1. 光、地下牢にて
どこからか漏れ出た水が小さな澱みを作り、水滴が落ちる度に狭い地下牢の中で音が反響しては消えていく。
それが、カノンにとって日々のBGM代わりだった。
「転生ってもっと気楽だと思ってたなぁ……」
もはや身体の一部となった、足に繋がれた鎖を鳴らしながら「ハード過ぎでしょ」と、感情もなく呟き、カノンは膝を抱え込む。
そばには少しカビの生えたパンが落ちているが、いつからか空腹を感じることすらなくなったため、食べようとは思わない。
最初の頃は皿に乗っていたが、カノンが皿を割って以降、乱雑に投げ入れられるようになったパンを見つめながら、短く息をつく。
死なれては困るのか、定期的に肉や魚といったものも出されるのだが、とにかく味が悪い。
(ただ、死にそうな感じは全くないんだよね……)
いくら経っても痩せ細る様子すらない自身の腕を見下ろしながら、カノンは肩を落とす。
自身のことながら、ただ気味が悪かった。
「なんでこうなるかな……」
転生したと気付いたのは、物心がついたのと同時だった。
ただ、前世の自分というものを、カノンは覚えていない。
日本という国の存在、文化、世界情勢。
そういった一般的な知識はあれど、自分に関する記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。
だから、この世界に順応するのは、そう難しいことではなかった。
魔法に触れた時は心が弾みもしたし、魔物だって貴族として生まれたカノンには縁遠い存在だった。
一つ挙げるとすれば、常識や倫理観だけは今も馴染めずにいるぐらいだろうか。
しかし、それも「そういうものだ」と思えば、気にし過ぎることもなかった。
「さてと」
再び鎖を鳴らしながら、地下牢の隅に隠した皿の欠片を手に取り、壁面を削り始める。
もう削り始めてどれくらいの時間が経ったのだろうか。少なくとも年単位の時間が経っているはずだが、壁面は少し形を変えた程度だった。
(犯人を見つけたらっ、絶対許さないから……ッ!)
誰だか知らないけど! と心の中で悪態をつきながら、カノンは顔も名前も知らない誘拐犯へと忘れかけていた怒りをぶつける。
長いこと幽閉されておきながら、未だ心が死んでいない自分に賛辞を送りたい気分だ。
転生生活は、初めは順調だった。
貴族制度のある国の侯爵令嬢。恵まれた生活に優しい父と母。順風満帆と言っていい滑り出しのはずだった。
それが一転したのは、14歳の誕生日を迎えてすぐのこと。
侯爵家領地にある自宅の庭で遊んでいた時、何者かに攫われ、気付けばこの仄暗い地下牢に繋がれていた。
「──痛ッ!」
思わず力を入れすぎたことで皿の欠片が滑ってしまう。指が壁面に擦れ、痛みに顔をしかめながら指を見ると、うっすらと血が滲んでいた。
地下牢での生活も最初は辛かったが、いつからか慣れたのか、はたまた麻痺したのか。今では辛いという気持ちを抱くことはほとんどなくなった。
外に出たいかと聞かれれば出たいと即答するだろうが、そういったことを考える頻度は最初に比べればずっと低い。
それでも、皮が捲れれば血が出ることに「ちゃんと人間だ」と胸を撫で下ろしつつ、皿の欠片を部屋の隅に放った。
(本当だったら、今ごろ学校に通ってたんだよなぁ……)
冷たくジメジメとした石畳の上で横になると、制服姿を楽しみにしていた両親の顔が浮かんだ。
理不尽な現状への怒りが、悔しさとなって溜息に滲む。
この国、ネーヴェ皇国では15歳から学校に入学し、魔法や勉学、社交といったものを学ぶことになる。
それまでは私的に教師を雇い、より基礎的なことを学ぶのだが、それは貴族と平民に格差を生む要因でもあった。
ただ、そんなことは今のカノンにはどうでも良いことだ。
格差? こんな生活と比べれば平民の方がずっとマシだろうに、と心の中で毒づく。
今は遠き、きらびやかな日々。自分に待っていたはずの綺麗な校舎での学生生活。
そんな夢を想像して、石畳から湿度の高さを感じながら、小さく縮こまる。
きらびやか、といえば。と、カノンは忘れかけていた思い出を引きずり出す。
──パーティーははじめて?
あれは、まだ8歳の頃。両親に連れられて出席した王城でのパーティーでのことだった。
貴族子息、息女にのみ許された皇帝との面会を終えた後、両親とはぐれてしまったカノンに話しかけてきた少年がいた。
転生者とはいえ、どうやら肉体年齢に思考が引っ張られるらしく、不安で泣きそうだったカノンにとって、その少年はまさに救いの手だった。
あれ以来一度も会えていないが、今はどうしているのだろうか、と意味のない思考を巡らせる。
この思考の流れは実に良くない、と壁にもたれる形で座り直して天井を見上げた。
そして、ない交ぜになった感情を拳に込め、振り上げる。
「あぁ、もう! 魔法があるなら、こんな壁ぐらい何とかさせなさいよ!」
閃光。
拳を叩きつけようとした瞬間。
記憶にある魔法とは異なる白き光が放たれ、壁が風化したように崩れると、奥から湿度のある土がなだれ込んだ。
「──は?」
呆然とするカノン。
侯爵令嬢たる彼女は魔力こそ持っているものの、まだ学んでおらず魔法が使えない。
だからこそ、ここに囚われ続けていたのだ。魔法が使えるなら、こんなところとっくに出ていっている。
「なに、今の……」
そして訪れる静寂。
それに水音──と、僅かな物音。耳を澄ますと、それは怒号や金属音のようだった。
(まずい!)
咄嗟に、自分の体で崩れた壁を隠すように覆い被さろうとするも、人一人の体では隠せないほど大きな穴にカノンは慌てるしかない。
地下牢と言っても鉄格子ではなく、金属製の扉に監視窓がつけられただけの部屋だ。中に入られなければ大丈夫なはず……と言い聞かせるように唱える。
けれど、物音は徐々に大きく、そして近づいてきている。
直後、鉄扉越しにけたたましい音が響いた。どこかの扉が蹴破られたような音だった。
「なんなんだ、あんたら!」
今朝、この部屋にパンを投げ入れた男の悲鳴にも似た声が聞こえてくる。
だが男の言葉に返事はなく、直後に正真正銘、悲鳴が上がった。
再び訪れた静寂の中で、何かを探すように足音が遠のき、また近づいてくる。
流石にただ事ではないと思い、カノンの顔が青ざめていく。
しかし、無情にも部屋の前で足音は止まった。
「扉から離れて」
聞こえてきたのは、予想だにしないものだった。
この地下牢に繋がれてから一度も聞いたことのない、澄んだ声がカノンに微かな希望を抱かせる。
「は、離れてます!」
大きな声など久しく出していなかったものだから、少し裏返ってしまう。
それでも鉄扉の向こうにいる誰かには伝わったようで、「耳を塞いで」と返事があった。
言われた通りカノンは耳を塞ぐ。
一拍置いて、手で塞いだ程度では遮れないほどの爆音が鼓膜を揺らした。
そして、固く閉ざされていたはずの鉄扉が部屋の中に倒れ、久方ぶりの光がカノンの瞳を揺らす。
倒された扉の風圧に黒髪をなびかせ、鬱屈とした地下の中で凛とした姿。
衝撃で埃が舞い散る中、その騎士は立っていた。
この世界では珍しい黒髪と整った面立ちが、昔パーティーで会った少年と重なる。
騎士が部屋の外にいる誰かに合図を送ると、少し遠くから「保護対象発見!」と声が上がった。
「おまたせ──カノン」
手を差し出しながら、その騎士は名前を呼んだ。
彼の手を取ろうと腕を伸ばすも、安堵から気が抜けたのか、上手く力が入らない。
視界がぼやけ、思考がまともに機能しなくなっていく。
ついに平衡感覚が消失し、カノンは倒れそうになりながら意識が離れていくのを感じていた。
消えゆく意識の中で、騎士が再び誰かの名前を叫ぶ。
とうとう倒れたカノンを抱きとめた騎士の腕は、少し震えているようだった。
騎士の割に軽装なせいか、彼の体温が直に伝わってくる。
(なんか……懐かしい……)
その温かさに、なぜか無性に泣きたくなる。
突如、記憶にない光景が頭の中によぎった。
闇夜に光るビル群、煌々と光る街並みの中で行き交う人々。
そんな見知らぬ景色と──モヤのかかった誰かの顔。
その“誰か”の笑顔を思い出せそうで、思い出すことができない。
そしてその光景は、意識と共にすぐに消えてしまった。




