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◆軽口は死を招いて生を実感する話


 翌朝、とりあえず俺の悲鳴からその日は始まる。

「うおぉぉぉぉ!!」

 詳しく説明するのもなんだか恥ずかしいのだが、簡単に言えば俺が目覚めたら俺の布団の中にアルタが居た。


「う~ん…何ようっさいわねぇ…」

「あ、あの、アルタさん?いったい何をしてらっしゃるんですかね」

 眠い目を擦りながらアルタが一つ大きなあくびをする。

「ふぁぁ…。何よ。何か文句あんの…?って、え?何これ」

「こっちが聞きたいです…」

 俺の体はアルタの腕やら足やらでガッチリキャッチされていて身動きが取れない。


「…アンタ、殺されたいの…?」

「どうみても不可抗力だろうが!」


 …。俺とアルタはしばしお互いの置かれている状況を確認しあう。

「え、っとぉ…?仮に、仮によ?私が寝ぼけて抱きついたんだとしてもよ、こういう場合自分がやったって事にして殴られるのが男の務めってやつじゃないの?」

「さらっと無茶苦茶な事言いやがるなお前」


 どーん!

 突如俺の部屋が勢いよく開け放たれた。

「おっはよ~姫ちゃんアルタちゃん♪お母さん珍しく早起きして美味しいご飯作っておいたからそろそろおき…て、た…べに…」

 まてまてまて、誤解だ母よ!

 母の顔は俺達の状況を見て一瞬固まり、だんだんと目をきらきら輝かせ始めた。

「あ、あのお母さん、これは違うんですっ!」

「お母さん!?もうお母さんって呼んでくれるのっ!?嬉しいわっ。式はいつにする!?子供はいつ頃?私おばあちゃんになるの?まだ早い気もするけど孫見てみたいわっ♪」

 我が母親ながらよくもまぁそこまで話が飛躍するものである。

「ち、ちがうんですってばー!」

 アルタが必死に否定するが、否定するくらいなら先にその腕と足をどけたらいかがか。


 母はアルタの言葉などまったく聴かずにスキップしながら階段を降りて行った。

 危ないから階段でスキップすんな。

「あ、アンタのせいでものすごく恥ずかしい目にあったじゃない!」

「あのさぁ…勘違いされたのはそもそもお前がいつまでも俺を離そうとしないからじゃないのか?」

「なっ…」

 アルタがやっといろいろ把握したらしく俺からものすごい勢いで離れる。


「…さっき言った事、覚えてる?」

「俺のせいでものすごく恥ずかしい目に…?」

「違う。もっと前」

 アルタはゆっくりと空手的なポーズを取る。

「…おい、何でそんな構えを…。まて、まさかとは思うがこの状況を全部俺のせいって事にしろとか言うんじゃ…」

「せいやっ」

 ごぶっ



「あらあらお母さんったら早とちりしちゃった感じかしら?」

 見事に青痣が出来た俺の顔を見ながら母親が苦笑いしている。

 あの後隣の部屋で爆睡していたネムさんを起こし(すごい寝相ですごい格好になっていてとても良い物を見た)三人でリビングに移動し、テーブルを囲んで母の手料理を食している。

 

そういえば一つ失念していた事がある。


気がついたらネムさんが当たり前のように母と会話をしているのだ。

いつからだろう。昨日家に来た時は消えていた筈で、母にも認識されていなかったように思う。

普通に考えて知らない女子が一人増えていたら母が騒がないわけがない。

いつの間にかネムさんが母に何かしたのだろうか…

ネムさんに疑惑の視線を向けていると、彼女はこちらにウインクしながら唇に人差し指をあてて微笑んだ。


…天使も悪魔もほんとにかわんねぇな…。



 アルタは手料理に感動したのか一口食べるたびになんともいえない複雑な表情を作りながらおいしいおいしいと次々に料理を口に運んでいた。

 うっすら涙ぐんですらいる。

「そんなに喜んでもらえると私も作った甲斐があるわ~♪」

「いえいえ~アルちゃんが夢中になるのも納得の美味しさですぅ~☆家政婦さんが作った食事とは雲泥の差ですよぉ~♪」

 ネムさんまでそんなふうにおだてるものだから母は一層機嫌を良くして「早く家の嫁に来てほしいわ~♪」なんて言いだした。

 もうその手のノリは聞き飽きたっての。


「…考えて、おきます」

 …は?


 ダメだ、母親の手作り料理とかいうアルタが経験した事の無い家族の温かみというやつで彼女の精神が見事なまでに崩壊しかけている。

 正常な判断すらできないほどに混乱しているとは…。


 

「はぁ…」

 食後、準備をして有栖の家へと向かっているとアルタが遠くを見つめながらため息をつく。

「どうした?ため息なんかついて」

「んー?いやね、アンタの母親の料理がおいしかったなーって」

 まだそれ引きずってんのかよ。今までどんだけまずい飯食って生きてきたんだこいつは…。


「アンタと結婚とか…流石にちょっとアレだけどアンタんちの子供になるのだけは真剣に検討したいわ…」

「どう反応したらいいんだ俺は」

「実際問題アンタんちの養子になる為にはどんな手続きが必要かしら…」

 真剣に俺の妹になるつもりなのかこいつは。こんな妹が出来たら毎日楽しいだろうけどさ、そんな簡単に決めていい事じゃねぇだろうよ。


「まぁその気になれば私がどうにかしてあげますけどねぇ~」

「あっ、そういえばネムが居たわね。そっか…いざって時は簡単に妹になれるわね」

 アルタはそこでこっちを見つめて、意地悪く上目遣いになると、「どう?乙姫おにーちゃん♪」と、破壊力の塊を投げ込んできた。

「ぐふっ…」


 まさか俺に妹萌え属性があったとは…。一人っ子だったから確かに弟とか妹とかが居る友達を羨ましいと思っていた時期もあったが…。これはこれでなかなか悪くないというか…。


 そんな事を考えているうちにバス停に到着する。今日は平日なので学校は平常運転中、あまり人目に付くわけに行かないのだが、全員執事さんが迎えに行くというのはさすがに大変なので一度隣町の駅に集合してそこで執事さんの車に拾ってもらう手筈になっていた。

 ちなみにハニーと俺が揃って休んでると怪しまれるという理由でハニーは一応学校へ行っている。

 体調不良で早退して合流予定らしいが、その方が怪しくないだろうか。

 そもそも教室の俺の席近辺が白雪と有栖分を含めるとガラガラになるわけで…。

 まぁハニーが登校したのは逆にその辺が理由かもしれない。

 あいつならうまい事みんなをはぐらかす事も出来るだろう。

 あえて面倒な役割を買って出てくれたと思うと頭が下がる思いである。


 ちなみにそんなハニーとは対照的に教師は堂々と休んだようだがまぁそれはそれで咲耶ちゃんらしい気もする。


 バスの中に知り合いが乗っていないのを確認し、乗り込む。

 アルタは思い出したようにサングラスとマスクを装着して、身バレ防止の為か目的地に付くまで大人しくしていた。

 ネムさんはバスの一番後ろの席に横になって爆睡。恥ずかしいから辞めてほしい。


 目的地に到着すると、既に皆集まっていて執事の多野中さんが車へと誘導してくれた。

有栖の姿が見えないが多野中さんが有栖を連れてきていないはずがないので車の中にいるのだろう。

 あとは…もう一人姿が見えない。

「多野中さん、泡海は…えっと、長い黒髪の女の子はまだ来てないですか?」

「いえ、人魚泡海様でしたら既に車に乗車しておられます。ささ、皆様もお乗りください。立ち話は目立ちますからな」


 車は前回見たリムジンではなく、大人数が乗っても大丈夫なように大きめのワゴンタイプだった。

 こういう車を執事さんが運転している光景というのはなんだか違和感が凄い。

 それはそうと泡海が先に乗っているとはどういう事だろうか。有栖と話でもしているのか?

 集まっていた皆に泡海は車の中だと説明し、皆でと乗り込もうと扉を開けるが…。

 

「ふっ、ふがふがっ、ふががががーっ!」

「黙りなさい」

「ふっ、ふががっふがーーっ!」

「私のいう事が聞けないっていうの?いいわ、泣いて懇願したくなるように調教してあげる」

「んっ、んあぁぁっ!ふぅぅぐぅぅぅぅ…」

 

 目に映ったあんまりな状況に一同呆然。

 先に車内にいた泡海は、なんだかもごもご動くズタ袋のような物を、子供には見せられない手と指の動きで舐め回すようにまさぐっていた。


「あのー。泡海?一同代表で聞いておきたいんだが、お前何してんの…?」

 一瞬手を止めて泡海がこちらを見る。


「何って、分からないのかしら?調教よ調教。早く下さいもっと下さいって言いたくなるようにしてあげてる最中なんだから邪魔しないでくれるかしら」


 お前は一体何と戦っているんだ。

「後で説明するからあと五分時間を頂戴。というわけで出ててくれるかしら?」

 追い出されてしまった。

 あの袋…どう見ても人が入っていたように思う。声からすると女性だろうか?


「この時間帯に若者が何人も立ち話をしているのは少々目立ちますが仕方ありませんな」

 多野中さんはほっほっと笑いながら口元の髭を撫でる。

 こういう仕草が似合うダンディーさというのに憧れていた時期があるが、俺が年をとってもこうはなれまい。


「おとちゃんおまたせー♪」

 勿論ハニーにはもっと無理だろう。

 ハニーは学校からわざわざ電車でここまで来たようだ。直接有栖の家に行った方が近かったような気もする。

「皆に質問攻めにされて大変だったんだよ~。ちょっと疲れちゃった」

「面倒な仕事させてごめんな」

「仕事じゃないし。勝手にやってる事だからおとちゃんは気にしなくていいんだよ」


 ほんとにハニーのこういう所に助けられているなぁと感慨に耽りながら頭を撫でてやる。

 俺の肘くらいの位置に頭があるので非常に撫でやすい。

「もうおとちゃんってば子ども扱いしてー。別にいいんだけど…そういえば人魚先輩は?」

 今車の中でお楽しみ中ですよ。

 簡単に状況を説明したが、俺達もよくわかっていないので適当にしか伝えられない。


「…えっと、要するに知らない女性を拉致してきて無理やりいろいろしてる最中って事?」

 それだけ聞くとヤバいな。犯罪の香りがプンプンするぜ。

「やっぱりあの女ヤバい奴じゃないの…苦手だわ」

 アルタが小さく震えながら呟いた。

 アルタの場合特に泡海には注意してもらった方がいいだろう。

「どうでもいいけど終わったみたいだぞ」

 咲耶ちゃんの合図で振り返ると車のドアが内側から開き、泡海が「お待たせ」とこちらを手招いた。

「わたくしは何も知りませんわたくしは何もしりません」

 有栖はずっと助手席に乗っていたので一部始終を聞いてしまったようだ。耳を塞いでガタガタ震えている。

 よほどの現場に遭遇してしまったのだろう。哀れだ。


「では出発すると致しましょう」

 そんな時でも多野中さんは冷静である。

 皆がそれぞれ車に乗り込み、目的地である有栖の家へと車が動き出す。

「あの、泡海?この袋の中の人ずっとしくしく泣いてるんだけど大丈夫なのか…?」

「気にしないで頂戴。あれだけの事をしでかしたんだからこのくらい当然の報いよ」

 その発言から、袋の中の人があの爆弾を仕掛けた組織の人間なのだろう事が分かったが、なんというか哀れだ。

「わっ、私は…何も…」

「誰が喋っていいって言ったのかしら?」

「ひぃっ、申し訳有りませんであります人魚様っ!」

「この一件がちゃんと片付いたらもっとちゃんと相手してあげるからそれまで待ってなさい」

「…っ、は、はい。有難うであります人魚様…」

 おいおい、完全に主従関係が成立してしまっているんだが何をしたら人の人格をここまでアレな感じに出来るんだ。

 天使やら悪魔やらの力を使ってならともかく…。

「まぁいいわ。この子のいう事が本当だとするなら、あの爆弾がそこまで大それた物だっていう認識は無かったそうよ。せいぜい少し大きめの音が響いて周りを驚かせるだけ、程度に思っていたみたいね」

「あ、あの…あれって本当にそこまで大変な物だったんでしょうか…?でも確かに爆発の記憶があって…それで、大変な事になって…だけど気が付いたらなんともなくて…」


「いつ喋っていいって言った?」

 泡海に叱られてまた袋の中からごめんなさいごめんなさいと呟きが聞こえる。

「時間が巻き戻せたからいいようなものの…一瞬貴女が見た惨状が本来の現実よ。貴方はもう少しで大量虐殺爆弾魔になるところだったの。もう少し自覚して悔い改めなさい」

「時間が、巻き戻る…?すごい、人魚様、凄いです!私一生ついて行くであります!」

「黙りなさい」

「了解であります!」


 正確には時間を巻き戻したのは白雪だが、そんな事を説明しても仕方ないだろう。

 これで協力者が一人増えると思えばこの女性が泡海信者になるのは悪い事ではない筈。

 もぞもぞと袋が動き、近くに居た俺を泡海と勘違いして袋越しにむぎゅっとされる。

「おい、俺は泡海じゃないぞ」

「はっ、貴様私に手を出していいのは人魚様だけであります地獄に落ちろですっ!」

 前言撤回。

「黙りなさいと言ったわよ?仮にも彼は私の恋人。貴女が軽々しく罵倒していい相手じゃないの」

「ま、まさかここにいる男は、あの交際していると噂の…」

「そうよ。星月乙姫、下僕としても貴女の先輩なのだから敬いなさい」

「ぐ、うぐぐぐぬぬぬぅぅぅ…よ、よろしく…death」

 今さらっと悪意を込められた気がしたのは気のせいではないだろう。

「さっき泡海が仮にも、って言っただろ?ほんとに訳あって付き合ってる事にしてるだけだから安心しなよ」

 こんな事まで教える必要は無いのだろうが今後ずっと怨まれていくのはごめんだ。

「…今それをバラしてしまったらつまらないじゃない…。せっかくもう少し遊べると思っていたのに残念だわ。とにかく、そういう事よ。解ったら目的地に到着するまで黙ってなさい」

「そ、そうだったのでありますか!やっぱりこの男に何か弱みを握られて…ハッ、アレでありますか?あの事がこいつに知られてそれで無理やり恋人やらされてエロい事をぐぼっ」

 勝手にヒートアップした袋少女に泡海が奇麗なボディーブローをかまし、今度こそおとなしくなった。


「乱暴な黙らせ方だな…」

「大丈夫。これも喜べる体にしてみせるから」

 なんていうかもうやだこの人。

「それにしても白昼堂々よくこの子を拉致してこれたな」

 それが疑問だった。声の感じや泡海との会話から学生なのだろうと思うのだが、だとしたら普通に考えてこの子も学校に行っていたのでは?それに執事さんの車に先に乗っていたのも少し引っかかる。


「私はこの子の情報を執事さんに伝えただけ。まず学校に一緒に行って、私が理由を付けて車まで呼び出して…ってつもりでいたんだけれど…」

 泡海はそこまで言うと、有栖に向かって小声で問う。

「この執事さん何者なの…?」

「えっ、多野中の事ですの?多野中はわたくしが物心ついた頃には既に執事として働いていましたわ。まさかあんな特技があるとはわたくしも知りませんでした…」

 なんだ?話が見えない。

「あの執事さんね、この子の写真を見て、私にどこのクラスか聞いたら一人で学校に入ってっちゃったのよ。五分も経ってなかったと思う。意識を失ったこの子を担いで車に戻ってきたの」

 ちょっと待て、じゃあこの袋少女を執事さんが拉致ってきたってのか?

 俺たちの会話が聞こえてしまったのか執事さんは運転しながら、

「ほっほっほ、こういう事は若い頃に慣れっこでしたので」

 と紳士スマイルで言い放つ。

 謎は深まるばかりだが、誰もその『若い頃』とやらの事は聞く事が出来なかった。


「さて、そろそろ到着致しますよ」

 執事さんが運転する車が大きな門の前に到着すると、どこかで誰かが見ていたように自動で門が開いていく。

 敷地内に入ってからも数分は車で移動し、駐車スペースまで到着してからぐっすり眠りこけているアルタとネムさんを起こして皆で玄関まで移動した。

 咲耶ちゃんはあたりをキョロキョロ見回しながら「すげぇ…」と呟いている。

 袋少女は執事さんが担ぎ、泡海はハニーの手を引いてなにやらにこやかに話しかけていた。

「ここがわたくしの家ですわ。皆様ようこそおいで下さいました♪」

 心なしか有栖のテンションが高い。

 隣で執事さんが「お嬢様が家にお友達を…今日は赤飯を用意せねばなりませんな…」などと涙ぐんでいる。

 どんだけ友達が居なかったんだこいつは…。

 しかしこの豪邸を見ると俺たちとは住む世界が違うと分かる。友人を作るというのもいろいろ隔たりがあって大変だったのかもしれない。

 豪華な作りの扉を開けると、ずらっと左右に分かれて十数人のメイド達が出迎えた。

 有栖が、「私が案内するから貴方達はお茶でも用意して下さるかしら」と声をかけると、メイド達は俺等に一例して持ち場へと戻っていく。

 有栖が案内してくれた先は十畳程度の部屋で、「この部屋は暫く使う予定が無いからゆっくり会議できますわ」と言った。

 その口ぶりだと数ある部屋の中でも小規模の物なのだろう。なのに調度品、テーブルやソファーなども高級そうな物ばかり揃えてあった。

 それぞれ適当にソファーに座り、メイドさんが紅茶を持って部屋を訪れたのを見送ると、雰囲気に飲まれながらも紅茶に口をつける。

 紅茶の銘柄なんてさっぱり分からないが俺が飲んだ事のある物とは比べ物にならないほどいい香りがした。

 それは皆同じだったようで、一口飲んだあと口々に美味しいと呟く。


「さて、じゃあ本題に入ろうか」

 俺が仕切る形になるのはなんだか荷が重いのだが、俺の目的に協力してもらう以上仕方がない。

「おとちゃんには何か考えがあるのかな?」

 今までずっと黙っていたハニーだが、「ボクが出来る事ならなんでもするんだよ」と頼もしい事を言ってくれた。

「正直言うとまだ具体的な方法は思いついてないんだ。とりあえず相手の事が知りたい。泡海、白雪が捕まってる場所は分かるか?」

「勿論私が所属してる支部の場所は見取り図くらいなら用意できるわ。だけど…あの糞支部長が悪魔をどこに隔離してるのかは私には分からない」

 それでも大きな前進だ。

「あ、あの!私、よく分かりませんけど支部長が大事にしてる物ならどこにあるか分かるかもでありますっ!」

 ソファーの上に転がされていたズタ袋が突然もごもごと暴れて叫んだ。

 俺が近づいて袋の結び目を解いてやる。

「ぶはっ、やっと開放してくれましたねってうわ、貴方に助けてほしくなんか無かったのであります!」

 うるさい奴だなとは思うが、今はこの少女の情報が必要だ。

「泡海、頼む」

「貴方に頼まれるのは悪い気分じゃないわね。いばら、貴方の知ってる事を全部教えなさい」

「かしこまりましたっ!」

 わかっちゃいるがこの転身の早さよ。

「あの支部長は自分の大事な物をコレクション部屋に運んでるです!探してる物がどんな物かは分からないですがそこにあるんじゃないかと…」


 今の白雪は腕輪に閉じ込められている状態の筈だ。それなら管理もしやすいだろうしそのコレクション部屋とやらに納められている可能性はあるんじゃないか?

「私が今から大体の見取り図を描くからいばら、貴女はその部屋の場所を描き足して頂戴」「お安い御用であります!」

 皆が見つめる中、有栖が用意した大判の紙に泡海が支部の見取り図を描いていく。

 描きながら泡海が支部の場所を説明してくれたが、そこは二ヶ月ほど前まで大きなビール工場があった場所だった。

 確か土地の契約が切れるとか何かで工場は取り壊されて移転した。今では大きな空き地になっている。

 支部はそのすぐ近くの公衆トイレにカモフラージュされた入り口から地下に向かうらしい。

 驚いたのは、その工場があった頃から工場の地下に支部の施設が広がっていたという事だ。

 取り壊す時にいろいろ気付かれたりしなかったのかと聞くと、もっともっと深い場所にあるから大丈夫なのだそうだ。

 俺達のいる有栖の家からは大体車で三十分くらいかかる場所なので泡海は毎回タクシー移動をしていたらしい。交通費は全額支給だというのだから気前がいい。


「だいたいこんな感じね。これが私が知ってる範囲の見取り図よ。いばら、ここに貴女の知っている部分を継ぎ足して頂戴」

 人というのは自分が過ごしていた場所の見取り図、なんていうものをこんなに簡単に描けるものなのだろうか。しかも大型の工場と同じ、いや、それ以上の敷地で、尚且つ見る限り相当入り組んでいる迷路みたいな作りなのだが、そんな場所の見取り図が頭に入っているのが不思議すぎる。

 それはいばらと呼ばれた少女も同じ感想だったようで

「あの、人魚様…どうしてこんなに覚えているんでありますか…?」

 と不思議そうだ。

「自分が身を預ける場所なのよ?それに地下施設。何かあったときに非難や脱出経路を確認しておく事は当然だしスムーズに動けるように大体頭に入れておく必要があるのよ。それで?そのコレクション部屋とやらはどこなのかしら?」

「…流石であります人魚様…憧れますぅ…」

「私に同じことを何度も言わせないで。お仕置きされたいの?」

「ハイッ!是非ッ!」

「…貴女、ちょっと私が思っていたよりアレね…。じゃあたっぷりかわいがってあげるから早く見取り図に描き足しなさい」

「はいなのです!」


 立派な下僕だ。いや、奴隷じゃないのか?従順すぎて怖い。というか信者すぎて怖い。

 ふと気になって部屋を見渡すと、泡海といばらのやり取りを見てそわそわしているのは有栖くらいだった。

 多野中さん、ハニー、咲耶ちゃん、そしてアルタは特に気にも留めずに仕上がっていく見取り図を眺めていたし、ネムさんはと言えばその名の通り眠りこけていた。

 頼もしいというかなんというか皆神経が太くて助かる。


「ここなのです。以前支部長の命令で奴が骨董品屋で見つけてきたっていうイグアナの置物を運び込んだ事があるのです」

 イグアナの置物って…。ハニーの親父の趣味も大概だがその支部長って奴もなかなか尖った趣味をしていやがるらしい。

「そこは…確か清掃用具倉庫じゃなかったかしら?」

「はいなのです。掃除用具倉庫の中に縦長のロッカーがあるのですが…そのロッカーの内側の天井にスイッチがあるのです。それを押すと隠し扉が開くるのであります」

「どういう作戦になって誰がそこに到達するか分からないから皆覚えておいて。掃除用具倉庫のロッカーの中、天井のスイッチよ」

 泡海がそれぞれを見渡しながら確認を促す。

「一応頭には入れておきますけれど…見取り図を見てもイマイチ場所の把握がしかねますわ」

「あたしは大丈夫だ。もう覚えた」

「ボクも大丈夫」

「私も平気。こう見えても暗記は得意だから。最悪の場合ネムも居るし。今は寝てるけどね」

「え、…え?不安なのは私だけですの?」

 有栖以外の面子は大丈夫そうだ。等の有栖は一生懸命頭に入れようと図面とにらめっこしている。


「お嬢様は…少々方向音痴な部分がありますからな。こういう図面とか地図とかそういうのには弱いのです」

「うぐぐぐ…屈辱ですわ…」

「まぁ万が一有栖迷った場合は多野中さん、お願いできますか?有栖についていてあげてほしいんですが」

 いろいろと心配だったので多野中さんに有栖の事を頼む。

「勿論で御座います」

「え、多野中も来るんですの?」

「当然ではありませんか。今回の経緯を聞く限りお嬢様は止めても行かれるのでしょうし、お嬢様の安全を守るのは執事としての私の使命で御座います。ならば、必ずやお嬢様をお守りしてみせましょう」

 頼もしい限りだ。いばらを拉致…連れてきた手腕を考えるとこの執事さんは相当なものだろう。これで有栖の事は心配しなくてもきっと大丈夫。

 咲耶ちゃんとハニーも心配する必要がないように感じる。

 アルタに関してはネムさんがついていれば恐らく大丈夫だろう。

 泡海も謎のスキルを沢山もっているようだし、何よりまだ組織の一員として認識されている筈。

「あの、この作戦に私も参加していいですか?人魚様の力になりたいのです」

「何言ってるのよ。嫌がったって連れて行くに決まってるでしょう?」

「ひ、人魚様…そこまで私の事を必要として下さるなんて…私感激であります!」

「万が一の時は敵に向かって貴女を投げつけて逃げるのよ」

 酷い。が、それを聞いたいばらは何故か嬉しそうだ。

「人魚様の命を私が助ける…素敵」

 もう完全に仕上がってしまっている。


 しかし、そうなると一番危ないというか、不安なのはもしかしてこの俺じゃないか?

 特に喧嘩が強い訳じゃない。運動神経もそこそこ止まり。今は白雪の力も借りられない。


 ヤバイ。これ俺が一番のお荷物パターンのやつだ。


「とにかく、作戦を考えていこう。出入り口と見取り図は分かったから、後は相手の戦力とセキュリティが問題だな」

 俺は自分の実力不足をとりあえず棚に上げて他の問題を埋めにかかる事にした。


「それに関しては私が情報提供できるのです!支部長は明後日に大事な物を海外に運び出すって言ってました。それまで警備は厳重にするらしいです」

「厳重ってどのくらいだ?あたしと舞華が居れば大体どんな奴が相手でもぶちのめせるぞ」

 いばらの情報に心なしか咲耶ちゃんが前のめりになる。

 暴力が絡むと活き活きする女教師…正直どうかと思う。だがそこがいい。

「組織のエージェントをとりあえず支部内に集めるって言っていたのでそれだけで恐らく五十人くらいはいるのです。あとお金渡してこのあたりのチンピラを大量に雇って回りをうろつかせるって言ってたのです!」

 五十人!?泡海の所属してる胡散臭い組織のエージェントってこの地域だけでそんなにいるのか?

 でもよくよく考えたら白雪を捕らえられるような道具を持っていたりあの規模の爆弾を用意できるような奴らだからな…それくらいの人数が居てもおかしくはないのかもしれない。そう考えると五十人はむしろ少ない方なのか?

 どちらにせよ五十人、それに加えてチンピラが大量にって…俺達にどうにかできる限度を越えている気がする。

 だからといって何もせず諦めるわけにも行かない。何か方法は無いものだろうか。

「あのさぁ、肝心な事忘れてるんじゃない?アンタいつになったら私を頼るの?」

 ソファーの上に仁王立ちしてアルタが宣言する。

「相手が大人数でヤバイって話なら私がなんとかしてあげるわよ。私とネムならそれが出来る。むしろ全部解決だって出来るんじゃない?」

 確かに天使の力を使えばある程度の問題は解決されるだろう。しかし何もかもをアルタに頼るわけには…。

 そもそも願いを叶える、力を行使するには代償が必要になる。アルタが今どれだけ蓄えがあるのか知らないが、万が一アルタの蓄えの底が尽きるような事があれば今度はアルタの命に関わる問題になってくる。そこまでいかないとしても少なからずの負債を抱えさせてしまうだろう。流石にそれは出来ない。俺と白雪の都合に付き合せてそこまでさせるわけにはいかない。

「アンタさぁ…どうせ私に迷惑がかかるとかそういう余計な事ばっかり考えてるんでしょ?そういうのマジ迷惑だから辞めてくれる?私が私のやりたいようにやって何が悪いの?」

「でも、アルタは関係…」

「関係無いって?殴っていい?ここまで来て関係無いは無いでしょ。今更そんな温い事言うなら本気でぶん殴ってやる」

 俺は何も言えなくなる。既にここまで巻き込んでしまっているのだ。現状を打破するにはアルタの力は必要不可欠…。

「悪い。…でも、無理はしないって約束してくれ」

「アンタがそれを言うなっての」

 その節はすいませんでした。なんて言ったら本当に殴られてしまいそうなのでやめる。

「でしたらアルタさんが今までやってきた方法を使えばいいんじゃありませんの?」

「有栖さん、だよね。どういう意味?私がやってきた事なんて歌う事くらいしか…」

「それですわ。歌えばいいんですの。そして敵を骨抜きにしてしまえばいいんですわ」

 ドヤ顔でとんでもない事を言い出したぞこのお嬢様。

「でも歌う場所なんて…」

「それはわたくしが何とかします。多野中!今すぐ工場跡地を買い取りなさい。そして明日までに特設ステージの用意。出来ますわね?」

「かしこまりまして御座います。すぐに手配いたしましょう」

 …金持ちこえぇ。

「お金持ちって、怖い」

 アルタよ。その気持ちはよく分かるぞ。俺と全く同じ感想を抱くなんて意外と俺の妹になる素質があるんじゃないか?


「どうやら作戦の軸になる部分はそれで決まりみたいね。そんなチンピラ共に聞かせてやるには勿体無い天使の歌声だけれど」

 泡海はそういうと、自分の考えを話し始めた。図面を見ながら俺達に説明していく。

 それを俺達はこうしたほうが良いんじゃないか、いやこっちの方が。などと言い合いながら三時間ほどかけて大体の計画を練った。

 勿論計画した通りに全て上手くいくとは限らないし不測の事態もあるだろう。それに対応できるように念入りに自分達の役割を確認しつつ、その日は解散する事になった。

 決行は明日の夜。


「帰るの面倒だから今日も泊めさいよ」

 解散後アルタが俺に言う。どうせそう言うだろうと思って既に昨日のうちに母親にはそうなるかも、と伝えてあるので俺は動じない。

「アルタちゃんとおとちゃんっていつの間にそんなに仲良くなったのかな」

 帰り道俺はアルタとハニーと一緒に帰る事になった。理由は帰り道が一緒だからというだけなのだが、どうも気にかかる事がある。

「ハニー。お前何かあったのか?なんだか機嫌が良いのか悪いのか全然分からないんだが…」

 白雪が居なくなってから俺は周りの事を一切考える余裕が無かった。

 皆が協力してくれる事になって少しだけ気持ちが落ち着いてきたからやっと気付けた些細な違和感。


「別に何か特別な事があった訳じゃないんだよ。ただいつか来ると思ってた日がきたなーって」

 なんだそりゃ。こうなる事がハニーにはわかってたって事か?いや、そういう直接的な意味じゃないんだろう。俺にはよく分からないがハニーにはハニーの思うところがあって、それが今回の事にかかわってくるんだろうか?

「あまり聞かない方がいい事か?」

「別にたいした事じゃないんだけどおとちゃんにだけは言いたくないかな」

 俺にだけはって所が気になるが、言いたく無いなら無理に聞く事じゃない。

「でもおとちゃんのおかげで分かった事もあるんだよ。ボクの名前の事、やっと謎が解けたんだ。お爺ちゃんが名前を付ける時に昔の知り合いの名前を参考にしたみたい」

「そっか。解ってよかったな」

 ハニーは昔から自分の名前についていろいろ考えてはどんよりしている事があったから、どんな意味だったにせよ解ったなら一歩進めたって事だろう。


「アンタら仲いいわね。付き合ってんの?」

 俺とハニーの会話を聞いていたアルタが妙な事を言い出したので俺が眉間にしわを寄せていると、ハニーもふざけて「バレちゃったね」とか言い出す。

 何か言ってやろうかとも思ったけどやめた。こういうどうでもいい会話が出来るのは平和な証拠だ。俺はこの平和を守らなきゃいけない。が、それ以上にもう一名加えたドタバタな日常を取り返さなければいけないのだ。

 

 作戦実行当日。

「すげぇな…」

 俺達は工場跡地に設置された特設ステージを眺めながら呆然とする。

 一晩でこんなものが作れるものなのか…?それにアルタが特別ライブをやるという告知もしっかりされているらしい。事務所から勝手な事をするなと抗議の一つもきそうなものだが、まぁその辺はアルタが自分でうまくやるだろう。ネムさんが居ればたいした問題じゃないはずだ。

 想像以上の集客である。工場跡地はほぼ人で埋め尽くされていて、開始を今か今かと待ちわびる人だらけだ。よく見ると人の群れの中に柄の悪い集団がいる。

 バットやら鉄パイプやらを持っているのでその周りだけ一般の客が居ない。

 無料で、受付も何もないからあんな物を持ったままでも来れるわけだが、来てしまえばこっちの物だ。アルタの歌声、いや…力であいつらはアルタに夢中になってしまうはずだ。恐らくこの調子だとエージェントの何割かもまぎれて見に来ているだろう。それが多ければ多いほど俺達の行動がしやすくなる。


 ぴっぴろぴっぴろと携帯が鳴り、チェックするとアルタから電話だ。少しだけ人の波から離れて通話ボタンを押す。

「見てなさい、彦星アルタ一世一代の晴れ舞台よ!ってアンタは見れないのか。残念だけどこっちの事は任せておいて。出来るだけ長くひきつけておくから」

「何度も言ったけど無理はするなよ。せっかくお前が蓄えてきた力なんだから」

「こんな時まで人の心配?アンタに心配されるほど馬鹿じゃないわ。それに、ここにいる連中幸せにしてやればまたエネルギー確保できるもの。大丈夫よ。それより、他にやる事がある連中とかは気がそぞろになるからもしかするとずっと留めておくのは難しいかも。だからアンタもちゃっちゃとやる事やって私を楽にさせて頂戴」

 本当ならこんな無茶苦茶な事やらせたくはないんだが、大多数の人間を行動不能にする為にはどうしてもアルタの力が必要になってしまう。

「…解った。こっちは頼んだぞ。お前だけが頼りだ」

「…っ。…その言葉を待ってたのよ。ふふふふ…あはははははっ♪任せなさい。今の私は何でも出来そうな気分よ!行ってくるわっ☆」


 …何だあいつ。やたら張り切ってたな…しかしそれならこっちも心強いぜ。

 ほどなくしてアルタがステージに登場すると会場は歓声に包まれる。

 見るとあのチンピラ共も「アルタちゃぁぁぁぁん!」とか言って大騒ぎだ。

「はぁ~い♪みんなのアイドルアルタちゃんだよぉ~☆今日は思い切り楽しんで行ってね~♪早速だけど一曲目!いっくよ~☆」

「「「「うおぉぉぉぉぉぉ!!」」」


 よし、俺も行動に移ろう。

 既にいばらさんは普段どおり施設の内部、支部長の近くまで行っている筈。咲耶ちゃんはしばらくここに残って様子を見ながらしんがりを勤める形で、泡海と有栖、多野中さんが先行隊。泡海が一番内部構造を把握しているので、戦力に不安の残る有栖を連れて行ってもらう事になった。が、多野中さんが一緒の時点で戦力とか気にしなくてもいいような気がする。

 むしろ女子たちに多野中さんが付いていてくれる、と思えば安心だ。

 

「人の心配をしている余裕なんかないぞ」

 咲耶ちゃんはそう言って俺に釘をさす。確かに戦力に不安がありすぎる。

「わたくし、何か役に立てる事があるのでしょうか…とても不安です」

「大丈夫。私が付いてるから。さあ、まず私達がいきましょう。そしてあの情報を握りつぶすのよ」

「あの情報ってなんの事ですの?あっ、待って下さいまし!」

 泡海を追いかけるようにして有栖も公衆トイレ(施設の入り口)に入っていく。

 どうやら入口は女子トイレ側らしい。そこに多野中さんも一緒に入っていく様子はなんだか犯罪の匂いがするがこの場合やむを得ない。俺も人に見られないように気を付けなければ…。こんなところでまで変態認定されるわけにはいかない。

「十分したらボクたちも出ようね。おとちゃんもしっかりね?」

「お、おう。俺の戦力は有栖とさほど変わらないと思うけどな。やれるだけはやるよ」

「大丈夫。おとちゃんを守る為にボクがいるんだから。心配しなくていいんだよ」

 俺を見上げながら優しく微笑むハニー。ああ、本当に頼りになる相棒だよお前は。

「ほれそろそろ行って来い。後ろは任せとけって。ホントは真っ先に行ってそれっぽい奴ら全部ボコりたいんだけど我慢してやるから」

「咲耶ちゃんも気をつけてくれよ」

「心配いらねーって。あたしを誰だと思ってんのさ。それより舞華。ちゃんと守れよ。その為の力だ」

「師匠…解ってるんだよ。この時の為に頑張ったんだから」


 この二人の繋がりがよく解らんのだが、この辺がきっと昨日の違和感に繋がるのだろうか?どちらにせよあまり詮索はしないほうがよさそうだ。

「んじゃ行って来い」

 咲耶ちゃんはそう言って俺の背中をバチーンと叩く。いてぇ。

 え、ちょっと待って。めちゃくちゃいてぇよこれ。

「なにしてるのおとちゃん。早く行くよ?」

 背中が痛くて呻く俺を引き摺るようにハニーが入り口へと向かう。俺も早く立ち上がらないとトイレ内を引き摺られる羽目になるので気合で立ち直る。

 事前に泡海に教えてもらっていた通りトイレには使用禁止の張り紙がしてあった。

 これだけ人が集まっていてはトイレに列が出来てしまうかもしれないしそのままにしておいてはこの入り口は使えなかっただろう。勿論集まった観客用のトイレはきちんとしたのを設置してある。

 その実行力と経済力は異常だ。が、そのおかげでこの作戦が実行出来るわけで…有栖には感謝しないといけないだろう。

 

 人目を出来るだけ避けてこっそりと女子トイレの方に入り一番奥にある掃除用具入れを開ける。

 掃除用具入れとは名ばかりで、ブラシやモップのようなものは見当たらない。壁に水道が付いているだけだ。

 どうでもいいがこの組織は大事な入口は掃除用具入れに、という決まりでもあるのか?

 とにかく掃除用具入れになっている扉の中に入り、受け皿の大きな水道の右側のタイルを適当にいくつか触ると、一つだけ押し込めるタイルを発見。それを思い切り押し込む。

 すると水道が付いている壁ごとぐるりと、まるで忍者屋敷の回転する壁みたいな感じで裏側に通路が現れた。

 なるほど、だから掃除用具が無いのか。何かしら道具が置いてあったら壁が回転する際に巻き込んで途中で回らなくなるかブラシなどがへし折れるかどっちかだろう。

 むしろへし折れて撤去したのかもしれない。

「んじゃ行ってみよー♪」

 ハニーが俺の手を引いて奥へと進む。

 通路はすぐに下り階段になっていて、一本道のようだ。

 これってこの階段に監視カメラとかセンサーとかあったら一発で潜入がバレるしここで誰かが待ち構えていたらその時点でアウトだろ…。

 泡海がそのあたりを気付かないわけがないので、おそらくこの通路にカメラ等は無い…と信じよう。

 それに、もしかしたら入口専用で出口は別にあるのかもしれない。それならば入るときさえ気を付ければここで人と遭遇する確率は低いだろう。

 非日常的な状況に緊張しているのかいろいろ余計な事ばかりを考えている気がする。

 今は心配よりもその先の事を考えなければ。そもそも泡海と多野中さんが先に入ってるんだから万が一ここに誰かがいたとしても排除されている筈である。


 階段は何度も折れ、ひたすらに地下へと続いている。もうかなりの距離を下ったんじゃないだろうか。地面を掘り返したとしてもさらに地下にあるから問題無い、と言っていたのを思い出す。

 階段は、そこからさらに倍近く下ったところで終点になり、一枚のドアが立ちふさがっていた。

 ここからが本格的な基地になっているのだろう。

 思い切ってドアノブを捻る。…が、びくともしない。

「…あれ?これ開かないぞ?」

「でも先輩達はここ通っていったんだよね?何か仕掛けがあるのかもなんだよ」

 ハニーがあちこちを調べ始める。

 その間に俺も考えてみる事にした。こんな扉があるならなんで泡海は説明しなかったんだろう?もしかしたら自分達だけでどうにかするつもりなんじゃ…?でもそうなら有栖を一緒に連れていく意味が分からないのでその線は薄い。

 だったら突発的なトラブル?警備を強化するにあたってドアを変えたとかかもしれない。だとしても泡海達は突破できているわけで、何かしらの開ける方法が…。

「うん、おとちゃん、開け方わかったんだよ」

「マジか。流石ハニー!」

 俺がごちゃごちゃ考える必要もなかった。

 気付いてみれば簡単な仕掛けで、いや、仕掛けと呼べる代物でもない気がする。

 俺がドアというと鍵を差し込んで開けたりするものを連想していただけで、このドアの仕様が違っただけだったのだ。

 ドアノブの中央に丸いでっぱりがあり、それを押すとロックが解除される。ただそれだけのものだった。

 こういうドアは昔見たことがあるが、普通そのでっぱりはドアの内側のノブについていて、押すとロックがかかり、内側からドアノブを捻ると解除される、ってものだったと思うんだが…そもそも外からそれを押すだけで解除されるドアってなんの意味があるんだ?謎である。

 階段もこのドアの前も一応照明はあるが薄暗いので、万が一紛れ込んでしまった一般人とかがドアを捻って、あー鍵かかってて入れないやーって諦める事を想定しているのだろうか…?よく見なきゃ確かに分からないものだが…。

 いや、待てよ?これは外部からの侵入を阻むものじゃなくて、侵入した輩を外に出さないためのものなんじゃないのか?

 ハニーがドアを開けて中に入ったので俺はその考えを確認してみる。

「ハニー、一度ドア閉めてみてくれ」

「ん?どして?…まぁいいけど、じゃあ閉めるよー?」

 ハニーが向こう側からドアを閉めると、押し込んでいたでっぱりがまたぽこんと出てくる。

「ハニー、そっちからドア開けられるか?」

「えっと…あれ?開かないや」

 やっぱりそういう事なのだ。俺の考えが正しければこのドアはこちら側からしか開けられない。入ったら最後出てこれない。

 …いや待て、違うな。

 そもそもそれだったら組織の人達が困るわけで、やっぱりただ単にここは入口専用なのだ。

 出口は出口で別にあるって事なんだろう。だから泡海は通路や階段での危険は無いと踏んでいたのかもしれない。

 だったらちゃんと説明しておけよ。入ったらどこから出ればいいんだよ。

 泡海やいばらには日常的な事すぎて忘れられてしまったのかもしれない。

 大事なところを見落とすあたり泡海もかなりテンパっているんだろう。

 もう一度でっぱりを押してドアを開けるが、このドアを閉めてしまうかどうか悩む。咲耶ちゃんもドアが開かなければ少しは調べるっだろうしちょっと考えればわかる事だから閉めても問題は無いが、出口が分からない以上閉めてしまう事自体問題あるように感じる。


 中で泡海達に合流出来ればいいが、そうでなくなった場合、非常事態の時など、脱出できないのはかなりまずい。

「あれ、なんか紙切れが落ちてるよ?…人魚先輩からみたいなんだよ」

 …どういう事だ?

 そのメモを受け取り、読んでみると…

「ごめんなさい。言い忘れていたんだけれどこのドアを内側から開ける時はドアノブを普段と逆側に捻ればいいだけだから覚えておいて」

 と走り書きされていた。

 俺があれこれ考えていたのは完全に無意味だったようだ。出入り口はここだけ、ドアも内側から開ける方法がある。侵入者を閉じ込めるためでもなければ入口専用でも無い。

 …俺はどっと疲れてしまった。

 やっぱり余計な事を考えすぎている。それだけ神経質になっているという事だろうか。

「うーん。別に問題なさそうだよ?多分本人が書いた物で間違いないと思うんだよ」

 確かに俺たちにこんな罠を仕掛ける必要があるようには思えない。こんなところでいつまでも詰まっていたら後ろから咲耶ちゃんが追いついて来てしまう。別にそれ自体は構わないけれど、「まだこんな所にいるとかノロマすぎんだろ」とか思い切り馬鹿にされそうだ。

「ハニー、とにかく先に進もう。…悪いんだが俺はいまいちここの作りを把握できてなくてだな…」

「まったくおとちゃんはボクが居ないとダメダメなんだよ。でもそうやって頼ってくれた方が頑張れるしいいんだけどね。じゃあ隠し部屋までの案内は任せてほしいんだよ」

 流石ハニー。しかし俺今回のメンバー中一~二を争うくらい役に立ってないぞ。最初から解ってたとはいえ少し凹む。


 しばらく何事も無く通路を進みいくつかの角を曲がった頃、ハニーが俺の前に掌を出し動きを制止した。

「どうした?」

 小声で聞くと、同じくハニーも小声で

「人がいるんだよ。黒スーツの…多分ここのエージェントだと思う」

 きたか。いつか遭遇するとは思っていたけれど…いや、むしろここまでスムーズすぎたくらいだろう。

「どうする?他のルートからいくか?」

「それでもいいんだけど…帰りの事とか考えると少しでも減らしておいたほうがいいかもしれないんだよ」

「減らすってお前、どうやっ…」

 俺が言い終わる前にものすごい速さでハニーが俺の目の前から消える。

 角から飛び出していったらしい。慌てて俺も追うようにして角から飛び出るが、そこで目に入ってきたのは既に倒れて意識を失っている黒服二人だった。

「…強いんだろうなとは思ってたけどさ、そんなに?」

「ん?何か言ったかな?とりあえず適当に動けないようにしてその辺の部屋に放り込んでおくんだよ」

 お、おう。

 近場にあった部屋に入り、こいつらが着ていた上着を脱がせて手を後ろに回し、脱がした服の袖の部分で縛る。

 ちなみに俺は何もしていない。ただ傍観していただけだ。

 ハニーが鼻歌まじりにてきぱきと進めていく。

 今更の事なのだが…ハニーが咲耶ちゃんの事を師匠って呼ぶのは…荒事の師匠なのか?もしそうだったら咲耶ちゃんってどんだけ強いんだろう?

「ふぅ♪この人たちはこれで大丈夫だから先に進むんだよ☆」

 

 その先も何度となく組織の人間に出くわしたが相手が気付く間もないほど迅速にハニーが無力化してしまうため、既に目的地まで大分進んでこれた。

 これも頼もしい相棒のおかげである。

 しかしこれだけ組織の人間が転々と配置されてるのを考えると、有栖組の方が心配だ。多野中さんと泡海がいるからそうそう危ない事にはならないだろうが、無事でいるだろうか。

 

 

 人魚泡海は焦っていた。

 人影を見つけるたびにルートを変え、出来る限りの戦闘行為は避けて進んでいたが、どういう訳か途中で支部長に遭遇してしまったのである。

「落ち着け…落ち着け私。まだ私が裏切っているのは気付かれていない筈…それなら…」


 物陰に隠れながら多野中と有栖は息を潜めているが、このままでは見つかってしまうだろう。一つ角を曲がれば逃げ場は無い。それならば。

「多野中さん、私があの男を引き付けてここから遠ざけるから有栖さんを連れて目的地までお願いできるかしら?」

 多野中は迷う事なく「かしこまりました」と呟く。

 泡海は息を整え、何事もなかったかのように角から支部長の前へと出て、「あら、支部長がどうしてこんなところに?」と少し驚いたような声で話しかける。

「…君か。君こそどうしてこんな所にいるんだね?任務はどうした?」

「勿論遂行中です。今上で彦星アルタがライブをやっているのをご存知ですか?」

「彦星…あの天使憑きか。そういう報告は受けていなかったが…そうか、それで支部内が騒がしかったんだな。何人か持ち場を放棄していると報告があったから見回りにきたのだが」

「確かにここの人達の中にもミーハーな人はいますからね。でもご安心ください。その天使を手に入れるための作戦です」

 支部長は顎に手をやりながら泡海の話を聞いている。

「というと?」

「私は既に彦星アルタと行動を共にするほどまで接近する事が出来ました。ここでのライブを進言したのも私です」

「…なるほど、それに乗じて天使を捕縛しようというわけだな」

「はい。しかしながら天使の力は強大で、そのままでは奪う事が出来そうにありません。なので狙うならばライブ後かと。アルタは天使の力を行使して歌を歌っていますから私といえど近くで聞いていたら心を惑わされます」

「ふむ。それでひとまず中に避難しいているわけだな。そういう意味では会場をこの上にしたのは正解だろう。いい手際じゃないか。このままうまく捕縛出来れば…あの事は誰にも漏らさないと約束しよう」

「ありがとうございます。既に表にでてしまっている人達は当分アルタに夢中になってしまっているでしょう。支部長もあまり地上には近づかないようお願いします」

「そういう事ならライブが終わるまではおとなしくしていた方がよさそうだな」

 ここまでは概ね泡海の思惑通り事が進んでいる。

 後は支部長がおとなしく一人で自室に戻ってくれれば完璧だったのだが、そういうわけにはいかなかった。

「君もまだ時間があるようだし今この時点までの報告を詳しく聞かせてもらおうか」

「でしたら支部長室まで同行いたします」

「うむ」

 

 だんだんと遠くなっていく二人の足音を聞きながら有栖は心細さに震えていた。

「大丈夫です。お嬢様は私がお守りしますよ」

「…本当にこんな所まで私がきてよかったのかしら…足手まといにしかならなそうですわ」

「そんな事はありません。お嬢様にはお嬢様の役割、そして必要性が必ずある筈なのです。危険は私が払えばいいだけの事。後になってお嬢様が来ていれば、などという後悔をしないためにもここに来ている事は意味のある事なのです」

 有栖にはわかっていた。これが多野中の、自分の執事としての優しさである事を。

 だが、ここまで来てしまった以上足を引っ張る以外の事もしなければ。そう言い聞かせて立ち上がる。

「分かりましたわ。ならば私達がすべき事をしましょう。それで…多野中、あの…道案内は可能ですの?私には今ここがどこだか…」

「人魚様は不用意な戦闘を避けるために迂回を繰り返していましたからね。現在地が分からなくなっても不思議はありません」

 正直言うと有栖には角を二つほど曲がった時点で現在地などとうに見失っていたのだが、それは言わなくてもいいだろう。

「助かりますわ。では先へ進みましょう」

 

 多野中の先導によりさらに奥へと進むが、やはり途中でやむを得ず警備のある場所を通過しなければいけなくなる。

「お嬢様は少々ここで待っていて下さい」

 そう言い残しゆっくりと、自然体で多野中は警備しているエージェント二人の前へ出る。

「警備お疲れさまに御座います」

「誰だ貴様!」

「私は多野中と申します。先日から支部長様の身の回りの世話をさせて頂いておりますしがない執事です」

「…執事ぃ…?お前聞いてるか?」

「いや、そんな話は聞いてないが」

「それはそうでしょう。しかし私が執事なのは本当で御座います。これを見て下さい」

 そう言って多野中は疑うエージェント達に懐から出した手帳を見せる。

 多野中の手元を二人が覗き込んだ瞬間、その手帳を持った手を振るう。

「お嬢様、もう大丈夫ですよ」

 多野中の声に呼ばれて有栖も角から顔を出すが、有栖には目の前の光景が信じられなかった。

 少し会話をしていただけだった筈なのに黒服の二人が地面に倒れている。

「…多野中、いったい何をしたんですの?」

「なぁに、少々顎を払って脳震盪を起こさせただけですよ」

 そう言って何事もなかったかのように笑う執事に、頼もしさと、そして得体のしれない怪しさを感じずにはいられなかった。

「あ、貴方いったいいつそんな事出来るようになりましたの…?」

「ほっほっほ。驚かれるのも無理はありません…ただ、このような荒事には執事になる前にいろいろと縁がありましてね。ご主人様に雇って頂いてからはこんな力は使う事もありませんでしたが、いやはや何が役に立つか分からないものですな」

 とりあえず有栖はこの執事の過去についてはあまり詮索しないようにしようと心に誓った。

 

 

 工場跡地特設ステージで、彦星アルタが観衆を前に熱唱している時、会場の隅に溜まっていたアルタファンのチンピラ達が少しずつ正気を取り戻し始めていた。

 

「あれ、俺達って他に何かやる事なかったっけ?」

「あぁ?んな事よりアルタちゃんだろおめーも声出せ声!いくぞー!」

「「「アルタちゃぁぁぁぁん!」」」

 

 が、さほど使命感などないチンピラ達には普通にアルタのライブの方が重要だった。

 織姫咲耶は出遅れていた。が、焦ってはいなかった。

「あいつらはまだ平気そうだな。さてっと、あたしもそろそろ行かないとなぁ」

 少しばかり他の連中よりも出発が後だったせいでアルタの歌に飲まれていたのだ。

「しかし歌で人の精神に干渉するってのはすげーな。うっかり聞き入っちまった」

 咲耶は会場で一番遠い場所にいたので自分を取り戻すのも早かったのだが、それと同じように別のチンピラグループも遠くにいた事で正気に戻っていた。

 そして、その中にはただ単にアルタのライブがあるから、と連れて来られただけの者も少なからず混ざっていた。

「なぁ、今背の小さい女子が一人でトイレに入っていったぞ」

「まじで?兄貴達はアルタちゃんに夢中だけど…俺らは俺らで楽しんできちゃう?」

「え、何?やらかしにいくの?混ぜろよ!」

 俺も俺も、という感じで計6人がアルタのライブから離脱した。

 

「えーっと、どこから入るんだったかな。確か一番奥の…」

「おじょーさん♪そんな所でなにやってんのー?俺らと良い事しよーぜ」

 背後から聞こえてくる声を無視して咲耶は地下への入口を探す。

「ちょっと無視すんなって」

 肩を掴まれた事に腹を立てながらも

「今おめーらに構ってる暇ねーんだけど?」

 と、彼女にとってはとても優しい言葉を返したのだが、目先の欲に捕らわれた若者には届かない。

「お嬢ちゃんがそんな言葉使いするのはよくないなー。探し物かい?それなら俺達が探してやるよその服の中とかさ」

「あーはいはい。お嬢ちゃん呼ばわりはまぁ悪い気がしねぇ部分もあるからまぁ許してやっけどあたしの邪魔するようなら殺すぞ」

 チンピラ達は口々に「おっかねー」とか言いながら笑う。その態度が尚更咲耶を苛立たせた。

「わかったわかった。お前ら相手にしてから探した方が早そうだわ」

「マジで?やったぜ。お嬢ちゃんめっちゃ可愛いしラッキーだわ。ちなみに何歳?中学生くらいとか…もしかして高校…」

「おう、高校教師だぜ」

 その言葉にまた「冗談キツイわー」と言って爆笑。さらに苛々。

「で?いい事すんだろ?早くやろうぜ誰からにする?」

「俺!絶対俺からで!」

「あいよ」

「ずりーぞ一番は俺が…ってあれ?」

 目の前で一番に良い事をされたチンピラが崩れ落ちる。

「…は?何?どうした?」

「良い事って言ったらよぉ?勿論喧嘩だよな。お前らもチンピラやってんなら一番テンション上がる良い事ってのは喧嘩だろ?そうだろ?なぁなぁ?」

 一瞬チンピラ達の表情が固まり、一度息を飲み込むとそれぞれ険しい顔つきに変わる。

「おーいいぜそれだよそれ。殺意むき出しって感じでたまんねーな」

「あんた何もんだよ」

「だから高校教師だっつってんだろ!」

 咲耶の回し蹴りでまた一人昏倒する。

 狭いトイレ内で回し蹴りが出来たのも身長の小ささ故だが本人はそれをプラスと考えた事はなく、回し蹴りが出来ないなら他の攻撃方法をとればいいだけだと考える。

 なので身長の事は咲耶にとって禁句なのだ。

「このチビ、なにしやがぷっ」

 また一人鼻から血を吹いて崩れ落ちる。

「あと三人。誰からにする?」

 いよいよまずい相手だと気付いたのかチンピラ達はナイフを取り出した。

「刃物か…まぁ悪かねぇけどよ。喧嘩に刃物持ち出す奴は自分が弱いって言ってんのと同じだぞ?それに刺す気があるなら刺されても文句ねぇよな?」

 彼女はそう言うと素早く一番前にいる男の腕からナイフを蹴り飛ばし、壁に当たって跳ね返ってくるナイフをもう一度蹴る。

 それは男の太ももに直撃して浅く刺さり、血が滲むのと共に悲鳴があがる。

「うるせぇよ。このくらいでぴーぴー泣くなガキが」

 泣き叫ぶ男の首筋に手刀を入れ昏倒させる。

「あと二人」

「お、おい…こいつ…いや、この人…まさか、まさかアレなんじゃ…」

「アレってなんだよ!お前この女の事知って…ってアレか!まさか、お前…」


「「リトルデーモンか!?」」


「あぁ?懐かしい呼び名だなぁおい」

「マジかよ勝てるわけねぇよ」

「に、逃げ」

「逃がすと思ってんの?」

 咲耶にとって一番大事な事は早く乙姫達の後を追って地下に行く事だったが、久しぶりに振るった暴力という甘美な快楽にもう少し浸っていたかった。

 二人をすり抜け入口側に立ち、ヤケを起こしたチンピラ達をゆっくりたっぷりボコボコにする。

「…あぁ…さいっこー。久しぶりだったからお前らみたいな奴ら相手でも気持ちよくなっちまったぜ」

 そこでやっと自分が時間を取りすぎていたと気付く。

「やべー。テンション上がって楽しみすぎた。早くいかないと…って結局どこだよ入口はよぉー!」

 掃除用具入れに入るが開け方が分からない。

「あーもうめんどくせぇ!ごるぁ!」

 思い切り壁に蹴りを入れると、ぼごっという音と共に壁が崩れ、向こう側が見えた。

「おっ、ここか!まってろよー」

 長い長い階段を駆け下りながら咲耶は笑いが止まらなかった。

「ぐふふふ…奥にはもっともっと殺意剥き出しの奴らがいるんだろうなぁたまんねぇなぁもう我慢できねぇよ…早く、もう一発やりてぇなぁ…」

 暴力という欲望を必死に我慢して生きてきた高校教師はもう存在しなかった。

 

 

 

『アルちゃ~ん、聞こえてますぅ?』

 ネムはアルタの心の中に語りかける。

『何よ?歌詞飛んじゃうでしょ!?』

『今はまだ大丈夫ですけどぉ~なんだか幸福エネルギーが増えるのより減るほうが早くてぇ~』

『どういう事?いつも通りやってるじゃない。みんなが幸せになれば…』

『多分ですけどぉ~他にやる事ある人達を無理やり歌で引き付けているのが原因じゃないかなぁ~と』

『…っ、つまり普段より消耗が激しいって事ね。それで?あとどれくらいいけそう?』

『う~ん。このペースでいくとあと二十分くらいが限界なんじゃないですかねぇ~?』

 アルタは歌を止める事なく考えを巡らせる。

 あと二十分という事は大体四曲前後でエネルギーの貯蓄が切れる事になる。そうなれば…そこから先はアルタ自身が身を切らなければならない。

『先に言っておきますけどぉ~私はあの悪魔さんみたいに前借り、なんて受付けませんからねぇ~?』

『ちょっと、どういう事?直接私からエネルギー吸い上げたらいいでしょ?』

『それじゃアルちゃんすぐ倒れちゃいますよぉ~もともと元気な方じゃないんですからぁ~。だからエネルギー切れを起こした時点で私は歌に力を乗せるのを止めますぅ~そこから先は自分で考えて下さぁ~い』

 アルタはアイドル活動を始めた時からネムの力を使ってきた。その力無しで歌った事などないのだ。

 その為、歌が一曲、また一曲と終わっていく度にアルタの声に震えが混じるようになり、観客達にもアルタの異変が気付かれ始めた。

 そしてついにエネルギーがゼロになったその時、ステージ上で身動きが取れなくなってしまう。

「アルタちゃーんどうしたのー?」

「具合悪いのー?」

「アルちゃぁぁぁぁん!」

 人々がアルタを心配する声、そして早く次の曲を、という期待に満ちた声がプレッシャーとなって襲い掛かる。

『アルちゃん、もういいんじゃありませんか?そもそも今回の件にアルちゃんが関わる意味、理由なんてないじゃないですか。人前で自分の力だけで歌うのが怖いならもう、今日のライブはやめちゃえばいいんです』

 ネムは普段とは違い、真面目な声でアルタに問う。それでも続けるか、もう止めてしまうかを。

「…そっか。私迷ってたんだ」

 マイク越しにそう呟くアルタに観客達はざわつき始める。

「みんな、私の話聞いてくれる?私ね、ほんとは…アイドルなんてそこまで本気でやるつもりじゃなかったの。…ううん、それもちょっと違うわ。やるからには本気でっていうのはあったんだけれど、そもそものやろうっていうきっかけが私はすごく薄いの。なんとなく行きがかり上仕方なくやる事になった部分もあって…それでユニットを組む事になって…だけど周りの子達はいつだって真剣で、私よりも歌が上手い子も居るし、それでもみんな必死にがんばってた。私はいつからかそれが怖くなっちゃったの。その子達の真剣さが怖くなっちゃったの」

 次第にざわつきは大きくなる。突然こんな簡易的な会場で、今までやってきたライブの中にもっと規模の大きいものもあった筈で、それなのにこのステージで突然本心をカミングアウトし始めたアルタをどう受け止めたらいいのか観客も困惑を隠せない。

「それでなんだ。私が一人で活動する事にしたのは。だって自分だけでやってたら自分の真剣さや必死さが全てだって思えるじゃない?もっともっと凄い努力をしている人たちを見なくて済むじゃない。だから…私は一人で活動するって事に逃げていたんだ。別に後悔はしてないし、これからも一人でやっていくんだって、そう思ってる。だけどね、私はそうやって私以外のアイドル達に後ろめたい気持ちがあったの」

 実際はアルタが力を使っている事で、必死に頑張っているアイドル達よりもアルタの方が注目を集めてしまっている事そのものに罪悪感を感じていた。そこから目を背けて考えないようにしてきたのだ。

「ごめんね。こんな話いきなりされてもみんなだって困るよね。だけど言っておきたかったんだ。多分私、次の曲でみんなをがっかりさせるかもしれない。私ね、今まで歌えてた時の私じゃなくなっちゃうの。意味がわからないでしょ?だけど、本当なんだ。多分次の曲が本当の私。だからね、本当はもう今すぐにでもここから逃げたい。アイドルなんか辞めてどっか遠くにいっちゃいたい。…だけど私はもう逃げないって決めたんだ。どんな結果になったって、受け止める。そのままの私を、今出来るすべての私を歌にこめるから。聞いてほしい」

 会場のざわつきはもう静まっている。皆、アルタの次の言葉を、次の曲をまっている。

「新曲だよっ☆タイトルは…」

 

 

 アルタの言葉をステージ裏で聞いていたネムは静かに微笑む。

「アルちゃんは、きっと大丈夫です。私の力なんて無くてもきちんとアイドルですよ」

 実はまだストックされていたエネルギーに余力はあった。それでもネムがあんな態度をとったのは、ここがいい機会、いい場所だと思ったからだ。

 力を使って他のアイドルより注目を集めている事に対してアルタが罪悪感を感じているのは知っていた。そして、いつかそれを乗り越えたいと思っている事も。

 だからネムはその機会を探っていたのだ。

 もしかしたら力を使わないそのままのアルタの歌は観客に受け入れられないかもしれない。その時アルタが大きく傷つくかもしれない。それはネムにとってもとても悲しい事で、そんな事にならないように今まで力を貸してきた。

 観客が受け入れてくれるか、拒絶するか。それは実際試してみないとわからない。きっと大丈夫なんていうのはただの希望でしかないのだ。そして、今までファンだった人達に拒絶された時、きっとアルタは耐えられない。

 そう、思っていた。

 

 しかし、アルタは変わった。

 人々との出会い、それも一番はあの男との出会いで。今までアルタの中心にあった曖昧であやふやだった芯の部分が、以前とは比べるまでも無いほど強くなっているのを感じる。

 今のアルタには目標がある。

 今まで恐れていた壁を乗り越えてでも叶えたい事が。

 だから、やるなら今しかない。万が一観客に拒絶されてしまったとしても今のアルタなら耐えられるしそれを乗り越えてまた一から歩みだす事が出来るだろうと、ネムはそう思ったのだ。

 

 結果。

 

 アルタの今、その全てを詰め込んだ新曲は、お世辞にも今までの彼女の歌と比べて優れているとはいえない物だった。

 それでも。

 それでも観客達はそのメロディ、その歌詞、その声、その歌に心を奪われていた。


 ただただ自分を奮い立たせて、逃げてきた事から目を背けずに乗り越えたい、そしてあの人の役に立ちたい。そうすれば今までちっぽけだった自分が少しでも変われる。少しでも前に進みたい。たとえそれが人に受け入れられなくても、飾り立てた自分じゃなくてそのままの自分を見て欲しい。弱い自分を、見て欲しい。そうすれば強くなれるから。

 

 そういう歌だった。

 アルタの弱さも強さも脆さも危うさも。全てが伝わってくる素敵な歌だった。

 

 皆静かに聞き入っていたが、やがて曲が終わると、アルタがその場にへたり込んでしまう。それを見てあちこちからアルタを心配する声があがった。

 

「アルタちゃん大丈夫ー?」

「どうしたのー?」

「新曲すごくよかったよ!」

 そんな人々の声を聞き、ゆっくりアルタは立ち上がった。

「みんな…こんな私だけど、これからも応援してくれるかな…?」


「あたりまえだー!」

「アルちゃんサイコー!」

「けっこんしてくれー!」


「はは…。みんな、ありがとう。私、これからも…がん、ばる…から。でも、ごめん。もう…無理」

 ゆっくりとその場に倒れこむアルタ。

 会場からは悲鳴があがる。

 

『アルちゃん、お疲れさま。…これは嘘ついちゃったお詫びのサービスだからね』

 静かにネムがステージに上がり、アルタを抱き起こす。

 アレは誰だと騒がしくなる会場へ向けてネムが歌う。

 常人には聞き取れないような周波数で。ネムの力を込めた声、音が観客の記憶を改竄する。

 ほんの30秒間ほどの記憶を。

 何事もなく無事にステージが終了したのだと錯覚させていく。

 それでも大勢の観客全ての記憶を書き換えるのには相当のエネルギーがかかる。

 アルタの新曲で得られた分も含めてこれでほぼすっからかんだった。

 

「何よ、まだ…残ってたんじゃない。いじわる」

「なんの事ですかねぇ~♪ちょっと私には何言ってるか解らないですぅ~♪」

「こんにゃろー…でも、でも…。ありがとう」


 感謝の言葉を告げて意識を失うアルタ。

 ネムはアルタを抱えたままステージ裏へと下がり、呟いた。

「いえいえ。アルちゃんを支えるのが私の務め…。あくまで、天使ですから♪」





「本日のコンサートは終了致しました。お忙しい中集まって下さいましてありがとう御座います。怪我や事故等ありませんように気をつけてお帰り下さいませ。お疲れさまでした」



 興奮冷めやらぬ観客達が口々にコンサートの感想などを語り合いながらゆっくりと会場を後にしていく中、一部の人たちは冷静さを取り戻しつつあった。


「いやーやっぱりアルちゃん最高だわ」

「だなー。って俺ら仕事中じゃね?」

「あー。すっかり忘れてたわ…」

「結構金もらっちゃってるしそろそろ真面目に働かねーとな」

「そーいや不審者を絶対通すなって言ってたけどさ、こんだけ人がいたらどいつが不審かわかんねーっつーの」

「それもそうだよな。どーするよ?そもそも通すなって言ったってどこに通すなって言うのかね」

「なんも教えてもらえなかったからな。そいつらもここでライブがあるなんて知らなかったみたいだし、なんかもう警備はちゃんとやってましたけど人が多すぎてーとかでよくね?」

「あーそれ採用。ってかちょっとトイレいこうぜ」

「でもライブ終わってトイレ~って奴多いから行列できてんぜ?」

「マジか…さすがに俺でもこの歳で立ちションはなぁ…お、あっちのトイレあんじゃん」

「あそこは使用禁止って張り紙してありましたよ?」

「しらねーよそんなの。出すもん出せれば別に流れなくてもいーわ」

「マジっすか!」

「まぁ行列に並ぶくらいならその方がマシかもね。俺もいくわ」

 そんな会話を繰り広げながらガラの悪い連中が俺も俺も、と5~6人でトイレに向かい、そしてトイレ内の惨状を目にする。

「…ちょっ、これ俺ら以外に雇われてた奴らだよな…?」

「そうみたいっすね…あ、先輩…奥の方おかしくないっすか?」

「なんだこれ!?隠し通路あんじゃんかっけー!」

「不審者通すなってもしかしてここの事か?」

「やべー面白そうじゃん行こうぜ!」

「でもここ通すなって言われてんのに俺らが行ったらまずくね?」

「でも気になるだろ!?」

「なるなる!」

「んじゃいこーぜ!」

「「おぉぉぉー!!」」

 



 執事の多野中は、冷静を保ちつつも焦っていた。

 新たに立ち塞がった人物が自分の良く知る相手だったからだ。


 

「お嬢様お下がり下さい!」

 突然有栖目掛けてどこからともなく小さなゴムボールのような物が飛んできた。

 多野中が有栖を庇うように前に出てそれを弾き飛ばす。

 どうやこちらに何かを投げてきた相手は二つほど先の角に潜んでいたようだ。

 その相手が姿を現すと多野中は一瞬息を呑む。 

「またこれはこれは…懐かしい顔と遭遇してしまいましたな…」

 多野中は今までのような余裕の笑みを消し、少しだけ重心を落として身構える。

「…マジかよ…まさかこんな糞みたいな仕事でお前に会えるとは思わなかったぜ」

 対するは金色の短髪をきっちりと角刈りにした筋骨隆々の男性だった。

「た、多野中…お知り合いですの…?」

「えぇ、彼の名前はジャックバウエル。昔の仕事仲間とでも言うのでしょうか。出来ればもう見たくなかった顔です」

 ジャックバウエルと呼ばれた男は「くっくっく」と笑いを堪えながら多野中の言葉を聞いていた。

「そんな名前で呼ぶ奴はあんたくらいのもんだぜ。今ではジャバウォックで通ってる。これでも結構有名になったんだぜ?」

「知っていますとも。あれからずっとその世界で頑張っていたのですな。執事になってからもたまにその名前は耳にしていました」


 ジャバウォックは少し驚いたように眉を寄せながら言った。

「執事…だと?そもそもお前死んだって話だったのになんでこんな所にいやがる。それにその服…まさか本当に執事やってんのか…?」

「左様。いつだったか仕事でつまらない失敗をしてしまい瀕死の重傷を負ってしまいましてな。なんやかんやあってこの国に流れてきたのです。そのあとなんやかんやあってこのお嬢様の家に仕えることになったのです」

「…なんやかんやが多すぎないか…?」

「すみません。説明するのが少々面倒でして。お嬢様も聞いている事ですし」

 ジャバウォックが有栖をちらりと見て、「まだガキじゃねぇか」とつまらなそうに呟く。

「あ、あの…ジャバウォックさん、ですの?出来ればその…ここを通してくださると嬉しいのですけれど…」

 そんな有栖の言葉を聴いて彼は大声で笑う。

「はははははっ!こいつはいい。この流れで俺に馬鹿正直に通してくれってか。いいぜ。通りな」

「ほんとですの!?いい人でしたのね♪じゃあお言葉に甘えていきましょう多野中」

「おっと、行っていいのはお譲ちゃんだけだぜ。そこの千人殺しは置いていきな」

「せんに…?」

「お嬢様。申し訳有りませんが少々この者と語り合わねばならぬ事があるようなのです。一人で先にお進み下さい」

 そんな事を言われても有栖は困る。何せここまでの道順全て多野中任せて進んできたのだ。彼女の頭の中からここの見取り図は綺麗に消失してしまっている。

「おいおい。行っていいって言ってるんだからさっさと行きな。行かねぇならまずはお譲ちゃんから…」

「お嬢様。必ずすぐに追いかけますから先にいって下さいませ」

 今まで見た事のない様な真剣な表情に有栖は覚悟を決めた。

「わ、わかりました。でも…必ず、出来る限り早く追いかけてきてくださいまし」

 有栖はゆっくりと、ジャバウォックを避けるように壁に背を向けてカニ歩きを始めた。

「…オイ。取って食ったりしねぇからそんな変な歩き方じゃなくてさっさと行けよ」

「あまりお嬢様を苛めないで下さい。お嬢様は臆病で気が小さいのをツンとデレを駆使して誤魔化している素晴らしいお方なのです」

 ジャバウォックはちょこちょことカニ歩きをしながらこちらをチラチラ伺いつつ通り過ぎていく有栖を脱力しながら見つめる事しかできなかった。

「まぁ、なんだ。お前の趣味にどうこういうつもりはねぇけどよ…ああいうのが」

「勘違いなされるな。あくまでもお嬢様は私がお使えする御伽家のご令嬢。さすがに妙な好意を邪推されても困りますな。しいて言うならば…そう、孫を見ているような気分ですよ」

「まぁどっちでもいいけどよ、邪魔者も行った事だしそろそろ本気出してくれるんだろうな?」

 ジャバウォックが静かに構えを取ると、それに合わせるように多野中もすっと右手を前に出し掌だけを自分の方へと向ける独特の構えを取る。

「腕はなまってねぇんだろうな?」

「期待されても困りますな。何せ長い事執事業しかやっておりませんでしたもので」

「まぁ確かに…少々勘は鈍ってやがるみたいだな」

「何を…」

 そこで気付く。足元からじわりと感じる違和感。

「これは…遅効性の…毒?」

「その通りだ。最初に投げたボールがまさかただのゴムボールだなんて思ってないだろうな?あれには細かい棘の細工がしてある。昔のお前ならそれを素手で払おうなんて思わなかっただろうぜ」


 確かに油断していたのかもしれない。こんな所で本職に出会うという事は考えていなかった。

 それは多野中が戦場から離れて久しい事も理由の一つではあるが、この程度のミッション簡単にクリアして、屋敷に帰った後の紅茶を何にしようかなどと考えていた事も問題だ。

 そもそも多野中の手袋は特殊な繊維が織り込まれていて多少の刃物などは通さないように出来ている。細かい針がうまい具合にその繊維の隙間を突いて地肌に到達してしまったのだろう。油断、過信、慢心。そのどれもが昔の彼にはない物だった。

「確かに…少々油断が過ぎました。これは致死性の物ではなさそうなので早めに勝負をつければ」

「まぁ万が一にもこの戦いにお前が勝ったとして、いくらお前でも三十分程度は動けなくなるだろう。あのお譲ちゃんを追いかけるのは無理だな。…本来なら既に全身麻痺って呼吸困難になるような毒なんだが…致死性じゃないとかよく言うぜ」

 実際ジャバウォックがボールの棘に仕込んでいた毒は普通の人間ならば数分で全身の筋肉が麻痺して場合によっては死に至る場合もあるような代物だった。

「なるほど。私の毒への耐性のせいで逆に気付くのが遅くなったという事ですか。しかし、どちらにせよお嬢様を先に行かせたのは正解でした。私がここで勝てても自由に動き回る事は難しく、負ければお嬢様に危険が…」

「俺がお前を倒してさっきのお譲ちゃんを追いかけるかもしれないだろう?」

 その可能性は低いと多野中は考える。このジャバウォックという男は戦闘狂いであり、強い相手と戦う事そのものに快楽を感じるタイプの人間だった。仮に自分が倒されたとしてもわざわざ有栖を追いかけて害を成す事はないだろう。

 しかし今回の作戦を成功させるには一番大きな障害になるかもしれない。

 この男だけは自分が倒しておかなければと、久々の緊張感に包まれ多野中は額に汗を浮かべる。

「これは…なかなか厳しい戦いになりそうですな」




 織姫咲耶は正直がっかりしていた。

 彼女はとにかく少しでも危険が多そうな道を選んで通り、立ち塞がる障害を問答無用でねじ伏せて押し通り続けた。

 それ故に、本人も知らないうちに乙姫、舞華組を追い抜いていた。

「思ったよりつまんねぇな…」

 血に飢えた獣のように本能の赴くまままた一人地面に叩き伏せる。

「なーんか温いんだよなぁ…。多少の訓練はしているみたいだけど殺気が全然たりねぇんだよなぁ…実践なんかした事ねぇって感じだ」

 あまりの拍子抜け感についそんな独り言を呟きながらもまた一人殴り飛ばす。

 その時

 

「おっ」

 彼女が何かを感じ取る。

 どういう原理なのかは本人も理解していないが、本物の殺気という物はとても解りやすくその肌で感じ取る事ができた。

「なんか楽しそうな事やってる気がするぜ!」

 やっと自分の望んだ展開になってきた気がして咲耶は走り出す。

 その途中で出てきた黒服の連中は適当に走りながら薙ぎ倒し先を目指した。

 そして

 

「…おいおい、こりゃどーいう状況だぁ?」


 咲耶の目の前に広がったのは傷だらけの執事。そしてどこか傭兵のような姿をした外国人。

 外国人の方も多少怪我をしているようだが執事の方が重症のように見えた。

「…これはこれは、お恥ずかしいところを…」

 執事がこちらを振り向く事なく呟く。

「んー?こりゃあれか?決闘とかそういう奴か?」

「なんだいまた別のお譲ちゃんかい。執事ってのはそんなに若い女子と知り合う機会があるのか?退職したら俺も執事にでもなるか…?」

 外人が何か言っているが咲耶は無視して執事に問う。

「おいじーさん。あんた強いよな?それでもそんな事になるくらいあいつ強いのか?っていうか動きが悪いな。毒でもくらったか」

「ええ。なかなか性質の悪いのをもらってしまいまして。体が震えてなかなか力がはいらないのですよ。正直呼吸も厳しい状態でして…」

 そうは言うものの意外と喋れている。ならばさほど心配しなくて大丈夫だろう。

 というか咲耶は保険医なので怪我の治療等は出来ても毒の対処など専門外なのでどちらにせよ何も出来ないのだが。

「…そっか。じゃあ戦うのは大変だな?あたしがもらってもいいな?」

 多野中がやっと振り向いて焦る。

「い、いや、しかしそういう訳には」

「おいおい何ごちゃごちゃやってんだ?もしかしてお譲ちゃんが俺の相手してくれんのかよ。俺はいいぜ?ほらよ、まず俺からのプレゼントだ」

 外人の男が何か小さなボールを投げてよこした。

「い、いけません!それに触れては…ッ!」

 その言葉は確かに咲耶の耳に届いていたのだが、咲耶はお構いなしにそのボールのような物を掴み取った。

「なっ、咲耶殿!いけません早く病院に…」

「んー?あぁ、心配しなくても棘は刺さってねぇよ」

 多野中と外国人は目を丸くして咲耶の掌を見る。

「し、しかし…そんな物を素手て掴んだら」

「大丈夫だって言ってんだろ。こんな棘じゃあたしの手の皮貫けねぇって」


 咲耶は掌の上でころころと小さなボールを転がす。


「んな、アホな…」

「なんだ?この小細工が通じねぇのがそんなにショックだったのかよ。えーっと、外人」

「ジャバウォックだ。通じなかった事よりそんな皮膚した人間が居る事に驚いてるんだよ」

「ジャバ…何?風呂掃除のやつか?よく解らんから外人でいいよ。そんな事よりさっさと始めようぜ」

「このアマ…俺をとことん馬鹿にしやがって。いいぜ、この際楽には殺さねぇ。手足の自由を奪って少しずつ切り刻んでやるぜ」


 咲耶はその猟奇的な挑発を聞いて満面の笑みを浮かべ、涎をたらす。

 そんな様子を見て正直ジャバウォックは彼女の事を気に入ってしまっていた。こんな女と戦場を駆け回れたら自分の人生はもっと楽しい物になっていたのではないか。そんな考えが頭をよぎる。

「なぁ女。気が変わった。嬲り殺しは辞めだ。その代わり俺が勝ったら俺の物になれ」

「おいおいこんな時に愛の告白かよおもしれーな」

「どっちみちお前に断る権利は無い。力尽くで手に入れるぜ」

「生憎とあたしはショタコンなんだよ」

 二人の戦いを止めに入ろうとしていた執事がその言葉に絶句する。

「ショタ…?why?」

「外人にゃ難しかったか?あたしに勝ったらその意味も教えてやんよ」

 その言葉が終わった瞬間、ジャバウォックが腰からナイフを抜き、咲耶に向かって飛びかかった。

 

 多野中は焦っていた。

 まずい事になってしまった。ジャバウォックはかなり腕を上げていて、体が痺れた状態では到底勝つ事は出来ない。

 だからといって一高校教師に奴の相手が務まる訳が無い。どうやら咲耶の皮膚はあの棘を通さないくらい強靭で、耐久力はあるのかも知れないがさすがに相手が悪い。素人がいくら頑張った所で所詮プロには勝て…

 

「…」


 そこで多野中の思考は停止した。

 言葉も出ないとはこの事だろうか。

 ナイフを手に飛び掛った筈のジャバウォックだが、今は多野中のすぐ横の壁に頭から突き刺さっていた。

 何が起きたか理解が追いつかない。彼はゆっくりと横で壁に突き刺さっている男に視線を向ける。

 ジャバウォック本人も意識が付いていけてないらしく、ナイフを握った手がまだ獲物を求めて空を切っていた。

 

 先程の光景を必死に脳内でリプレイしてみる。

 

 ジャバウォックがナイフで切りかかり、咲耶が突然「ヒャハハハハハッ!!」と笑い声をあげたかと思うと彼のナイフを身を低くして潜り込むようにかわし、ほぼ真上に蹴り上げる。天井に激しく打ちつけられてうめき声をあげながら落下するジャバウォックの頭を、下で待ち構えていた咲耶が腕をぐるぐる回してからアッパー気味に殴り飛ばす。勢いよくその場で身体ごと宙を回転する彼の喉元を咲耶は思い切り鷲掴みにして満面の笑みで壁に向かってぶん投げた。

 

 そうだ、確かそんな感じだった気がする。

 あれは到底格闘技などではない。ただの、物凄く洗練された喧嘩だ。

 

「さ、咲耶殿…貴女は、いったい…」

 多野中の声を咲耶は聞いていない。聞こえていないとも見える。

 

 咲耶は「ヒヒッ」と気味の悪い笑い声をあげ、フラフラと左右に小刻みに揺れながら壁に突き刺さっている男に近づくと、足を掴んで引っこ抜く。

 意識を失っているジャバウォックに数回ビンタをかまして声を上ずらせながら言う。。

「おい、起きろ」


 咲耶の声にかろうじてジャバウォックが言葉を洩らす。

「…ぐっ…なんて、こった。完敗だ…好きにしろ」

 彼は潔く負けを認める。

 ジャバウォックは朦朧とする意識の中でも実力の差を感じ、これ以上やっても無意味だと判断した。

 むしろ感動さえしていた。いつか誰かには負ける日が来ると思っていたが、まさかそれがこんな小国の、それもこんな少女だったとは。

 これだけ清清しい気持ちになるのは久しぶりだった。完膚なきまでの敗北。

「おいおい、何一人でいい気持ちになってんだよぉ…」


「…はい?」


「もう一回やろう…?もっと、もっと気持ちよくさせてくれよ…さっきの本気の動き、たまんなかったぜ。でももっと本気出せるだろ?もっともっと沢山出してあたしを気持ちよくしてくれよ」


「え、ちょっと、…え?おい、冗談だろ?」


「冗談なんか言うかよ。こんな気持ちいい時間が一瞬で終わっちまったらお互い不完全燃焼だろぉ…?だから、な?もう一回…いや、二回…」


 ジャバウォックがなんとも言えない顔で多野中を見つめる。

 その口が小さく動くのを多野中は確かに見た。

『 タ ス ケ テ 』


 多野中は、目を閉じ、ゆっくりと首を横に振る事しかできなかった。

 

 そこから先は地獄絵図である。

 如何せん麻痺してなかなか思うように体が動かない事もありその場からそっと離れる事もできない彼は、耳を塞ぎ目を閉じて、早くこの地獄が終わってほしいと祈った。

 

 祈り続けた。

 

 


 

 人魚泡海はただただ相手の隙を伺っていた。

 自分が報告をしている間中ずっとデスクに両肘をついて手を組み、そこにアゴを乗せているどこかの指揮官ぶったこの男のスタイルが非常に鼻につく。

 泡海はこの男が嫌いだった。

 もともと給料のいいアルバイト感覚で始めた仕事だったが、守らねばならない規約は多いし罰則も多い。そしてこの支部で一番偉い目の前の男がどうにもこうにもねちっこくていけない。

 全うな職場なら間違いなくパワハラかセクハラで左遷されているだろう。

 さらに言うならばこの男には弱味を握られている。その証拠品さえこの手に戻ればこんな奴今すぐにでもボコボコにしてしまいたいくらいだった。

 いや、してしまおう。これは確定事項だ。

 ただ、それは今すぐという訳にはいかない。

 ボコボコにしてから証拠品を探すという手もあるが…万が一にもここで本部に助けを呼ばれたり逃げ出されたりするといろいろ面倒な事になる。あれをどうにか処分してしまうまでは安心できない。

 泡海は今の学校生活に満足していた。

 出来る事ならば卒業まではこの状況を続けていきたい。そして願わくば教師になり今の学校に帰ってきたいとすら思っている。

 何故かあの学校には美少女が集まる。制服が可愛いからだろうか?

 どちらにせよあんないいスポットを易々と手放すつもりにはなれなかった。

 彼女は真性の美少女フェチであるが故に、神聖なあの場所に居られなくなる事を恐れる。

 それを回避するためならばどんな事にも手を染めるだろう。

 たとえ目の前のこの男を殺害せねば戻れないという状況だったのならば迷わずにナイフを抜くだろう。迷わずに銃口をこめかみに突きつけるだろう。

 彼女はそういう女だった。

 

「ふむ。なるほどなるほど。大体の経緯は解った。上ではコンサートも終盤のようだしそろそろ君も準備をしたまえ」

「はい。…それで、支部長。例の件ですが」

 支部長は一瞬不思議そうに首をかしげるが、すぐに思い出したように「あぁ」と呟く。

「君のアレの件かね。あのデータはきちんと私の方で保管してある。この件が終わったらあのデータを君に渡そう。勿論バックアップなどは取っていないよ。正直そこまでするほどの物でもないからね」

「…解りました。宜しくお願いします」


 つまり、今潜入しているうちの誰かが目的地にたどり着きさえすればこちらの勝ちである。

 それぞれにきちんとSDカードがあったら腕輪と一緒に持ち出すように言ってある。

 本来なら自らの手で確保しその場で粉々に打ち砕いてしまいたいところだがこの状況ではそれも難しい。

それに、急いで破壊して万が一大事なデータの方を壊してしまったらと思うと後でゆっくり確認してからの方が安心だ。

 取り合えず誰かに持ち出してもらい、後ほど証拠データの方を破壊するという事になっている。

 

「ところで…君はいつまでこの茶番を続けるつもりかね」


 頭の中で考えていた今後の予定が霧散した。

 

 支部長は特に表情を変えずにこちらを静かに見つめている。

「い、いったい…どういう意味でしょうか?」

「それを私に言わせるのかね。まさか何も気付いていないとでも?」 

 そういうと支部長は自分のデスクの上にあるPCのモニターをこちらに向けた。

 そこに写っていたのは…

 ここに忍び込んでいる皆の姿だった。

 

「知らん、とは言わせないよ。ここに手引きできるのも見取り図を容易できるのも君だけだろう」

 こいつ…ただの気持ち悪い糞親父だと思っていたのに意外とちゃんとしてる部分もあるじゃないか。

 どうする…?恐らくとぼけても無駄だろう。

 なら一度ここを離脱してみんなと合流…それか一目散に例のブツを奪いに走るか…。


「ちなみに、少しでもおかしな行動をしたらあのデータの行方は霧の中…ふふふ。さて、いばら君。来たまえ」


 …やっぱりこいつアホだ。隠し場所なんてとっくに割れてるっていうのに。

 ドアを開けて棘野いばらが支部長室に入ってくる。だが、どうも様子がおかしい。


「あ、人魚様…いや、人魚先輩…やっぱり、やっぱり私は…組織には逆らえないであります…」

 …この女裏切る気か。

 しかしいばらはもともと組織側からこちらに寝返った人間。それくらいコロコロ立場を変えてしまう人間ならもう一度敵に回る事もおかしな事ではないのかもしれない。

 ただ問題は相手が二人に増えてしまったという事だ。

 泡海はそれぞれ一人ずつならどうにでもできる自信があったが、支部長もそれだけの立場に上りつめただけの実力はあるだろうしいばらも最低限訓練を受けているはずである。

 二人を相手にするのはさすがに分が悪い。…どうしたものかと泡海が悩んでいると、

「先輩。今ならまだ間に合うのであります。あいつらの事なんか忘れてこちらに戻ってきて下さい。そしたらアレについては私が責任を持ってお返しするのであります」

「こらこら。そこ、勝手な約束をされても困るな。…だが、それも有りだな。もし奴らの殲滅、天使の捕獲を遂行できるのであればアレは君に渡してもいい。さあどうする?」


 泡海は一応悩む振りをする。

 少しでも考える時間が欲しかったからだ。

 勿論考える内容は今のこの状況をどうやって打開するかであり、寝返るがどうかではない。

 状況は絶望的、だが。泡海は自分の能力に自信を持っていた。アレは完璧だった。ならばいける。

 

「どうやら彼女はその気がないようだ。いばら君。取り押さえなさい」

 

 いばらがゆっくりと泡海に近づく。

「すいません。人魚先輩。これも仕方の無い事なのであります」


 泡海はむしろ自らいばらの方へ歩み寄り、唐突にその身体を抱きしめた。

「せ、先輩っ!?ど、どういう事でありますかっ!?わ、私、え、そんなっ」

 泡海はそっといばらの耳元に口を近づけて息を吹きかける。

「ふっ、ふぁぁぁぁっぁぁぁぁっ…し、しかし…この程度では負けないでありますっ!」

 いばらが顔を真っ赤にしつつも泡海を突き飛ばす。

「お前ら何をやっているんだ!いばら君、早くしたまえ」

「す、すいません!今すぐにっ!」


 泡海はいばらから一度距離を取り身構えると、大声で叫んだ。

 

「お す わ り !!」


「きゃんっ!!」


 泡海の調教は完璧だった。

 一度離れた事で気の迷いが生まれたとしても身体に刻み込んだ泡海への服従の心は消える事は無い。

 いばらはその場に犬がお座りをするように座り込んで、とろんとした表情で泡海を見つめる。

 

「GO!!」


 泡海は支部長を指差しいばらに命を下す。

「了解でありますっ!!」

「なんだッ!?何がおきたッ!?」


 すぐさまいばらが支部長にとびかかり、顔を思い切り引っかいた。

 犬というよりは猫のような攻撃方法である。

 支部長も慌てて応戦しようとするが、注意が一瞬でもいばらの方に逸れてしまえばもう泡海の思い通りだった。

 いばらに気を取られているその顔面に側面から回し蹴りを入れ、デスクに頭を打ち付ける。呻く隙すら与えずにそのまま腕を決めてそのままへし折った。

「ぎゃあぁぁぁぁあ!!」

「うるさい」

 今度は細い腕をその首に食い込ませるようにチョークスリーパーをかける。

「いばら。すぐに何か縛るものか強度のあるテープ。急いで」

「ハァハァ…あっ、り、了解でありますっ!」

 泡海の動きに見蕩れていたいばらだったが、正気を取り戻してすぐに部屋の隅にあったダンボール箱から縄を持ってきた。

「よしよしいい子ね。後でご褒美をあげるわ」

「幸せでありますっ!」

「うるさい」

「ごめんなさいでありますっ!」


「…な、なにが…どう、なっ、て…」

 支部長が手足を縛られながらそこまで呟いたところで

「泡海先輩にチョークスリーパーかけられるなんてご褒美うらやま…いや、許すまじであります!!」


 ゴスッ!!


 よく解らないベクトルの怒りが爆発したいばらの思い切りのいいキックが、まるでサッカーボールを蹴り飛ばすように炸裂し、支部長の意識は遠い彼方へと霧散した。

 

 支部長を無力化し、興奮するいばらを眺めながら泡海は脱力感とともに呟く。

 

「あぁ…私、自分の才能が、怖いわ」





 御伽・ファクシミリアン・有栖は非常に困っていた。

「ど、どうしてこんな事になってしまったんですの…」

 御伽・ファクシミリアン・有栖は

 

 迷子になっていた。

 

「えっと、確かあの角を曲がったからこう来てこうなってこっちに曲がってあっちに行くからえっとえっと…もうどっちから来たのかすら解らなくなってしまいましたわ…」

 きっと先程の騒ぎで混乱してしまった為に記憶が混乱しているだけだ。きっとその筈だと有栖は自分に言い聞かせる。

 

 が、壊滅的名自分の方向音痴を理解している彼女にはそんな言い訳を考える事自体とてつもなく虚しいだけである。

 

「と、とにかくっ!じっとしていても始まりませんわ。少しでも先に進みませんと。…でも途中で敵に見つかってしまったら…」


 有栖は戦闘能力など無いし生まれてこのかた喧嘩すらした事がない。つまり見つかったら終わりである。

 ビクビクしながら少しずつ進んでいくが、不思議な事に誰とも遭遇しない。

 もしかしたら間違えて道を戻っているのではと不安になるが、有栖にはそれを確かめる事も出来ないので諦めてそのまま進む事にした。

 すると、何故この近辺に人が配置されていなかったのかを身をもって知ることになる。

 

 がこっ

 

「…?今何か音がしたような…私何か落としたのかしら」

 小さな何かを落としでもしたのかと身をかがめたその時、

 

 すこーんっ

 

 軽い音と共に有栖の頭上を矢が通過した。

 恐る恐るしゃがんだ姿勢のまま見上げると、びよよよ~んと反対側の壁に刺さった矢がしなっている。

「…え?」


 すこここーんっ

 

 今まで立っていた頭の辺りを続けざまに矢が通過していくのを見て有栖の顔が青ざめる。

 恐怖が遅れてやってくるタイプのやつだった。


「ひっ、ひゃあぁぁぁぁぁ!!」

 慌てて低姿勢のまま走り出す。一歩間違えば死である。死、死、死。

 

「なんでこんな事にっ…き、きゃあっ!」

 一つ角を曲がりなんとか矢のエリアを通過したところで勢いあまって足を絡ませ有栖は転倒してしまった。

「えぐっ…どうしてわたくしが、こんな目にあわなければならないんですの…?ひっく」

 あまりの恐怖に床に伏したまま泣き出してしまった。

 が、その涙もすぐに引っ込む。

 立ち上がろうとした有栖の服からボタンが一つちぎれて落ちた。

 ころんころんと転がるボタンはそのまま2メートルほど転がって、そして

 

 落ちた。

 

 ぼかりと急に地面が消えて大きな穴が生まれた。

 センサーか何かが反応して対象を落とし穴に落とす、そういう罠だ。

 

「…もう、驚きすぎて涙もでませんわ…」

 そのまま走っていたら、或いは安堵しながら歩いていたら。

 有栖は地の底へ真っ逆さまである。

 

 本当に恐怖に震えた時、人という者は溢れていた涙さえ一瞬で引っ込んでしまうのだと気付いて有栖はなんだか笑ってしまった。

 笑うしかなかった。

「えへへ…あははははは…」

 声をあげて笑った。次の音が聞こえるまでは。

 

 ごとり。ごろ…ごろごろ…。

 

 嫌な予感に身を貫かれながら有栖が背後を振り返る。

 今さっき曲がって来た角が左手に見え、正面は行き止まりの壁だったが、だんだん近づいてきたごろごろという音はその壁を突き破って有栖に迫る。

 

「さっきから罠が古典的すぎますわよ!!」

 壁を突き破って迫ってきたのは言わずもがな、巨大な岩の塊である。

 岩は既に角を過ぎている為、来た道を引き返す事はできない。

 そして、道の先は落とし穴。

 逃げ場は無い。岩は迫る。

 そして有栖は悟った。

 

「…これは死にますわね」


 そう、でもそれは

 

 ここで諦めてしまったらの話だ。

 

「やってやりますわよこんちくしょぉぉぉぉぉぉおお!!陸上部なめんじゃ、ありませんわぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!」


 岩が目の前まで迫る。

 有栖は叫びながらクラウチングスタートの構えをとり、まさに踏み潰されてしまうその寸前にスタートを切る。

 火事場のなんとやらが発動する事を祈って有栖は走った。

 目の前には大きく開いた穴。

 穴が開いているのを解っていてそこへと全力疾走するという事がこんなにも恐ろしい事だったのだと知る。

 しかし、やらねば間違いなく死ぬ。ならやるだけやってそれでもダメなら潔く死のう。

 有栖の覚悟が完了した瞬間、大きく空いた穴の縁に足を踏み出す。

 通路と穴との角を思い切り踏み切って飛ぶ。

 要は走り幅跳びだ。穴を越えられれば生還。届かなければ死。実にシンプル。

 

 有栖の身体は今まで部活でこなしてきた走り幅跳びよりもいい感じに飛べている気がした。

 それはただ単に平地を踏み切って飛ぶのと角を踏み切って飛ぶのとの差でしかなかったが、そのほんのわずかな力の入り具合が飛距離に加算された事でギリギリ、本当にギリギリ有栖は向こう岸に到達する事ができた。

 着地の事など考えていなかったので勿論勢い余ってそのままごろごろと床を転がる。

 本当ならそのまましばらくうつ伏せになったまま呼吸を整えていたかった。

 が、それすら許されない。

 

 ボゴッ

 

 着地の際に有栖から脱げて転がっていった靴が、更なる落し穴に落下していく。


「じょ、冗談、ですわよね…?」


 ズドーン!という音に背筋を凍らせながら振り返ると、それは有栖を追いかけてきた大岩が、第一の落し穴に落下した音だった。

「…お、おどろかせないでくださいましっ!これ以上、何かあったら、わたくし、もう…」


 ズドーン!

 落し穴に落ちた大岩はきっちり穴を塞ぐくらいのサイズだったらしい。

 そして、その真上から第二の大岩が現れた。

 

「…これは死にましたわ」


 しかし、何もせずにそれに潰されてやるわけにもいかない。

 あくまでもやるだけやってからでないと皆に顔向けが出来ない。

 有栖は自分を振るい立たせもう一度走り出す。

 

 ところだったのだが穴の手前で思い切り転んでしまった。

 片足だけ靴が脱げてしまっていたのがバランス崩壊の原因だった。

 そしてそのまま身体が傾き通路の壁の方に倒れる。

 

 終わった。

 

「お父様お母様多野中、そして皆さん、ついでに…乙姫さん。わたくし、ここまでのようですわ。こんな情けない姿でのし有栖になる事をお許し下さい。さようなら」


 そして無常な大岩が迫り、そのまま第二の落し穴へと落下していった。

 

「…」



「…。。。世の中って、どうしてこう、無常なんですの…?」


 有栖は、完全に死を覚悟していたが、結局潰される事なく岩は有栖を通り過ぎて穴へと落ちていった。

 

 四角い形の通路を丸い岩が転がって行くのだから四隅に隙間が生まれるのは当然の事である。

 それを、生還した後に気付いた有栖だからこそこの言葉を呟くしかなかったのだ。

 

「…つらい」


 その表情は涙に濡れていたが、恐ろしさや生還への喜びではなく、ただひたすら自分のアホさへの涙だった。誰にも見つかる事無く、誰にも助けられる事なく、彼女は15分ほど泣き続けた。

 

 

 

「なんか凄い音がしたけどほんとにこっちであってるのか?」

「見取り図は頭に入ってるから間違いないんだよ」

 道順はハニーに任せっきりだったのでここがどこら辺なのかも全然解ってないが、ハニーがこっちであってるというのならそうなんだろう。

 しかしついさっきこの先から凄い音が響いてきたのは間違いない。

 誰かが先に到達していて、何かトラブルにでも巻き込まれているんじゃないかと思うと心拍数が勝手に上がっていく。

 そして、ハニーの案内通り角を曲がると…

 道の先に誰かが倒れているのが見えた。


「…あれ、御伽さんじゃないかな」

 通路の脇で倒れているのは多分有栖だ。

 何故有栖一人だけなんだ?多野中さんはどうした!?

「おい有栖!大丈夫か!?…ってうわなんだこれ!?」


 有栖に駆け寄ろうとすると、通路に大きな穴が開いてそこに大きな岩が嵌っていた。

「…もしかして転がってきた岩に追いかけられたのかもしれないんだよ」

 そんな昔の冒険映画じゃあるまいし。

 と、思いながらもこの状況を見る限りその線が濃厚そうである。

 慎重に通路から岩の上に飛び乗って反対側へと渡り、有栖に駆け寄る。

有栖を抱き起こそうとするが彼女は無反応だった。意識が無いのだろうか?まさか死んでたりしないだろうな?


「おい、有栖!無事か?なんとか言ってくれよ!」

「御伽・ファクシミリアン・有栖は先程死にました。ここに居るのはただのアホです。放っておいて下さいまし」

 震えた声で有栖はそう言った。

 いったい有栖に何があったんだろう。とにかく無事で良かった。

「おい、ふざけてないで起きろ!」

「ふふ…アホなわたくしを笑いに来たんですの?」

 ダメだこいつ…

「正気に戻れ!」

 べちん!

 申し訳ないと思いながらもこのままじゃ埒が明かないので一発ビンタさせてもらった。

「な、なななな何をなさるんですの!?家族にも打たれた事なんてありませんのに…!」

「正気に戻ったか?大丈夫か?怪我してないか?」


 よく見るとあちこち服が汚れていて髪の毛もボサボサだ。

「ほら、こんなに髪の毛までぐしゃぐしゃになっちまって…起きれるか?」

 さすがに酷い有様だったので軽く髪の毛をなおしてやる。

「な、ななななな…何をなさるんですの!?」

「ん?ひっかかって痛かったか?ちょっと待ってろすぐに終わるから」

「…そういう事では無いんですけれど…」

「なんか言ったか?」

「なんでもありませんわ」


 まったく。膝とかにも擦り傷とか出来てるし大変だったみたいだ。

「おとちゃん、そろそろ行くんだよ。隠し部屋はすぐそこだからね」

「おう。…よし、大体元通りになったんじゃないか?細かい事は気にしないでくれよ。俺は専門家じゃないからな」

「あ、あの…ありがとうございますわ。でも…出来ればもう少し早く来て欲しかったですの」

 涙目で有栖が訴える。

「ごめんな。でもここからは大丈夫だ。一緒に行こう」

「おとちゃんのついでに御伽さんも守ってあげるから心配しないでいいんだよ」

 …まぁ俺がいても役に立たないかもしれないがハニーが居れば大丈夫だろう。

 ハニーは「こっちこっち」といいながら二つ目の穴に嵌っている岩を渡ってもう一つ向こう岸に渡る。

 俺もゆっくり有栖を立たせて、一緒に渡った。

「ほら、ここの扉だよ。御伽さんが先にここの落し穴を処理しておいてくれたから無事にたどり着けたんだよ」

「…死ぬところでしたもの。少しは役に立ててよかったですわ…くすん」

 有栖がまた泣きそうな顔になりながら笑う。

 どんな感情だよ…。

 

 ともかく俺達は目的地まで無事にたどり着く事が出来た。

 一番乗り出来てよかったというべきか…泡海のSDカードを俺ならすぐに解るだろうしあれを回収しておかないと。それに、何よりここに白雪が居るかもしれない。

 出来れば真っ先に見つけてやりたいというのが心情ってやつである。

 

「あ、鍵がかかってるんだよ…えいっ」

 言うやいなやバギッという音を立てて鍵をぶち壊すハニー。おそろしや。

 ハニーに続いて俺と有栖も部屋に入ると、そこは六畳程度の掃除用具室だった。よくわからない業務用の機械も沢山置いてあるが、よく見るとそれら全部軽くほこりを被っているのでここの掃除担当は大分怠けているのが伺える。

「確か…ロッカーでしたわよね。これかしら」

 おもむろに有栖が目の前のロッカーを開けて天井をまさぐり始める。

 意外と解りやすいボタンだったらしく、すぐにゴゴゴ…とロッカーの後ろの壁が横にスライドしていった。

「うぇ…」

 覗きこんだ有栖がげんなりした声で唸る。

 隠し部屋は掃除用具室よりも広いくらいで、大きな棚が沢山並べられそこには変な物が沢山飾られていた。それにしても並べ方が雑である。

 怪しげな土器とか、ピラミッドから発掘されたんじゃないかと思うような金色のマスクとか何故かおたふくが鬼の形相をしてるおたふく般若仮面みたいなものもあった。

「うわーこれ凄いんだよ!おとちゃん見てみて!例のイグアナもあるんだよ!」

 有栖とは対照的にハニーはめちゃくちゃテンションがあがっている。こういう変な物が好きなのは相変わらずらしい。

「舞華さん…こういうのが好きなんですの…?」

「えっ、う、うん。ほら、うちは親がこういうの好きだからその影響で…。うん、それだけなんだよ」

 そういえばハニーの変な趣味を他の人に話してるのは見た事がない。もしかしたらあまり知られたく無い事なんだろうか。

「と、とにかく。まずは探すもの探しちまおう。白雪は確か腕輪みたいなのに閉じ込められてる筈だからみんな探してくれ。」


 それぞれ手分けして探す事にした。細かいものも結構あるようなので意外と見つけるのは大変かもしれない。

 有栖は黙々と律儀に坪とかの中まで覗きながら探しているが、ハニーはこれは見た事の無い形のナイフなんだよ!とか何かの儀式用の物かもしれないとかなんとか言いながら騒いでいる。頼むからちゃんと探してくれ。

 俺も二人が探しているのとは対角の方から探し始める。

 …そこに他の物とは明らかに雰囲気の違う箱を見つけた。

 他の怪しげな年代物と違って新しめで、掌サイズのジェラルミンケースみたいな形をしていた。

 もしかしたらこれに腕輪が入っているのかもしれない。

 が、鍵がかかっていて開ける事ができなかった。念のためにハニーに聞いてみる。

「なぁハニー、こういうのって開けられるか?」

「ん?何その箱。ちょっと貸して」

 ハニーは箱を手に取りあちこちを観察して

「無理矢理でいいなら今開けてあげられるとおもうんだよ。開ける?」

 無理矢理って…まぁ部屋のドアをぶち壊すような奴だからな…。でももし無理矢理開けたら中身が爆発…とかそういう類だったら…

「あ、ごめん」

 ハニーが気まずそうにバカッと割れた箱を掌の上に乗せていた。

 こいつ勝手に…でも特に問題はなさそうだ。

 ハニーから箱を受け取り中身を確認する。

 中身はどう見ても腕輪ではない。なにやら指輪を入れるケースのようになっていて、そこには指輪の変わりに小さなSDカードが二枚入っていた。

 見つけたぞ。いや、これが泡海の探してたカードかどうかはまだ解らない。データを確かめてみなくては。

 決してやましい気持ちで見るわけじゃない。断じて違うんだそこは解れよ。

「何をぶつぶつ言ってるんですの?」

「な、なんでもないよ。これ泡海の探しものかもしれないからちょっと確認するわ」


 一応泡海のプライベートな物だから内容を知ってる俺だけが確認させてもらう、という建前で二人に見られない場所に移動し、自分の持ってるスマートフォンにカードを差し込む。

 そしてその中身を適当に確認する。

 そこには、カメラを取り付けている様子の泡海だったり、こっそり女子にストーキングしている泡海だったりがきっちり映されていた。

 泡海のやつこんな決定的な証拠を握られていたのか…確かにこれは取り返さないと泡海にとっては命取り、というか人生終了案件だ。

 だが、俺が思っていた内容とは少し違った。

 

 だとしたら、もう一枚の中身は…

 

 間違い無い。

 これは

 

 これはいい物だ。

 

「ちょっとおとちゃん?なんかそれ怪しいんだよ…」


「…」

 ハニーの言葉は耳に入ってきていなかった。いい加減確認作業をやめようとしたその時画面に映ってしまったのだ。目の前の有栖が。

 数枚確認した中で偶然有栖の画像を引き当てる俺の運の強さよ。


 しかし動画で撮った着替えの様子をいちいちコマ送りで静止画に分割したものらしくブラウスのボタンにかけられた指がなかなか先に進まない。

 さらに次へ次へと画像を送ると、やっとボタンを全部外してブラウスを脱ぐ。下着一枚になった有栖がブラの肩紐を


「乙姫さん?」


「…えっ?な、何?」

「…おとちゃん。今、すっごくだらしない顔してるんだよ」

 気がつけば二人が俺の方を訝しげに見ていた。

 くっ…名残惜しいがこれ以上これを見ているわけにはいかないらしい。

「と、とにかく!これは泡海が探していた物に間違いない。これで探しものの一つは見つかったな」

 しかし泡海の奴こんな素晴らしい物を大量に所持していたなんてうらやま…けしからん!やはりいずれ少し分けてもらえる方法を考えなければ…。

「そうですわね…でも腕輪のような物は見当たらないですわ…とりあえずもう少し探してみますわ」

 はっ!そうだった。俺はこんな所でのんびりとアレな画像チェックをしている場合じゃないんだったすまん白雪。…あと有栖。でもこれは必要な確認だったんだ。

 

 虚しい言い訳を頭から振り払いまたひとしきり捜索を始める。

 棚は全部確認し終えてしまったので望み薄ながら床に置いてあるダンボールの中までひっくり返してみたがそれらしき物は見当たらない。

 

「これだけ探してないならここには無いのかもしれないんだよ」

「どうしますの…?ここ以外に心当たりなんて私にはありませんわ。泡海先輩もあの支部長とか言う人のところですし…」

 …ん?泡海が支部長のところ…?

 だったら

「もうこうなったら支部長締め上げるのが一番早いんだよ」

 ハニーも俺と同じことを考えたらしい。

 どういう経緯で泡海が支部長の方に行ったのかは解らないがそこに戦力が集中すれば一気にここを制圧できるかもしれない。

 隠した本人を締め上げて吐かせるのが一番手っ取り早い。

 最初からそれが出来れば一番よかったが手荒な事になるよりさっと取り返して脱出してしまったほうがこっちの危険が少ないし、そもそもここに集められている連中がそろって支部長の警備に回されたら手に負えない。各個撃破ができた今の状況は結果オーライだろう。

 結果的にある程度の連中は表のアルタが引き付けてくれたし俺達の行く先にいた連中はハニーが伸してくれた。多分咲耶ちゃんが遭遇する人たちもなんていうかご愁傷様であろうしボチボチ数も減らせているんじゃないだろうか。

 泡海も支部長の側まで行けているならなお更都合がいい。あとはすっと合流してガッと支部長をどうにかしてさっと腕輪を回収して速やかに撤退するのみである。

「じゃあ作戦としては次は支部長室を目指すとして、ハニーは場所解るか?」

「うん。大丈夫なんだよ全部頭に入れてあるから」

 さすが頼もしい相棒である。

 ハニーはまだここにある奇妙な物たちに未練があるのか周りをきょろきょろしながらも支部長室までの道を案内しはじめた。

「あ、あの…わたくしもついて行って大丈夫でしょうか?自慢じゃありませんが何かの役に立つとは思えないですわ」

 有栖の不安はごもっともであるがそれを言うなら俺も同じ事である。それに今ここで一人放り出すわけにもいかない。一緒に居たほうが安全だ。

「いや、有栖も一緒に来てくれ。その方がいいと思う」

「わ、分かりましたわ。がんばりますの」

 俺も、少しは頑張らないとなぁ。

 

 

 道中相変わらず事情を察していないエージェント連中が立ち塞がっては騒ぎたて、ハニーに黙らされていく。

 その様子を見る限りどうやら情報の伝達は上手くいっていないようだ。

 俺達はここに侵入してからもう大分経つし割と騒いでいると思う。それでも連中が侵入者に対して警備を強化していなかったり、遭遇すると驚いたりしている。

 やっぱりこの組織ザルなんじゃないだろうか。

 規模だけ大きくなっても統率がとれていないなら意味がない。

 この状況を見るだけでも支部長とやらが敏腕では無いんだろうなって事が分かる。

 こんな調子じゃ意外ともう泡海にぶちのめされていたりして…

 

「あら、遅かったわね。例の物はちゃんと回収してきたの?」

 …。

 

 

 ハニーの案内で無事に支部長室に着き、一気に攻める方がいいと話し合ってドアをけり破り中になだれ込んだのだが。

 

 まぁ、なんというか。

 手足を縛られボコボコに顔面を腫らした残念な男が一人と、支部長が座るべきであろう豪華な椅子に座り、脇にしゃがんだいばらの喉をまるで犬や猫を撫でるようにしながら偉そうにふんぞり返っている泡海がいた。

 …もう解決してんじゃねぇか。

 

「…そこに転がってるのが支部長って奴か?」

「そうよ。って、乙姫君。そんな事よりちゃんとアレは回収してきたんでしょうね?」


 大いに惜しいが持ち主に返すとしよう。

 ポケットから例のカードを取り出し泡海に返すと


「こ、これよぉぉぉ!これさえ取り戻せればもう私の未来を邪魔する物は何もないわぁぁぁあとはおうちに帰ってゆっくり確認するだけ…ぐへへへ…」

「あ、泡海先輩…?その中には何が入ってるんですの…?」

 常軌を逸した泡海のテンション具合に有栖が問いかける。

「ここにはねぇ~私の全てが入ってるの。勿論コレクション№一~十九まではちゃんと家に保管してあるけれどこの二十が奪われた時はこの世の終わりかと思ったわ…」

「は、はぁ…。大事な物って事だけは分かりましたわ」

 …おい、聞き捨てならないぞ。

「まて泡海、それ以外にまさか十九枚も似たような物があるのか!?」

「勿論あるわよぉぐへへ…はっ…。す、少し取り乱してしまったわ。そう、この私の大事なコレクションはこれで№二十。取り返してくれてありがとう。感謝するわ」


「…人魚泡海さん。ちょっとご相談したい事があるんですけれど」

 それだけあるのならば…!

「…貴方が言おうとしてる事なら分かるわ。でもね、貴方は自分の子供を誰かに欲しいと言われて分かりましたとあげるような人なの?」

 例えが卑怯すぎる!

「それはそうだが仮にお金を落として拾ってくれた人がいるのならば何割かの例を渡すぞ俺は!」

「くっ、無い頭で都合のいい言い方を…っ」


「あの、舞華さん。あの二人はいったいなんの話をしているんですの…?」

「さぁ。ボクらには解らないし解らない方が幸せな話だと思うんだよ」


「一割!一割でいいからっ!」

「…しかたないわね。でも全部の一割じゃなくて貴方が拾ったコレ、これの一割よ」

「ぐっ、やむをえんっ!それで商談成立だ!」

 …やむを得ないと言いはしたが、正直他の物よりその№二十とやらの内容の方が気になっているので結果オーライである。

 あの続きを…ッ!

 

「ところで乙姫さん。腕輪のありかを聞かなくてよろしいんですの?」


 はっ!?

 

 またアレに気をとられて大事な事を忘れそうになっていた…。

 何度目か解らんが許せ白雪。そして有栖。

 

「支部長さんとやら、白雪…悪魔を閉じ込めた腕輪はどこにある?隠し部屋は一通り探したがあそこには無かった。違う場所にあるんだろ?」

「ぞっ、ぞれを…おどなじくおじえると、おぼうどか?」

 床に転がっている支部長は顔面がボコボコすぎて上手く喋れないらしい。

 ただ、教える気がないのだけは解った。


「いばら。このおっさんの爪を一枚ずつ剥がしなさい」

「了解でありますっ!」

 …それを涼しい顔して命じる方もどうかと思うが満面の笑みで即了解する方もどうかしている。

 支部長はというと最早言葉も出ずに口をパクパクさせていたが、いばらが実際指の爪を一枚ペンチで摘んだところで

「ひょ、ひょっとまへ!!わはった。わはったからっ!!」

 と、あっさり観念した。

 なのに、である。


「…えいっ」


 べりっ

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 酷い。実行前に楽しみを奪われた腹いせにせめて一枚剥がしたかったようだ。

 血が滴る爪をペンチの先にぷらぷらさせながらいばらが「えんがちょ~」とにこやかに、それでいて嫌そうに呟く。

 えんがちょって…今なかなかその表現聞かない気がするんだが。

 ちなみにうちの母親はよく言っている。

 血が滴っている爪を見て有栖は部屋の隅に逃げていった。

「ひえぇぇぇぇ…」

 とか言いながら顔を真っ青にしている。

 

「で?話す気になったんでしょう?早く言いなさい。さもないと今度は私がもっとイイコトしてあげるわ」

 机に両肘をついて司令官ポーズの泡海が満面の笑顔で催促する。

 あの声はしゃれにならないやつだ。それを向けられているのが自分じゃなくて心から感謝と安堵。そして申し訳程度の同情を感じる。

 

 

「…わがったから、もう爪はばがさないでぐれ」

 心なしか少し聞き取りやすい声になってきた気がする。思い切り叫んで喉が通ったのだろうか…そんな改善方法は嫌だなぁ。


「その、づくえの二段目をあげてみたまえ」

 泡海がふんぞり返っている机の事だろう。

 いばらがささっと駆け寄り引き出しを開ける。


「何やらボタンが二つあるであります!」

 そう言って引き出しの中から四角いボタンを二つ取り出し、机の上に並べた。

「これは何のボタンなのかしら?」

「それは…がくし扉をあけるためのボタンだ。ただし二つ同時に押さなければいびがないぞ」

「その隠し扉の先にあの腕輪を隠してあるって事ね。いばら、その隠し扉の事は知っていた?」

「いえ、私は知らないであります」

「そう、どちらにしても押してみるしかなさそうね」

 そう言って泡海が二つのボタンを同時に押し込む。

 その瞬間けたたましいサイレンが響き渡った。


 やられた!

「おとちゃん、これ…」

「ああ、あいつまだ諦めてなかったのか」

 ここに来て悪あがきをするとは思わなかったが、このサイレンで支部内に残っているエージェントもここに集合してしまうだろう。

 なら早く腕輪のありかを吐かせないと。

「貴方…よくも私を騙してくれたわね」

 泡海がキッと支部長を睨むが、今まで支部長が転がっていた所には既に何もなかった。


「がははははっ馬鹿め!縄抜けくらい昔の修羅場で必要に駆られてマスターしているわ!」

 必要に駆られて縄抜けを覚えるってどう考えても捕まってるじゃねぇかこいつろくな人生送ってきてないな。

 そんな事よりも、縄を抜けた支部長は泡海が居る机から見て右側の壁にある本棚の前にいた。

 いや、正確には本棚があった場所にいた。

 すでに本棚はスライドしていて隠し部屋への入り口が開かれていたのだ。

「嘘なんて言ってないぞ。泡海君、君が押したのは警報装置とここへの鍵、その両方だよ。ちなみにここは数秒すると…」


 がちゃーん!と勢いよく上からガラスが落ちてきて入り口を塞いだ。


「これは特殊な強化ガラスだ。もはやこちら側からしか開けられない。あとは私がここに篭城している間にお前らは針のむしろ袋のネズミだ!」

 よく喋るようになったものである。

 しかしこれはよくない。あちら側しか開かない上にここに敵が大挙してやってきたら…

 

 うぉーんうぉーんうぉーんうぉーん

 

 けたたましいサイレンが鳴り続き、次第に外が騒がしくなってきた。

「仕方ないなぁ…ボクが行ってくるんだよ」

「おい、ハニー。数がわからないんだから無理するな」

 それでもハニーはこちらにニコリと笑みを見せ、「行ってくるんだよ」と扉を開けた。

「これでお前らも全滅だ!ざまぁみろ!」

 一人テンション上がっている支部長を見ているとイライラする。

折れた腕をプラプラさせているのでひとしきり飛び跳ねてから痛い痛いと喚いているのがひどく滑稽である。


「支部長!侵入者を捕らえました!」

 その時外から声が聞こえてきた。

 誰かが捕まった?ここに居ないのは誰だ?アルタ、ネムさん、多野中さん、あと咲耶ちゃんか。

 わからん、正直誰も捕まるような人とは思えない。アルタにはネムさんがついてるし多野中さんと咲耶ちゃんは心配する意味が無い気もする。じゃあいったい誰が…?


 外に出て行ったハニーが困惑した声をこちらに向けてきた。

「…おとちゃん、全然知らない人達が捕まってるんだけど…気にしなくていいんだよね?」


「なんだ?お前らの一味が捕らえられたんじゃないのか?おい、外の奴ら、詳しく状況を説明しろ!」

「し、支部長!?こいつは何者ですか!?」

「侵入者だ馬鹿め!まだ部屋の中にもいるぞ!早くなんとかしろ!!




「お前が行こうなんて言うからこんな事になったんだぞ!?」

「ばっ、お前だって乗り気だったじゃねーか」

「こいつらに雇われてるのになんで俺らが捕まんなきゃならねーんだよ!」

「そうだそうだ!」

「そりゃ、不法侵入ってやつだからじゃないですか…?」

「まじかー」

 アルタのライブが終わり、トイレからの進入口を発見したヤンキーが6人。

 彼らはあっさりと中のエージェントに確保されていた。

 彼らは特に縛られたりはしてないが、黒服十五人程度に囲まれてはさすがに降参するしかなかった。

 彼らはヤンキーだが、それ故に多勢に無勢というのをきちんと理解している。

 偉い人にちゃんと話せば雇われている人員だという事がわかるから連れていけと言ったのは彼らの方からだった。

 前に七人、後ろに八人と、黒服に挟まれた状態で彼らは支部長とかいう人の所へ連行される。


 道中ところどころで別の黒服が倒れていたので彼らを連行している黒服達も慌て始める。

 それもあってなお更彼らは侵入者一味として疑われる事になった。

 そして支部長室へとたどり着いた時、

 そこで、騒ぎがおきた。

 他の侵入者が現れたのだ。

 前にいる連中が部屋の中の支部長とか言う人と大声で話している。


 なんで部屋に入らないのだろうと疑問だったが、どうやら背が小さくて見えないだけで誰かが部屋の前に立っていたようだ。

 黒服の隙間から可愛らしい少女が見えた。

「おいおい、侵入者ってあの子かよ」

「ほんとは俺らがあの子をここに入れないようにしなきゃいけなかったんだろ?」

「でもあんな小さな子に何ができるんだよ」

「むしろこれってあっちの味方したくなっちゃいますね」

「それある」

「んでお近づきにってか?ゲスいわー」

 そんな会話をしいていると、前にいた黒服が消えた。

 彼らには意味が解らなかった。

 突如二人ほど消えて、次のもう一人が消えた時に何が起きたのかを理解する。

 ただ単にあの少女が物凄い勢いで黒服達を地に伏せていたのだ。

「すげぇ…」

「お、おい…あれってまさか…」

「あれか?噂のリトルデーモン」

「まてよ。あれって結構前の話だろ?」

「じゃあ代替わりしたって噂もマジだったんですかね?」

「じゃあこの子が噂の二代目か!?小さくてかわいくて強いとか最強だな!!」

 彼らはヤンキーである。

 どこかチームに所属しているわけではなく、強い者に憧れるただのヤンキー、チンピラである。

 最早彼らは目の前の少女が侵入者だという事も、自分らが侵入者と勘違いされている事もどうでもよかった。

「やっちまえー!」

 気がつけば皆で少女を応援していた。

 のだが。

 

「じゃま」


 彼らの意識は闇に落ちた。

 微かに、消えていく意識の隅で自分らの後ろにいた黒服たちが崩れ落ちる音が聞こえた気がした。

 

 

「ふぅ。終わったんだよ」

 ほんの数分でハニーが支部長室に帰ってくる。

「捕まってた人たちって結局誰だったんだ?」

「うーん。わかんない。じゃまだったから一緒にのしちゃったんだよ」

 …それでいいのか?


 まぁそれよりハニーが無事に戻ってきた事を良しとしよう。

 軽い運動を終えたくらいの感じでハニーが両手を上にあげて伸びをした。


「ふぅ。…で、とりあえず外に居た連中は倒しちゃったけどまだそこに閉じこもってるつもりなの?もう無駄なんだよ」

 無邪気な問いかけが逆に怖い。


「ば、馬鹿な…こんな子供に?お前、一体何者なんだ…」

「そんな事はどうでもいいの。この子は地上に舞い降りた天使。そうとでも思っていなさい。貴方なんかが口をきく事すら許し難い事だわ」

 今まで支部長机でふんぞり返っていた泡海が立ち上がり、ハニーを称える。

「て、天使だと!?この少女がっ!?」

 ちがうちがう。なんか誤解がひろがっていくぞ。

「残念だけどボクは四分の一なんだよ」

 ハニーは複雑そうな顔でそんな事を言い出した。四分の一ってなんの話だかよく解らないが、とにかく奴を隠し部屋から引っ張り出さないと話が進まない。


「貴様ら、雑魚をいくら倒したところで安心するのはまだ早いぞ!ここには高い金出して雇ったプロが居るんだからな!そいつさえ来れば貴様らなんか」

「あー?それってこいつの事か?」

 支部長の声を遮って現れたのは我らが咲耶ちゃんである。

 あちこち血まみれになっているがそれも狂気じみててかわいいよ!

 って、そうじゃない。その血はなんだ?どうやら本人が怪我してるって訳じゃなさそうだ。

 よく見ると咲耶ちゃんが右手に金髪を生やした変な物を引き摺っている。

「咲耶ちゃん、それ…何?」

「咲耶ちゃんゆーな。これは途中で見つけた風呂掃除男だよ」

 風呂掃除男…?


「そ、そんな…ジャバウォックまで…」

 支部長の様子を見る限りそのプロとやらが風呂掃除男らしい。

「…それはもう悪魔の如き戦いぶりでしたよ」

 咲耶ちゃんの背後からすっと多野中さんが現れた。

「多野中!無事だったんですわね。安心したわ。爺に何かあったらわたくしどうしたらよいものかと…」

 部屋の隅で青い顔をしていた有栖が多野中に飛びついた。

「ほっほっほ。心配させて申し訳ありません。ただ勢い良く飛びつかれては危ないですぞ。私も少々まだフラついておりまして」

 多野中さんは少し顔色が悪く、フラフラしていた。道中大変だったのかもしれない。


「あ、悪魔だと…?貴様らいったい何人天使と悪魔を抱え込んでいるというのだ…」

 多野中さんの『悪魔の如き』発言を間に受けてまたさらに勘違いが拗れたようだ。


「貴方の悪あがきもこれで最後のようね?さあ、どうする?一生そこに閉じこもっている気かしら」

「…ぐぬぬぬ…こうなったら最後の手段だ。貴様ら後悔しろよ!」

 泡海の追い込みに支部長は隠し部屋の奥から小箱を持ってきて開けると、中身を腕に装着した。

 

 腕輪だ。

 

「まずい、こいつもしかして白雪と契約する気なんじゃ…」

「今更気が付いても遅いわ!本来ならこのままボスに渡さなければいけないのだがこうなっては仕方があるまい」


 悪魔と契約するには条件があるはずだ。その悪魔に名前を付ける事。だがもう白雪には俺が名前をつけている。

 俺の疑問を解決したのは支部長が取り出したもう一つの腕輪だった。

「この腕輪は対になっていてな。両方装着する事で無理矢理契約を結ぶ事が可能になるのだ!!」

「ハニー!咲耶ちゃん!今すぐこのガラスぶち壊してくれ!!」

「あいよ」

「わかったんだよ」

 二人は左右から同時に飛び掛り、ガラスに向けて思い切り拳を振りぬいた。

 物凄い音と共にガラスが吹き飛び、向こう側に居た支部長が背後へ吹き飛ぶ。

「うごぁぁぁぁ!!ば、馬鹿な!戦車の砲弾をも弾く特殊強化ガラスだぞ!?」

 周りに飛び散ったガラスから守るようにいばらは泡海の前へ、多野中さんは有栖の前へ出る。

 実際ガラスを打ち砕いた二人は特に怪我は無いようだ。要するに、そのガラスで被害を受けたのは俺だけらしい。

 といっても細かい欠片が掌に刺さって少し血が出た程度だが。

「諦めて白雪さんを帰すんだよ」

「馬鹿か!コレは悪魔なんだぞ!?人みたいな言い方しやがって」

 隠し部屋の方に転がった支部長がよろよろと立ち上がりながらそんな事をのたまう。


「馬鹿はお前だよ」

 気が付けば俺は支部長の前に立ち、その言葉を否定していた。

 だってそうだろう?


「悪魔は所詮悪魔だ!道具なんだよ!私達が!上手く使ってやる為の存在だ!」

「やっぱり馬鹿だなお前。白雪はな、確かに迷惑な奴だしとんでもねぇ悪巧みばっかりだ。だけどな、あいつはただこの世を楽しんでるだけなんだよ。ただ思い切り楽しみたいだけなんだよ!そんなのただ変な力もった普通の女の子じゃねぇか!!」

 支部長は心底驚いたように目を丸くして言った。

「き、貴様…それを本気で言っているのか?こんなふざけた、超常の力を持った存在が普通の女の子だと!?頭沸いてるのか!?いいだろう、じゃあ貴様のいう普通の女の子とやらの力を思い知るがいい」

 咲耶ちゃんとハニーが支部長の行動を阻止しようと走り出すが、ほんの少しだけ奴の行動の方が早かった。

「うおっ!?」

「うわぁぁぁぁっ」

 見えない壁のような物に弾き飛ばされ二人が俺の両脇をすり抜けるように吹き飛んでいく。

 背後で二人が壁に激突する音が聞こえた。

 慌てて振り返ると、二人とも壁にめり込んではいたが「びっくりしたー!」「今のは…少し驚いたんだよ」とか呟いていたので怪我の心配はないだろう。相変わらずあの二人はどうなってるんだ。

 それよりも、今はもっと考えなきゃいけない事があった。

「なんじゃしけた面をしおって。少しは再会を喜んだらどうじゃ」

 俺と支部長の間に、肌も髪も浮世離れした真っ白い少女が立っていた。

「…っ、白雪…」

「お、おおお…乙姫君、あ、あの…私、先に避難しててもいいいいいいかしら?」

「ひ、人魚様っ!?いったいどうされたんですか!?」

 泡海は白雪の力を目にしたとたんガクガクと震えだした。

 いつぞやのトラウマが再発したんだろう。あの様子じゃもう無理だ。

 有栖も危険だし多野中さんはフラついてる。

「いばらさん、泡海を連れて先にここから脱出してほしい。多野中さんも、有栖を連れて先に行って下さい」

「そ、そんな!ここに来て先に帰るなんて出来ませんわ!」

「有栖。ごめんな、でも多野中さんも本調子じゃねぇみたいだしさ。泡海もあんな状態だから。それに早めにアルタと合流してやってほしい。後の事は任せてくれよ」

 泡海といばらはさっさとこの部屋から逃げるように去っていった。


 すれ違い様に、「お、おうちっおうち帰るっ」とか聞こえたので完全にトラウマスイッチがオンになっているようだ。

 有栖はしばらくゴネていたが、多野中さんに嗜められて「絶対白雪さんと一緒に帰ってきて下さいまし!約束ですわよ!」と言い残し出ていった。


 ここに残るは、その様子をニヤニヤ眺めていた支部長、その前に無表情に佇む白雪。

 それと俺、あとは壁からめりめりと脱出してきた咲耶ちゃんとハニーだ。


「白雪さんって今操られてる状態なのかな?」

 …考えたくは無いがそうなのかもしれない。白雪の力を、敵を排除する為だけに使ったとしたらどうなる?俺なんか一瞬で粉にされてしまうかもしれない。それくらいの恐怖はある。が、誰が逃げても俺だけは逃げるわけにいかない。


 咲耶ちゃんやハニーの様に力なんかない。アルタみたいな行動力もない。泡海の様な決断力もなければいばらの様に何かに対して命をかけるほどの情熱もない。多野中さんの様な冷静さや大人の余裕もない何もない人間だ。有栖は…えーっと。まぁそれはいい。

 そんな何もない俺だけど、白雪に白雪と名前を付けたのは俺だ。奴のわがままや行動に責任を持つ義務がある。あいつがやりたいように(ほどほどにしてほしいが)思い切りこの世を楽しむのを見届ける責任がある、誰にも邪魔させたくはない。


「ところで…そろそろ準備はできたかえ?」

 白雪が怪しげにこちらに向かって微笑む。

「あちらさん思いっきりやる気じゃねぇか…さすがに悪魔相手にすんのは初めてだぜ…」

 咲耶ちゃんが見た事の無い鬼の形相で白雪を睨む。

「ふはははは!貴様らもこれまでだ。むしろ貴様らだけじゃない。もはや世界は私の思うがまま!もうボスの言いなりになる必要すらなくなった!」

 支部長が後ろで騒いでいるが、相変わらず折れた腕が痛いらしく軽く涙目である。


「勘違いするなよ?わらわはお主を契約者とは認めておらん。わらわの契約者は目の前におるあの小僧だけよ」

 …白雪?

「お前操られてるわけじゃないのか?」

「わらわはわらわじゃよ。こんな面倒な事終わらせて早くお主で遊びたいのじゃが…どうにもこうにも自由がきかんのじゃ。早くなんかせい」

 なんとかせい言われてもなぁ…。これならいっそ操られてて敵対心むき出しにされたほうがまだやりやすいぜ…。


「貴様の意思などどうでもいい!要はお前が道具として私の力になればいいのだ!手始めにこの折れた腕を治してもらおう!」

 白雪は心底嫌そうな顔をしながら片手をふわふわと振った。

 すると、とたんに変な方向に曲がっていた支部長の腕がまっすぐに戻る。

「お、おぉ…!これが悪魔の力か…素晴らしい。素晴らしいぞ!」

「うるさいのう…早くこいつをなんとかしてほしいのじゃが…」

 やっぱり白雪の意思とは無関係に力を使わされているようだ。


「おい、あたしは小難しく考えるのは苦手だし戦う事しか能が無い。だからこうするしかできねぇけど悪く思うなよな!」

 咲耶ちゃんが俺にそういい残し白雪に殴りかかる。

 しゅごっと空気を切るような音で咲耶ちゃんの拳が白雪の顔面を捉えるが、一瞬早く支部長からの命が飛ぶ。

「あの攻撃を防いで私を守れ!」

 咲耶ちゃんの拳は白雪に掴まれて勢いを失っていた。

「うっそだろすげー!」

 何故かテンションがあがる咲耶ちゃん。

 その背後からハニーの飛び蹴りが支部長めがけて飛ぶが、「あ、あいつのも防げ!」その一言で白雪が軽く手を上から下に振り下ろし、支部長の前に透明な壁が現れ攻撃を弾き返す。

 畜生。こんなのどうしろっていうんだ!


「えぇい面倒だ!私に向けられた攻撃は全て防ぎつつあいつ等を無力化しろ!」

「あー。まずいのう。とうとう攻撃まで命じられてしもうた。すまぬが手加減はできんぞ」

 白雪が目の前に手をかざし、小さな声で何かを呟くと、どこからともなく空中に大きな氷の氷柱が出現した。

「おとちゃん下がってて!」


 情けない。俺は何も出来ずにハニーと咲耶ちゃんの後ろに下がる。

 巨大氷柱は勢い良くこちらに放たれたが、ハニーがそれを受け止め、その間に咲耶ちゃんが粉砕する。

 見事としか言い様がないがお前らほんとに何者だよ!

「見事としか言い様がないのう。お主らいったい何者なんじゃ」

 白雪が大体俺と同じ事を言う。

 まぁ誰が見てもこの状況はそんな感想しか出てこないだろう。


「次はこれじゃ」

 今度は先程の半分もないようなサイズの氷柱が空中に無数に現れた。

「質より数で押してみようかの」

 無表情な白雪だったが、だんだんとその表情は笑みに包まれていく。

 あいつこの状況すら楽しんでやがるな。

 確かに白雪が「こんな事したくないのにっ!」とか言い出したら俺は吹き出してしまうだろう。

 あいつはこういう奴だからいいのだ。

 しかしほんとに打開策が見えない。

「いくぞ。心して受けよ」

 二人目掛けて無数の氷柱が襲い掛かる。

「天使のクォーター舐めないでほしいんだよ!」

 なにそれ初耳なんですけど!?

 氷柱を、ハニーが見えない壁を展開して守りきった。

「なんじゃそれは。天使のクォーターと言ったか?まさかそんな面白存在だったとは思わなかったのじゃ。これは楽しくなってきたのう」

 よく解らないがとにかくハニーは天使と人間のクォーターらしい。四分の一っていうのはそういう意味だったのか。

 さらに戦闘に楽しみを見出した白雪の攻撃は激化していく。

 それに引き換えその力に恐れをなしたのか白雪の背後で支部長は頭を抱えて蹲っていた。

「はやく、早くしとめろぉぉぉ!!」

「うるさいのう…しかしこれ以上このまま続けている訳にもいかないしのう。どうしたものか」


 そういう間にも白雪は攻撃を続け、それをハニーと咲耶ちゃんがことごとく打ち砕き、かわし、攻撃を仕掛けては防がれる。それを繰り返していた。

 さすがに二人の体力の限界もあるだろうしこれ以上膠着状態が続くのはまずい。

 何か、何か打開策はないだろうか。

 今俺が戦力になるなんて事はまずないだろう。なら俺に出来る事はなんだ?

 迷惑にならないように物陰に隠れている事か?そうじゃない。

 他に何か出来る事はないのか。俺にしかでき無い事…考える事?


 そうだ。俺には考える事しかできない。

 少しでもこの状況を打開できる方法を考えるしかないのだ。

 

 …とは言ったものの…

 一体全体何をどうしたものか…

 机の影から少しだけ顔を出して様子を観察する。

 白雪の動きにどこか隙はないか。

 

 …無理だ。白雪は常に必要最低限の動きで行動していて、しかも攻撃も防御も範囲が広すぎる。

 白雪をどうにか撃破して先に進むっていうのは無理がありすぎる。

 

 ならどうする。考えろ…。

 

 何かないか?意外とどうでも良いような事が打開策になるかもしれない。

 たとえば、悪魔や天使が能力を行使する為には契約者からのエネルギー供給が必要な筈だ。


 …あれ?だとしたらハニーは一体どこからそのエネルギーを捻出しているんだ?まさか自分自身からなのか?

 ハニーを見てみると攻撃を防ぎつつ攻撃に転じているその顔は若干顔色が悪いように見えた。

 疲れているだけかもしれない。だけど、もしそれが寿命というエネルギーを消費して戦っているのなら…

 それこそ戦闘を長引かせるわけにはいかない。そこまでの犠牲を払わせちゃいけない。

 

 …待てよ?じゃあ今の白雪はどこからエネルギーを吸い上げてるんだ?

 これだけの攻撃を繰り返し二人の攻撃を受け続けているなら相当量の消費がある筈だ。

 だとしたら…俺って事はない。

 俺だとしたら遊園地の時点でもう限界ギリギリだったしそもそも負債額が半端無い。その場合白雪自身の力を使い続けている事になって存在自体怪しくなってしまうだろう。

 ならば、考えられるのは無理矢理契約をしている支部長から…


 それだったらこのまま耐え続ければ支部長の限界が来て…

 

 いや、そう決め付けるのは早計だろう。

 もしかしたら重複契約で俺と支部長の両方から吸い上げている可能性もある。

 その場合仮に耐え続けたとしても支部長と俺が共倒れである。

 さすがにそれはまずい。

 どうにもならない場合の最終手段としては有りかもしれないが…。

 

 …重複契約?

 

 もしかしたらいけるかもしれない。

 こうなったら一か八か賭けてみるしかない。

 

「ハニー!咲耶ちゃん!少しだけで良いから白雪の攻撃から俺を守ってくれ!」

「何か考えがあるのか?」

「おとちゃんのやる事なら全力で力になるんだよ!」

「ありがとう」

 二人に小さく呟いて、心の中でカウントする。

 

 3

 

 2

 

 1

 

「GO!」


 机の影から飛び出て全速力で白雪の方へ走る。

 すぐ目の前なのに遠い。

 

「お主…やめるのじゃ。死ぬぞ」

 一瞬白雪が顔をしかめるが、その手は俺の方に向けられ目の前に大きな氷柱が現れる。

「うぉりゃぁぁぁぁぁあ!!」

 横から咲耶ちゃんが思い切り氷柱を殴りつけて粉々にする。が、それと同時に今度は咲耶ちゃんに向かって圧縮された空気のような物が襲い掛かり彼女を吹き飛ばす。

「咲耶ちゃん!」

「構うないけぇぇぇ!!」

 後ろに吹き飛ばされながら咲耶ちゃんが叫ぶ。

 白雪までもう少し!

 俺の考えが正しければいけるはずだ。だが、チャンスは一瞬だろう。

 だからギリギリまで…。

「お主本当に死ぬぞ!早く逃げんかっ!」

 白雪が珍しく焦ったような声をあげた。

 でも、止まるわけには…いかないっ!

「馬鹿者がっ!」

 咲耶ちゃんを吹き飛ばしたあの圧縮された空気のような物が俺に向かって放たれた。

 それをハニーがあの透明な防壁を展開して背後に受け流す。

「おとちゃん、今なんだよっ!」

「サンキューハニー!!」

 そのまま俺は白雪の目の前まで迫る。

 白雪が引きつった顔で自分の手をもう片方の手で押さえようとしている。

 あの白雪が俺を傷付けないように命令に逆らおうとしているのだ。

 だが、契約者からの命令に逆らいきれず俺に向かってもう一発の圧縮空気が放たれようとした、その時。

 

 ここだ!!

 

「白雪!止まれ!」


「ぬおっ!?」


 一瞬、ほんの一瞬だけ白雪の動きが固まる。

 その隙にそのまま白雪の横を転がるように駆け抜ける。

 

 …が、間に合わない。

 白雪が体制を整え次弾を俺に向けて発射しようとしたその時。

 

「ちょっとこんなに深いとか聞いてないわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 どぐぉぉぉぉん

 

 白雪のちょうど真上あたりの天井にぽっかりと大きな穴が開いて、白雪に

 

 アルタが降ってきた。


 !?

 

「よく解らんが助かったぞアルタ!」 

 俺の目指す場所はただ一つ。

 そこで蹲っている支部長のその顔面だ。


「くっ…らえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 支部長は、まさか自分に攻撃が通るとは思っていなかったようで「えっ」と間抜けな声を上げてこちらを向いた。

 ちょうど、俺の膝より少し下くらいの位置だ。

 それを、その顎を

 

 思い切り蹴り上げた。

 

 宙に浮いた奴の顔を思い切り地面に殴りつける。

 

 …今までの喧騒が嘘のように静まり返る。

 


「いったたたぁ…」

「もう、いきなり飛び込むからびっくりしましたよぉ~。私が衝撃和らげなかったら死んでますよぉ?」

 どうやらネムさんが白雪の上にこの大穴をあけ、そこにアルタが外から飛び降りたらしい。


「まったく…無茶しすぎだぜ」

「ばっ、アンタに言われたくないわよ!心配したんだからっ!」

 アルタは涙目で罵声を浴びせてくるが、まぁ悪い気はしない類の罵声である。

「アルちゃんってばここから出てきたみんなの話聞いたら慌ててすぐいく今いくって暴れちゃって~」

「うっさい黙れ!」

 ははは。これがいつもの日常である。

 

 そして、いつもの日常に足りないもの。

 それは

 

「貴様らいい加減わらわの上からどくのじゃーっ!!」


 そうそう。これがないと。

「おかえり。白雪」


「うむ。大儀じゃぞ♪…しかし、無茶な事をしたものよな。しかし効果的じゃった」


 そう、あの時俺の止まれ、が効いたのは俺の契約がまだ有効だったからだ。

 重複契約状態なら、あいつの命令に一瞬くらい割り込む事ができると思った。

 正直ダメだったらどうしようもなかったが、なんとか思った通り上手くいってよかった。

 

 …そうだ、あの腕輪を破壊しないと。

 

 支部長が気を失った時点で俺たちを攻撃する命令は止まっているようだが、今のままだとまた同じような事になりかねない。

 

 俺が支部長に近づこうとすると、

「待て。わらわがやる。下がっておれ」

 俺に万が一にも危害が無いようにという配慮からなのだろうが、その一瞬の対応の遅れが仇となってしまった。

 

「きさまらぁぁぁ!!もう許さんぞ!!」

 俺と白雪のやりとりがあった直後、支部長が意識を取り戻し叫ぶ。


 俺が考える限り、最悪の命令を。

「おい悪魔!あの男との契約を破棄しろ!!」

「貴様…やりおったな…」


 白雪が苦悶の表情を浮かべ、俺に「今すぐ逃げろ!」と呼びかけるが、それと同時に白雪から氷柱が俺に向かって放たれた。

「ここに居る奴ら全員始末しろ!」


 これじゃ結局同じ事の繰り返しだ。

「同じじゃない!」

 まるで俺の心を読んだかのように、いや、実際読んだのかもしれない。アルタが俺の考えを否定した。

「私がいる!ネムが、天使がついてる!私を、私をたよ…」

「アルタ頼む!」

 とっさに、アルタの言葉を遮って言葉を発していた。

「任せなさい!ネム。出来るよね?」

「はうぅ~私はこういう荒事向きじゃないんですけどぉ~」

 ネムさんはやれやれという声を出しながらも、少しも怖がってるような雰囲気は見せない。それどころか不思議な落ち着きすら感じる。

「お、おい!そいつが天使なのか!?悪魔、その天使の契約も断ち切れ!」

「拒否」

 支部長の命令を拒んだのは白雪ではない。

 白雪がネムさんの契約を断ち切ろうとした事自体をネムさんが拒否の一言で無かった事にしたのだ。


「な、どういう事だ!?」

「知らぬわ。わらわはちゃんとやっておる。あの天使が何かしてるのは確かじゃが…」

 白雪は相変わらず顔が引きつったままだが、ネムの登場に少しだけ安心したような表情を見せる。

「ただ私は守る方が得意なだけですよぉ~♪」

 ネムさんがニコニコしながら白雪の攻撃を無効化し、支部長にじりじりと近づいていく。

 そして、白雪の目の前まで歩み寄ると、何か小声で囁いた。

 俺には微かにしか聞こえなかったが、「貴女も少しはやる気を見せなさい」とか、そんな感じだったように思う。

 ネムさんは確かに防御面ではハニーと同じように、或いはそれ以上の防壁を展開している。だが、それもアルタから吸い上げているエネルギーの効果だ。

 ライブで消耗したアルタにこれ以上の無理をさせるわけにはいかない。どちらにせよ短期でケリをつけなきゃいけない。


 …が、防御だけでどうする?

 これ以上何が出来るっていうんだ。

 

「あぁ~やっぱり無理ですぅ~これ以上がんばっちゃうとアルちゃんの寿命が危険なのでギブですぅ~」

「ちょっと!何勝手な事言ってるのよ!私の寿命なんて気にしなくて良いから早くなんとかしなさい!」

「私には守る事しかできませんよぉ~これ以上の事は出来ないしエネルギーの残量ほんとギリギリなんですよぉ~これ以上やっても無駄使いいになっちゃいますぅ~」


 その通りだとしたら早々にこの状況を変えないといけない。

 後はこっちの問題なのだ。アルタには十分助けられた。ハニーにも咲耶ちゃんにもだ。

「ネムさん。悪いけど全員上に連れてってくれないかな」

「おとちゃん、馬鹿な事言っちゃだめなんだよ。ボクら無しで何ができるのさ」

 いててて…それ言われると痛すぎる。

「おいおい。こんな楽しい現場から追い出そうって言うのか?」

 咲耶ちゃん、強いのは解ってるけどやっぱり俺は咲耶ちゃんを守れる男になりたいよ。

「私に頼むって言ったじゃない!ここで帰れなんてふざけんじゃないわよ!」

 アルタ、ありがとな。何故かはよく解らないが俺の力になってくれてありがとう。

 だから生きてほしい。

 …あ、アルタには考えが読まれちまうんだっけか。まぁいいや。

「ネムさん!頼むよ」

「ふふふ…乙姫さん。あなた男ですねぇ~♪大丈夫ですよ。貴方には悪魔と天使の加護がありますから」

 途中からネムさんの声色が普段のふざけているものから真面目な物へと切り替わっていた。

「じゃあ後は頼みましたよぉ~」

 その声は俺にじゃなく、その向こうの白雪に向けられているような気がした。


 そして、皆の抗議の声を無視してネムさんが強制的に連れて行った。


 一瞬で目の前から消失した。

 恐らく瞬間移動的な行動だろうが、まだそれだけの余力を残していたという事である。

 本当によく解らない天使だ。

 

「さて…白雪。もう俺たちだけだな」

「あの天使め…面倒な事を言いおって」

 そのやり取りを見ていた支部長が声を荒げる。

「天使も一緒に捕らえられるチャンスだったというのになんという事だ…何もかも貴様のせいだ。出来る限り残忍な方法で息の根を止めてやるからな!」

 俺に向かってそう言い放つ。

 白雪は、その綺麗になびく白い髪を何度か手で梳いて、頭をぽりぽりかきながらため息をつく。

 そして

 

「なぁ支部長とやらよ」

「なんだ悪魔め!お前は私の道具としていう事を聞いていればいいのだ。発言は必要ない」

「ふふ…この世をお前の物にしてやろうというのに短気な事よ」


 …白雪のやつ何考えてやがる。

 …いや、俺には解る。俺になら解る。

 何をしようとしているのか。

「もはやこんな小僧一匹を相手にしているのも馬鹿らしくないかえ?」

「煩い!こいつは、こいつだけは…!さては契約者に情でも湧いたか?」

「馬鹿な事を言うな。わらわは悪魔じゃぞ…?こんな小僧一人どうと言うこともないわ。契約は既に切れている。ならばわらわにとっては空気のようなものよ」


 支部長は少し黙って眉間に皺を寄せて考える。


「まぁいい。それより先程の、世界を私の物に、というのはどういう意味だ?」

「そのままの意味じゃよ。わらわにならそれしき一瞬でできる。ならいちいち個人を攻撃して潰していくまでもなかろう?てっとり早い方法を推奨してやっているのじゃ」

「そ、そんな簡単に…?」

「ああ。お主が望むのであればな。今の契約者はお主のみじゃから邪魔する者もおらんしのう。全てお主の思い通りになる世界にしてやる事が可能じゃよ」

「やれ!すぐにやれ!そうすれば私はこんな支部長なんて席に拘らずもっと上を目指せる。いや、ボスにとってかわって私が!それも可能という事なんだな!?」


「…可能じゃ」


 白雪がにやりと笑う。本当に悪人の顔だ。

「やめろ!そんな事をしたら…」

 俺は思わず止めに入ってしまった。

「煩い!貴様の意見など聞いていない。悪魔

よ。早く今言った事を実行に移せ!」

「まぁ慌てるな。それならひとつ準備が必要じゃ。今のわらわは契約が切れて名を失った。お主がきちんとわらわの名前をつけて本契約してくれればすぐにでも望むままにしてやろうぞ」

「わかった。お前なかなか使える悪魔だな。道具としてじゃなくて愛人として使ってやってもいいぞ」

「はいはい。じゃあ名前をつけるのじゃ。それが契約の証となろう」

「そうだな…アンラ…アンラマユにしよう」

「了解じゃ。我が名はアンラマユ。この世界に降臨し契約を交わしたものなり。」


 これはいつか見た光景である。

 完全に俺との契約が切れているという事を再確認される。そして新しい契約者の誕生…なんだか複雑だ。

「アンラマユ。これでいいのか?」

「勿論じゃ主どの。ではこの世の全てをお主の思い通りになる世界にしてやろう」

 白雪は小声で何かぶつぶつ呟いたのちに

「いくのじゃ。とくとごらんあれ」

 両腕を上にあげ、一瞬目の前が光に包まれた。

 

「…おい、これでもう終わりなのか?」

「そうじゃ。試してみるがよい。何をするにもお主の思い通りじゃ」

 やってしまったか…。

「そ、そうか。ではそこのお前、私に土下座して謝罪しろ!!」

 俺か!?

 見えない力に体を操られるかのように、自分が言われたとおり土下座の姿勢を取らされていく。


「…貴方様に楯突いた事、心よりお詫び申し上げます…」


 心にも無い事を無理矢理言わされるっていうのはこんなにも気持ちが悪いものなのか。

 無理矢理いう事を聞かされていた白雪もさぞや嫌な気分だっただろう。

「ははははっ。素晴らしい。あとは何ができる!?」

「この世の万物のあり方そのものを変革したのじゃ。それこそ何を願ってもわらわがいる限りはその通りになろうぞ」

「…た、たとえば。ここに金塊を」

 支部長の目の前に見た事のない量の金の塊が出現する。

「もう、笑いがとまらんよ。これなら金じゃなくて使いやすい現金にすべきだったかもしれないな。…さて、この力で次は何を成そうか」

「お主の思うがまま、やりたいようにすればいいのじゃ。この世の王でも、ハーレムを作るでもなんでもな」

 白雪がどんどん支部長を煽っていく。

 案の定それを真に受けた彼はどんどんおかしな妄想を繰り広げていく。

 

 …が。

 まだ気付かないのか?

 自分の破滅が最早避けられないという事を。

 

 白雪も人が悪い。

 いや、悪魔が悪いというべきか。

 そもそも悪い魔と書くのだから悪いのは当たり前なのかもしれない。

 それに彼女にとってはこれが最善手であり、一番面白い方法かもしれない。

 なんにせよ、目の前の悪魔には慈悲など存在しなかった。

 

「次は、次はなにをしようか…」

「なんなりと思うがままでよいのじゃ」

「ひゃひゃひゃ…じゃあちゅぎは…ひゃひゃひゃ…はえ?」

 やっと己の置かれている状況に気付いたようだ。

 申し訳ないが今の俺にはどうしてやる事もできない。


「ひゃ、ひょれはいっひゃい…」

「おお、いい忘れておったが悪魔というのは契約して相手からエネルギーを得る事によって存在しておるのじゃ。勿論望みを叶えるためにもそのエネルギーは必要でのう?その望みが大きければ大きいほど必要なエネルギーは大きくなるのじゃ」

 俺もそれで酷い目にあったのだ。ただその規模がちょっと違いすぎた。ご愁傷様としかいえない。大きなことを望んだ結果だから受け入れてもらうしかない。


「ひょ、ひょんな…だましひゃのか」

「騙す?そんなわけなかろう。現にわらわはお主の望みを叶えてやったのじゃ。ただちょっと説明するのを忘れていただけじゃよ。悪魔のちょっとしたおちゃめくらい許せる甲斐性を持ってもらわねばのう」

「ぐっ、きょ、きょんなの無しひゃ!このへーひゃくはなひひゃ!」

「…?いったいお主が何を言っているのか解らぬのう?もっとはっきりした言葉で言ってくれないとわからぬわ」


 相変わらず冷酷無比である。支部長はもはやまともに喋る事もできず身体から水蒸気をあげてどんどん痩せこけていく。

「ひ…ひひゃま…い、いやひゃ…こんな…おひゃり…は…い、ひゃ…」

 

 そして支部長だったものはただの干からびた骨と皮だけの物体になった。

 そして、最終的にはそれすらも残らずただの茶色い粉になってしまった。

「…本当に人とは愚かな生き物よな。自分の事しか考えないような阿呆にこの結末はお似合いじゃよ。まぁ最初から人の為に望みを叶えた人間は一人しか知らんが」

 そう言って白雪は笑いながらこちらに振り返る。


白雪、忘れているのかも知れないが俺の一番最初の願いは一万円くれ、だ。


「さて、ここに無所属無契約の悪魔が一人いるわけじゃが…そんな悪魔を救う優しい殿方はおらんものかのう?」

「…おかえり、白雪」


 俺がそう言って白雪に手を差し伸べると白雪は少し呆れたようにため息をついた。


「ほんとにお主はつまらん奴じゃのう…まぁそういう輩だからこそ、わらわの主はお主だけじゃ。さて…帰るとするかの」

 そして白雪は俺の手を取る。

 

「ちなみに、お主の負債はまだまだ残っておるから覚悟するのじゃ。これからもまだまだ楽しませてもらうからの」

「へいへい」


 その後他愛も無い話をしながら俺たちは地下の通路をゆっくり、時間をかけて地上を目指す。

 その道中に転がっていた連中は、面倒なので見なかった事にした。

 そのうち起きて勝手にそれぞれ帰っていくだろう。咲耶ちゃんが引き摺ってきたあの風呂掃除の人はあのあと目が覚めてすぐ涙目でどこかへ逃げていってしまった。

 ここの後始末をどうするか悩ましいところだがそれは後で有栖あたりに相談しよう。

 今俺に出来る事は無いし、出来たとしてももう出来る限り関わりたくない。

 

 二人で外に出ると、入り口で皆が仁王立ちしていた。

 

「おとちゃん…結果的にうまくいったからいいようなもののちょっと無理しすぎなんだよ…でも、無事でよかった。おかえり。白雪さんも」

「ほんとに、無事でよかったですわ…もし乙姫さんに何かあったらどうしようかと…べ、別に他意はないんですのよ?ないんですけれど…あまり心配させないで下さいまし」

「お前さぁ…楽しい所で退場させるとか鬼かよ…まぁ無事で帰ってきたならそれでいいけどさ。これでしばらくはまた大人しくつまんねー教師業に戻れるってもんだ」

「ふ、二人が無事でよかったわ。途中で出てきちゃってごめんなさい。でも私は信じてたわ。貴方ならやれるって」

「人魚様がこれだけ心配して下さっているんだから有りがたく涙を流して喜ぶであります!」

「ほんとに何もなくてよかったですぅ~万が一の時はどうしようかと思ってましたけどぉ~そこの悪魔さんもちゃんとやる事やってくれたみたいでよかったですぅ♪」

「…大体ネムの力で何がおきてたかは見てたけれど…アンタほんとに馬鹿なんじゃないの?みんながどれだけ心配してたかわかってる?…アンタって…なんて言えばいいのかしら…えっと…えっと…とにかく馬鹿!」


 …皆に沢山心配をかけてしまった事は本当に申し訳ないと思うが、これだけ俺の事を心配してくれた人たちが居るっていうのはありがたい事で、こんな仲間が出来たっていうのも元はといえば白雪が居たからである。

「お主モテモテじゃのう。なんだか腹立ってきたのじゃ」


「…まぁ、こんなモテ期が俺の人生にあったっていいじゃないか。こうなったらみんなまとめて相手してやるぜ」

 

 その後その場にいる全員から「調子にのんな!!」というお叱りの言葉と一発ずつのボディーブローを頂いた。 


 せめて咲耶ちゃんとハニーだけはもう少し手加減してくれてもよかったんじゃないか?

 

 無事に生還したっていうのに俺は今になって確かに死を感じた。

 でも、同時に感じる。

 

 これでこそ生きてるってもんだよな。



 

 


 

 その光景を少し離れた高台から見下ろす男がいた。


「本当に、変なところで会いたくないものだよ」


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