嫌悪感さえ覚えた。しかし、実際には勘違いで、無意識の内に不幸な仲間を求めていただけなのだろうと思う。
――それも、違うかの。
出会った頃のヒロトは確かに世界を嫌っていたかも知れない。でも、きっと変わったのだ。癒されていったのだ。辛かった元の世界から離れ、ディアやクロエのような気立てのよい娘達に囲まれ、キールのような好漢達との友誼を深め、純朴で可愛らしいルークや子供達と触れ合う事で前を向けるようになったのだ。
「……だから、変な事は……考える……な?」
「だったら見張っていてくれよ! 僕が変な道に進まないように、進みかけたら止めてくれよ! 教えてくれよ!」
「……甘ったれるな、大人の面倒まで見てられるか……」
にやりと笑う。
手を伸ばす。誰かが握ってくれた。随分と暖かい。これは誰の手だろうか。
分からん、だが誰でも良い。
子供達の声がする。でも段々遠くなる。
自分は幸せだ。
大切な者達に見取ってもらえる。
手を握られながら、惜しまれながら逝くことが出来る。
強く手を握り返す。
「今度は……守れた、ぞ……」
宣言する。願わくば誰かこの事を妻と娘に知らせて欲しい。
君の夫は、君の父は、今度こそ大切なものを守り抜いたのだ。
きっと二人は喜んでくれるだろう。褒めてくれるだろう。
それは本当に、何よりも、名誉な事だと思うから。
ふと大きな手の平に包まれる。
大きな光と共に空へと浮かび昇っていく。
太陽へと近づいていく。熱は感じない。肉体がないのだから当たり前の事だった。
目の前に大きな光の渦が見えた。星々の煌きのような小さな瞬き。小さな光が寄り集まって天に昇っていく。
何と壮大な景色だろうか。
ぐるぐると回る輪廻の渦。あの渦を昇る事で人は――すべての生命は――新たな生を得るのだろう。そんな確信があった。
その渦の手前で小さな点が二つ、所在なさげに佇んでいた。
こちらを見つけるとゆっくりと近づいてくる。
時折、小さく瞬いてはこちらに何かを伝えようとする。
それが一体何なのか、ウォルターにはすぐに分かった。
『お帰りなさい』
『お父さん』
ウォルターは光となって奔った。
君達はずっと、ずっと待っていてくれたのか。
こんな不出来な夫に、不甲斐ない父に、もう一度会いたいと想っていてくれたのか。
二つの光を抱き寄せる。
もう絶対に離さない。
誰よりも愛している。
だからウォルターは全ての想いを込めて言った。
『ただいま、ありがとう』




