14話 エンディングセレモニー
閉じたステージでは慌ただしく撤収作業が進んでいた。
二年生を中心とした、軽音楽部のバンド演奏。
演奏は拙いながらも華やかな男女が人気の楽曲を奏で、歌ったとあって観客は大いに盛り上がった。
その熱は、幕が閉じた体育館に今なお立ち込める。
引き上げられる楽器の隣で、一年C組は緊張の面持ちを共有していた。
そんな中にあって、佐々木は無邪気に笑う。
準備期間から交際が噂されている滝谷がそれを見つけ、緊張を幾らか解したようだった。
「いいか、俺たちは練習してきた。大丈夫、俺たちならやれる!」
喧騒の体育館。
円陣を組むでもなく滝谷が鼓舞し、山岡やその他の何人かが「おうっ!」と元気良く吠えた。熱は伝播し、滝谷の声を聞きそびれた何人かも釣られて表情を和らげる。
それでもやる気のない生徒は少なからずいたけど、緊張でガチガチに固まるよりはいいだろう。
「一年C組、そろそろです」
文実の三年生が耳打ちしてきた。
はい、と聞こえるかどうかの声とともに頷き、頻りにこちらを見てきていた茜に軽く手を上げて合図する。
茜がそれを伝え、ようとした時には滝谷が既に声を上げていた。
「よし! 行くぞ!」
「おう!」
主要メンバーの十四人を引き連れ、滝谷が閉じたステージのセンターへと歩み出た。
傍らに座る三年生が目で合図してくる。頷く。
マイクのスイッチが入れられた。
「続きまして一年C組、一年C組です」
三年生のマイク越しの声が喧騒に染み込み、束の間の静けさを広げる。
今だ。
手元のミキサーを、教えられていた通りに操作する。
軽快な音楽が流れだした。
提出しろ、遅れたら音楽を流せないと再三言ったにもかかわらず、期限ギリギリまで準備されなかったCD。お陰で音量の編集なんてできていない。
手作業で徐々に音量を上げていく。
同じく手作業で開かれるステージの引幕と、息が合っていたかは観客にしか判断できない。
どうあれ、賽は投げられた。
滝谷と佐々木、あとダンス経験者だとかいう女子、中島が一足早く動き出す。
逸った、わけじゃない。
準備期間はたったの三ヶ月。全員がまともなダンスを踊るなんて不可能だ。
だから早々に、彼らは決めた。
熱意と、それに遅れを取らないだけの運動神経を持つ何人かが中心となって、そこに他の面々が加わる。
技量の差を誤魔化すために、滝谷と佐々木と中島が先に動き出したのだ。
目の引くセンターに、更に注目を集めてしまえばいい。周りの下手なダンスは、変に悪目立ちしない限りは引き立て役になるだろう。
音量を規定にまで上げる頃、残りの十一人も微妙に不揃いのダンスを始めていた。
ひとまずクリアだ。
ほんの十数秒、ただ指先を数センチ動かすだけのことなのに、全身が体育の授業を終えたみたいな疲労感を訴えている。
固くなって変な操作をしたら大惨事だ。
息をつき、身を引きながら隣を見ると、互いに名前も覚えていない三年生が「お疲れ」と小声で言った。マイクのスイッチはとっくに切られている。
「どうも」
「上手いじゃん」
「丁寧に教えてもらったんで」
ミキサーなんて初めて触ったけど、摘みをいじるだけだ。これくらい誰にでもできる。
お世辞を丁重に受け取り、それ以上の会話から逃げるために視線を投げた。
茜がこちらを見ている。
そうか、そろそろか。
山岡たちが用意した曲の、その特徴的なリズムが転調するタイミング。
合図すると、茜がガチガチに頷いた。ステージを挟んで反対側に待機するかな恵に向け、大きく手を掲げる。五、四、
「三、二、――はいっ!」
ステージの左右から五人ずつ、脇に残っていた生徒が躍り出る。
左右に一人ずつ身体能力の高い者を割り振っていて、やる気もなかったくせに緊張だけは一丁前な面々を誤魔化すように、側転やらバク転やらしながら派手にダンスに加わっていった。
おぉっ、と裏の意図も知らない観客が驚いてくれる。
それに楽しくなっちゃったのか、佐々木がテンションを上げて何か叫んだ。言葉は聞き取れなかった。滝谷の笑い声が聞こえる。仲良いな。噂はやはり真実か。
緊張している途中参加組は気を回す余裕もなさそう。
だけどお陰で、なんだか盛り上がっている風にはなった。
ぎくしゃくしながらも一分半の役目を終え、途中参加組が引き上げてくる。やはり運動神経に優れる二人が、単なる撤収をそれっぽい何かに演出してくれた。
曲が再びの転調。
最初と同じリズムに戻り、日本語じゃないけどなんとなく同じ歌詞を繰り返しているのを聞き取って、ミキサーに手を伸ばす。
「CDの準備は」
「オッケーだよ」
「ありがとうございます」
まだ曲の途中で、音量を下げ始める。
タイミングは頭に入っていた。
曲を耳で覚え、覚えた通りに指を動かす。これくらいはMEOの周回で慣れたものだ。
全身を酷使するダンスならともかく、指先だけのミキサーならコントローラー操作のゲームと変わらない。
ステージではダンスも動きを変えていた。
静かに、落ち着いたものへと変わり、そしてピタリと止まる。
先に流していた曲の音量をゼロにすると同時、次の曲を、今度はフルボリュームで再生。
ダダンっ、と激しいドラムの音で始まる音楽。
止まっていたダンスもまた始まって、その緩急が観客を驚かせる。
子供の頃にCMか何かで聞いた曲だった。タイトルは知らない、歌手も知らない。だけどリズムはなんとなく覚えている。同世代が集う高校の文化祭なら、大部分が同じ感覚を抱くだろう。
観客にも目立ちたがり屋がいて、そういう連中がステージに合わせて騒ぎ出した。
さっきの軽音楽部でも思ったけど、やっぱり大切なのは出来より盛り上がりなのだろう。既に役目を終えた途中参加組も、引き上げてきたステージ袖で楽しげにリズムに乗っていた。だったら最初からやる気を出せばいいのに。
まぁ、全ては文化祭マジック。
夏休みとかクリスマスの前にカップルが増えるとかいうアレと同じ。
メインの三人も大いに盛り上がって、練習以上にキレのあるダンスを見せている。
イケメン滝谷が清々しい汗を弾けさせながら踊って、黄色い声援を浴びていた。
ダンス経験者の中島は若干引くレベルでダンスが上手い。他の二人を置いてけぼりにしないか不安だけど、まぁいいか。すげぇ、とか思わず零れたと思しき感嘆符を浴びている。
そしてC組の可愛い担当、佐々木。
あれは多分、制服で……つまりはスカートで踊っていることを忘れているのだろう。
滅茶苦茶な声援を浴びていた。あとで滝谷と喧嘩にならないといいけど。ならないか。滝谷も気付いてないし。あとで勝手に、キャンプファイヤー横目にでもよろしくやってくれ。
不意に顔を上げる。
目の端に――、立ち入り禁止のはずのギャラリーに人影が見えたからだ。
目が合う。微笑まれた。心中で、頭を掻く自分を思い描く。
ため息をついた。
「ん?」
「いえ」
怪訝そうに見てきた三年生に短く返し、ちょうどこちらに目を向けた茜に手招きする。
手間が省けた。
最悪、この三年生に任せることになったけど、同じクラスの文実に任せられるなら当然そっちの方がいい。
「お疲れ。……って、まだ終わってないけど」
そこまで落とさなくていいのに、と言いたくなるほどの小声で茜が笑う。
「そ、終わってないんだけど、ちょっと任せていい?」
「えっ?」
「大丈夫。曲は切るところで切ってあるから」
本当ならCD一枚に音量バランスまで含めて収めるつもりだった。
そうすれば文実のステージ担当にCDを提出するだけで済んだのに、山岡その他が散々遅らせたせいで私がミキサー係を担っている。
お陰で早々にダンス担当から外れたけど、感謝したいとは思えない。
「え、静那は――」
「ちょっと用事できた。それじゃ、あとよろしく」
「なっ、いやっ」
「分かんないことあったらこの人に聞いて。先輩も、お願いします」
それ以上の返事は聞かず、向けられたはずの視線に気付かなかった振りをしてステージ袖を後にする。
体育館をぐるりと囲み、見下ろせる格好のギャラリー。
そこに上がるはずのステージ袖の階段は封鎖されている。張り紙くらいならどうとでもなったけど、ドアが施錠されているのでは無理だ。担当が篠塚なら違ったのに。言っても始まらない。
文化祭マジックで盛り上がる体育館を、小走りで後にする。
重い扉の外には、夏とは思えない涼しい風が吹いていた。
体育館の外には階段がある。
狭い二階は物置として使われている他、ギャラリーへと続くドアもあるんだけど、当然ながら見張りの文実委員が立っていた。
とはいえ、ギャラリーにはここか、ステージ袖からしか行けない。
階段を上がっていくと、委員の周回で何度か見た覚えのある上級生と目が合った。ネクタイの色は青。三年生だ。そういうことか。
「ん? 君は、ええと……」
「あ、そうです、文実の一年です」
「なら立ち入り禁止なのは知ってるよね?」
「照明のことで……とか色々言い訳はできるんですけど、今しがた部外者通しませんでした?」
三年生は遠い目をする。
それから、ため息。
同じ気持ちですよ、と視線で訴える。伝わったかな。
「まぁ、話は聞いてるけどさ」
「え、どんな?」
「明瀬と付き合ってるって。あれ本当だったんだ」
「えー。まだそんな噂流れてるんですか」
「あれ、違った?」
「違いませんけど」
てっきり周知の事実と化して、そのまま飽きられ忘れられたと思っていたのに。
明瀬の人気が噂の信憑性を薄れさせ、それでいて噂自体には飽きさせなかったということだろうか。でも変だな。四月に付き合い始めて、もう七月だ。いつも昼休みは一緒に過ごしている。
いい加減、信憑性も何もないと思うんだけど。
「まぁあれですよ。部外者を摘み出すのも文実の仕事ですよ」
「そもそも部外者を入れないのが文実の仕事なんだけどね」
「あなたが言いますか」
小さく笑って、ちょっとだけ頭を捻る。
まぁ話の分かる人だ。
適当に話して、適当に入れてもらえばいいだろう。
「じゃあ、ちょっとトイレ行ってたってことで手を打ちましょう」
「なんの話か分かんないけど、そうだね、見ててくれて助かったよ」
おぉ、ここまで話の分かる人だとは。
どうもどうも、と頭を下げつつ、横を通らせてもらう。
三年生は見逃してくれるどころかドアまで開けてくれた。有り難い。もう一度頭を下げて、先ほど見上げたばかりのギャラリーに足を踏み入れる。
体育館の外周を囲むようにコの字を描くギャラリーの、その向かって右側で軽く手を上げる人影があった。
ステージではダンスが終わろうとしている。
体育館は盛り上がり、足音を殺すまでもなくギャラリーの物音は下に届きそうになかった。
お陰で、まどろっこしく抜き足差し足する必要もない。
「どうも」
笑って言うと、向こうも――明瀬も笑った。
「ちょっと挨拶するだけのつもりだったんだけどね」
「売り子は済んだの?」
「いいや、逃げてきた。あのままいたら終日働き詰めだよ」
肩を竦める明瀬は、だけど嬉しそうであり楽しそうでもある。
自分は主役じゃないと売り子を断ったはずの明瀬は、でも二年生ですよね、A組ですよねと押し切られ、クラスの店で売り子をする羽目になっていた。最近は半分笑いながら『明瀬様』と呼ぶ声も聞こえる。
相手が明瀬じゃなかったらイジメに片足突っ込んでいる気がするけど、変に距離を取られるよりは居心地も良いだろう。
明瀬はいつもの微笑に諦めの色を溶かした。
「静那もステージ出るんなら本気で逃げてたんだけどね」
「計画性のない連中に感謝だね。お陰で裏方に逃げられた」
「残念だよ、私は。心底残念だ。ほんとに残念だ」
三度も繰り返すほどには残念だったらしい。
けど、どんなに明瀬が見たいと言っても、あの中に混じって踊るのは絶対に嫌だ。
まぁ幸いにも、過ぎ去った話。
ちょうど響いた拍手と歓声がギャラリーにも届く。
一年C組の出し物が終わったのだ。イケメンとダンス経験者と無自覚のお色気に助けられた大熱狂だけど、ステージ袖にいる達成感に溢れたクラスメイトたちの姿がギャラリーからは見えた。
文実の仕事で人見知りを遺憾なく発揮していた茜でさえ、今は普段話さないような相手とハイタッチしている。見えない反対側の袖にいるかな恵も、それなりには笑みを浮かべていることだろう。
「こっち来てよかったの?」
明瀬が感情を乗せない声で言った。
「私はほら、裏方だから」
「静那と一緒に文実やってた子も盛り上がってるみたいだけど」
「よく見てるね」
「一緒にいるところ何度も見たからね、そりゃあ」
嫉妬かな。
笑いながら瞳の奥を覗き込み、全く笑っていないそれを見つけて笑みが凍る。
「え、あれ見ての通り女だけど」
「私も見た目は女なんだけど」
本気か、こいつ。
まじまじ顔を見つめると、ぷっと風船が割れるみたいな笑い声が聞こえた。堪えきれなくなった明瀬が笑い声を上げる。目の端に涙まで浮かべるほどだ。
「冗談だよ、冗談」
「……本気で焦ったんだけど」
「信じてるからね、私は」
「この流れで言われると重いなぁ」
ぎこちなく笑いつつも、その重さを嬉しく感じてしまう自分を見つける。
ため息一つ。
この準備期間と文化祭本番で、それは私の癖になっていた。
「でも、やっぱり私の居場所じゃないよ、あそこは」
「私の隣とか言ってくれるつもり?」
「言ってほしいなら先回りしないでくれる?」
熱くなってきた顔は、だから赤くもなってきているのだろう。
逃げるように階下に目を落とし、ステージ袖からも下りて体育館の隅の方で集合する一年C組の面々を見やった。
次の発表が始まるから、大声を張り上げるようなことはない。
お陰で声は聞こえなかったけど、滝谷と佐々木を中心に盛り上がっている。
観客の熱気に当てられたのか、興奮した顔は幾つも見つけられた。嫌々参加していたやる気のない連中でさえ、何人かは達成感らしきものを表情に浮かべている。
誤魔化しに満ちたステージだった。
準備の不足を個人の力で補い、単体で見ていられるダンスを披露できたのは中島だけだろう。運動神経が良く、練習もしっかりしていた滝谷でさえ、ダンスの出来はそこそこ。
必然、大半は見るに堪えない出来だった。
にもかかわらず盛り上がったのは、だから文化祭ゆえ。
一年C組を、茜は雰囲気が悪いと評した。三ヶ月前のことだ。この先も多少の改善はあっても、みんな仲良くなんてお題目をクリアできる日は来ないだろう。
仮にクリアできても、その『みんな』が『全員』を指すことはない。
けど、それでいい。
言ってみれば世界平和と同じだ。
誰もが当たり前の目標と掲げるけど、大抵は実現できるなんて信じちゃいない。できると信じているのは、物事の道理を知らない子供か、童心を忘れずに大人になった幸せな者だけ。
それでも世界は回る。
不幸がどこかにあっても、幸福もまたどこかにあるだろう。
「だから、あそこは私の居場所じゃない」
「だから?」
「こっちの話」
笑いながら見下ろす先で、不思議そうな顔のかな恵が茜に何か耳打ちしていた。茜も首を傾げながら何か言い返している。
「あれ、静那のこと話してない?」
「かもしれないけど、問題にはならないよ」
盛り上がるC組の面々は、盛り上がりの外にいる誰かには目を向けない。
文化祭実行委員の肩書はどこへやら。
茜とかな恵をよそに滝谷が何か言ったらしく、山岡がギャラリーにまで届く大声を上げて周囲から白い目を向けられた。佐々木が中島の腕を掴み、引っ張り出している。佐々木とは水と油な菅野も、テンションの上がった取り巻きに混じって愛想笑いだ。
滝谷と佐々木、あと半ば連行される形の中島に先導され、C組が体育館を後にする。
何人かはひっそりと息を潜め、体育館に残ったり輪から外れたり。誰も気にしない。気付いてはいるのかもしれないけど、滝谷にしても佐々木にしても、ああいう連中を巻き込んでも得はないと知っているだろう。
茜とかな恵は、一応は文実とあって逃げるに逃げられない感じだ。
まぁ茜に関しては、逃げるよりはなんとなくでも一緒に行く方が好きそうだな。かな恵は背中だけでも諦めているのが分かる。せめて茜の保護者役を担ってやってほしい。
「静那はどうする?」
「あれに参加しろって? 無茶言わないでよ」
「いやいや、違うから」
違う?
他にどういう取り方があっただろうと明瀬の顔を見やり、悪戯っ子の笑みを見つけた。
「あれ、どう考えても外行くでしょ」
「そっか、そうなるのか」
東高の文化祭は前・後夜祭を含めても三日間しかなく、今日はその三日目だった。
ステージがこれだけ盛り上がっているのも、祭りの最後に騒ぎ立てようという意識の表れだ。二日間の片付けを挟んで、東高はまた日常に戻る。
泡沫。
恋や夢の例えにも使われるそれは、今の東高にも当てはまる。
弾けて消えるその前に、彼らは青春の代名詞を謳歌せんと体育館に集まり、あるいは非日常の延長を求めて学校を抜け出す。
買い出しに行く生徒もいることから、普段と違って正門から抜け出すのは簡単だった。中には騒ぎを起こさない限りは容認すると公言してしまう教師までいるほど。
「静那はどこか行きたくない?」
試すように笑う明瀬は、つまり。
「行きたいって言ったら連れてってくれるんだ」
「場所によるけどね」
まぁ、そりゃそうだ。
もう昼も過ぎた頃にネズミの王国に行きたいとか言っても物理的に不可能だ。いや、できるか? お金のことを考えなければ夜のパレードには間に合う。
「なんか静那、変なこと考えてない?」
「ネズミのナイトパレード見たいって言ったら、明瀬は叶えてくれる?」
「えっ……と」
目が泳ぐ。
いつかの誰かを思い出す、見事な泳ぎっぷりだった。
「もう一度メイド服を覚悟すれば、それくらいパシられてくれる人はいる」
「すごいな」
「ごめん。メイド服だけじゃなくてチャイナドレスとかスク水まで覚悟しなくちゃいけないかもしれない」
「いやー、流石に明瀬のスク水姿は見たくないな」
「私も二度と着たくないね」
「明瀬の場合、中学でも中々にキツそうだね」
胸じゃなくて、胸の奥が痛いほどに締め付けられそう。
大変だったろうな、と他人事のように思う。
ように、というか他人事か。いくら明瀬でも、……明瀬だからこそ、他人であることを忘れてはいけない。想像し、共感することはできても、それを事実に取り替えることはできない。
「まぁ、人が多いところは好きじゃないんだけど」
「あそこのパレードは場所取りも大変だって聞くしね」
「うん。だから」
ネズミの王国に比べれば。
いや、他のどこと比べても、これ以上ないくらい行きやすい場所。
なのに、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
たったこれだけのことに、どうして勇気が必要だったんだろう。
考えてしまえば、気付いてしまえば何も言えなくなるのは分かっていたから、何もかもを投げ出した。
「明瀬の部屋、お邪魔していい?」
何気ない風に。
事実、何一つ考えずに。
さらりと投げた声に、明瀬は目を泳がせかけた。
「いいよ」
だけど笑って、楽しげに問いかける。
「いいの?」
喧騒が遠い。
たった一階分しか離れていないのに、何十メートルも何百メートルも遠くにステージがあるみたいだった。
「明瀬は――」
呟く。
答えは一つしなかった。
だけど、ただ一つの答えでは足りなすぎる。
何十の、何百の、ありとあらゆる言葉を尽くして、何もかもを伝えたかった。
「明瀬はさ、永遠ってあると思う?」
「哲学?」
「物理的な話」
「存在しないだろうね。始まったものは必ず終わる」
夜に寝て、脳が描いた泡沫。
目が覚めて、弾けて消えたそれを追いかけようにも、残滓は指の間をすり抜ける。
その時の気持ちを、寂しいと呼ぶのだとようやく気付いた。
「私はいつまでも、永遠に明瀬といたい」
声にすれば、こんなにも重い言葉。
だけど明瀬は、それを正しく受け止めてくれた。
「それは哲学だね」
「そんな大層なもんじゃないよ。ただの夢の話」
「そうかな」
足りない言葉でも伝わるのに、伝わっていると知っているのに、どうしてこんなにも怖いんだろう。
明瀬は笑っていた。
だから私も、笑ってみる。
「じゃあ、うちに来て」
「うん、そうする」
勇気はきっと、その瞬間になっても出ない。
知っている、それが私だ。どこまでも臆病で、そのくせ寂しがりで、だから明瀬は手を伸ばしてくれる。
私の手を掴んでくれる。
「今日はお腹、減ってないよね?」
「明瀬が売り子するって知ってたら、ちゃんと空かせておいたのに」
手を引かれ、歩きながら。
そういえば階段の前に文実の三年生がいるんだと思い出す。
まぁ、いいか。
私たちは女同士。周りにはそう見える。二、三年生なら大半が明瀬のことを知っているだろうけど、学校の外では明瀬もただの一人の高校生だ。
手を繋いで歩けば、目立ってしまう。
けど、いいよ。
指の間をすり抜けてしまうくらいなら。
強く強く、痛いほどに掴んででも、ずっと握り締めていたかった。
「重いかな」
「や、静那はそれでも軽い方だよ」
唐突な言葉に、明瀬は当たり前に笑って返す。
「うん、明瀬は軽いよ。小さいし」
「ん? それちょっと意味違くない?」
「違くない違くない」
相変わらずなんでもない風に笑いながら。
「いつまでも一緒にいたいなんて小さな夢なら、私でも叶えられるよ」
明瀬は言った。
だから信じる。
恋が泡沫だというのなら。
愛とは信仰だろうと、そんなことを漠然と思った。
言わないけどね。
小さな夢なら叶えてくれるというんだ。
大袈裟な言葉も、御大層な信念もいらない。
「好きだよ、明瀬」
いつの間にか呼び慣れていた名をまた呼んで、遠い遠いいつかのことを考えてみる。
私もその名で呼ばれる時が、いつの日か訪れるのだろうか?
気が早いな、早すぎる。
照れ隠しに笑う私の気も知らないで、明瀬は手を引っ張った。
女と男。
けれど女同士の私たちは、それでもどこかには向かって歩く。
何もないなんてことはないと、いつか誰かが言っていた。
この先も何かは起きる。何もないなんてことはない。
四ヶ月前の自分が今の姿を想像できなかったように、今の私も何があるのか分からない一歩を踏み出すのだ。
でも。
「ちっぽけな夢だったんだ」
その誰かが遠くを見て微笑する。
空を見て、そこに太陽があることを思い出したような笑みだった。
「だから、今度は私が叶えるよ」




