第五節 -29-
魔王はアルジェンを殺した人間が誰かわかった。だから行った。
「あ、あなた、は……!」
その男の顔は驚愕に満ちていた。見ると、彼はもう一人、別の男を背負っていた。魔王は『眼』を使った。『停止魔法』で自分の命を停止させたのだと知った。魔王は驚いた。まさか、一人の人間が命を賭した『くらい』で、あのアルジェンが負けるとは。勇者以外の人間も中々やるものだ。
「ゆ、勇者、は」
「死んだ」
動揺する彼に魔王は突きはなすように言った。
「我が殺した」
そして、動揺する彼、つまりリストはそのことをわかっていた。わかっていながらも、訊かずにはいられなかった。先ほど、あれだけの魔力が城から溢れ、城が崩れ落ちたのだ。あんな魔力を扱えるのは魔王だけで、あれほどの魔力を受けて生き残ることのできる者は、たとえ魔族を含めたとしても、存在しない。それは魔王の勝利を意味していた。勇者の敗北を、人類の敗北を意味していた。
「『人間』」
魔王は、言った。
その言葉だけで、リストは、震えた。震えて、しまった。
「安心しろ。『今、殺してやる』」
リストは自分を奮い立たせた。怯えるな。臆するな。魔法を使え。彼は魔王を見た。そして、魔法を――
「無駄だ」
魔王の身体から、魔力が溢れた。
その凶悪なまでの魔力は、ただそれだけで、彼我の差を痛感させた。
「通じると、思うか?」
思わなかった。
だが、しないわけにもいかなかった。
「あ、あぁぁああああああああああああああッ!」
咆哮を上げ、リストは魔法を発動させた。嵐が巻き起こり、魔王を襲う。
「良い。だが、今は退くがいい」
魔王は手を振った。それだけでリストの魔法は掻き消された。
「なんっ――」
「それと」
いつの間にか、魔王はリストの背後に迫っていた。魔王は彼の耳元で言った。
「我は、『こんなこと』もできる」
急にリストは息苦しくなったのを感じた。これは、経験したことがある。これは、まさに――
「『免疫機構』……ッ!」
「ああ。貴様らが殺した魔族。『第三』アルジェンのものだ」
魔王の『免疫機構』。
それは、普通のものではない。
リストは咄嗟に『黒の魔力』を――例の『汚い魔力』をまとった。彼はどちらかと言うとそちらの方に耐性があったのだ。『免疫機構』よりも、こちらの方がマシだった。
だが無駄だった。
魔王の『免疫機構』。
『免疫機構』とは、魔法であるが、魔力である。
そう、『魔力』だ。
そして、魔王の『魔力』。
それは――
「その程度のものに、阻まれるとでも?」
魔王の暴虐なまでの魔力量の前には、『黒の魔力』など無駄だった。魔王の魔力をもってして成った『免疫機構』は第三アルジェンのものを遥かに超えていた。彼のなら破りさえした『黒の魔力』は、魔王にとっては『ない』のと同じだった。『黒の魔力』は一瞬で『殺菌』され、リストは『免疫機構』の中で窒息した。
そして魔王はリストに止めを刺そうとした。
だが。
「む」
魔王を目がけて膨大な数の魔法が放たれていた。魔王は手の一振りでそれを掻き消したが、そちらを先にした方がいいと判断した。あれを残していると、魔族が危ないかもしれない。それは実際にそうで、彼らの次の標的は魔王ではなくそれ以外の魔族たちだった。なかなか有能な将がいるようだ。
「やらせはせんが」
魔王は飛び交っている通信魔法を『眼』で見破り、そのすべてを盗聴した。多くの言葉が混ざり合い、意味不明な言語と化していたが、魔王はそのすべてを聞き分け、さらに通信魔法の発信場所を探知し、標的を魔王以外の魔族へと変えるよう指示した将の元に向かった。
「えっ」
目前の少女は驚いていたが、魔王も驚いていた。こんな年端もいかぬ少女があのような命令を下したのか。将来有望にもほどがある。緋色の髪に暁の瞳を持つ、絢爛な衣装に身を包んだ少女。どこかの王族の娘だろうか。魔王はそんなことを思った。
「ど、どうやって」
「転移魔法を使わずとも、これほどの距離ならば、『一歩』で充分だ」
魔王は言った。暁の少女は動揺していた。そのように『見せかけて』いた。しかし魔王の『眼』は見破った。
「どのような魔法も通じはしない。転移してくる『貴様ら』もな」
魔王は背後など見もしなかったが、その髪が高速で動き、その瞬間に転移し現れた人間たちを突き刺した。何かされても面倒なので一瞬で魔力を放出し、消滅させた。
「怯えるな。すぐに終わる」
魔王は暁の少女の頭を掴んでいた。あまりに一瞬のことで、彼女も掴まれてから数瞬後にならないとわからなかった。魔王は言った。
「『征服』した」
そして、魔王は『通信魔法』を使った。
――いや、正確には、それは『通信魔法』ではなかった。
概念魔法。
その極致。
『情報魔法』。
その場にあるすべての『通信魔法』を、暁の少女を元に、『征服』した。
魔王はすべての『情報』を『征服』した。
そして――
《――『動くな』――》
その『経路』を使い、自らの『魔法』を伝わらせた。すべての人間に『停止魔法』が――グローリーが命を使って発動した『停止魔法』を遥かに超えるほどの『停止魔法』が作用した。その場にいたすべての人間は、一瞬で、そのすべての動きを停止させられた。
「さて」
魔王は、何でもないことのように言った。
「あとは、殺すだけだな」
そして、魔王は魔法を使い、その場にいたすべての人間を滅ぼした。
滅ぼそうと、した。
――だが。
その、瞬間。
魔王の動きが、『止まった』。
これは、なんだ?
いったい、どうなっている?
我の、動きが、止まっている?
考えられることは、一つだった。
だが、そんなことはありえない。
我は、確実に、あの者を――
「バカが。この俺が、あれくらいで死ぬわけがないだろ」
その声は
その、声は。
「勇者……!」
「正解だ、魔王サマ」
そこには、勇者と、一人の少女がいた。
「俺の、『勝利』だ」
勇者は不敵に笑った。
*
「これが、魔王を倒す策だ」
勇者はサヤに言った。それを聞いてサヤは驚いていた。到底信じられることではなかった。勇者の言葉であったとしても信じ難い。それほどまでの策。いや、『事実』。
「信じられないか」
勇者は笑って言った。サヤは笑っていられなかった。
「だ、だって、わたしが、そんな」
「だが、事実だ。と言うか、今までにも何度も言ったつもりだったんだがな」
「ただの冗談だと」
「冗談じゃなかった。それだけのことだ」
それだけのことではなかった。だって、そんなこと、信じられるわけが……
「まだ信じないか」
勇者は溜息を吐いた。
「信じてもらわなければ困るぞ。そして自覚してもらわなければ」
そして勇者は言った。
もう一度。
しっかりと、言い聞かせるために。
「サヤ。『お前』が魔王を倒すんだ」
*
「魔王。お前が死ぬまでの時間、俺の策を教えてやることにしよう」
勇者は魔王に触れていた。『捕食』。それを実行しようとしていたのである。魔王という超越的な魔力を有する魔族を『捕食』するためには他の魔族に対するものとは比べ物にならないほどの時間を要する。勇者が言っているのは、つまり、それまでの時間であった。
「お前はサヤの存在に気付いていたらしいが、ちょっと考えが足らなかったな。この俺がここまで隠していたんだ。その重要性を、もっと考えるべきだった」
その言葉を聞く魔王は、しかし、指一本すら動かすことができなかった。思考を高速で巡らせていた。『停止魔法』? いや、違う。『停止魔法』ならば解除できる。この魔法はいったい何だ? 勇者の新たな魔法? そうとしか考えられない。『眼』による解析は? できない。魔力が巡らない。魔法が発動できない――いや、そもそも、魔力を動かすことができない。魔力。魔族の肉体を構成する要素。それがどういうものかはわからないが、仮に粒子状だったとして、まるでその粒子一つ一つの動きが何かに縛られているような。
「まあ、お前の出した結論は予想できる。どうせお前はサヤを俺の最終兵器だとは思っていたんだろうが、それでも俺よりは弱いと思っていたんだろう。俺のちょっとした補助。それくらいに考えていたんじゃあないか?」
勇者は笑う。
「違う。そうじゃあない。最終兵器だってことは真実だが、それは俺のちょっとした補助なんて意味じゃあない。むしろ俺が補助なんだよ。こいつこそがお前を倒すための、唯一の秘策」
サヤ。
彼女の存在を魔王はこの戦争が始まるまできちんと認識していなかった。いや、戦争が始まっても認識できているわけではなかった。魔王城に足を踏み入れるその瞬間まで、魔王はその存在を認識できていなかったのである。
彼女を重要だと思ったのは確かだし、だが彼女が勇者より強いわけではないと思っていたことも確かだった。魔王である自分すらも騙すその魔法は確かに異質であり驚嘆に値するものだったが、今までの勇者を考えると、それはあまり考慮するべきではないと思ったのである。
勇者はこれまでに様々な魔法を開発してきた。これはそんな中の一つでしかない。それくらいにしか考えなかった。
だから、魔王はサヤの処分を単純に『第一』シャムに任せたのである。その結果、シャムがどうなったかは考えるまでもないだろう。
「サヤ。こいつは人類最大の魔力変換効率を持っている。人類最大の魔法を扱うことのできる人間なんだよ」
魔力変換効率。それは文字通り人間が魔力を変換する効率のこと。魔力を自分の扱えるようにする速度、そして、一度に扱える魔力量を示す。
一度に扱える魔力量。
それがどういう意味か。
それが人類最大であるとはどういう意味なのか。
それは勇者の言う通り、『人類最大の魔法を扱える』ということである。
勇者が探し求めた人間。自分より高い才能を持つ人間。自分では魔王に勝つことはできないかもしれないと考えた勇者が――おそらく自分では勝てないだろうと考えた勇者が見つけ出した、勇者をも遥かに超えた、魔王以外のすべての魔族を超えるだろう魔力変換効率を持つ少女。
それが、サヤ。
彼女だった。
「魔王。お前を倒す唯一の方法が『捕食』の魔法であることはわかっていた。だが、そのためにはお前の行動を止める必要がある。『捕食』に要する時間。その間は、お前の動きを止めなければならなかった。サヤは、そのための、俺の、最後の、最後にして最大の、一手だ」
正確には、『捕食』の魔法を使う前から、開発できる前から勇者はサヤのような存在を探し、見つけていたのだが、それにはもちろん理由がある。単純な理由。それは要するに、勇者がそれを予想していたからというだけのことだった。自分が『捕食』の魔法を考える。『魔王を倒すための魔法』を考え出す。それを予想した上で、勇者はサヤのような存在を探していたのである。
それは無謀のように思えるが、しかし、まったく無謀ではない。なぜなら、よっぽどのことが無い限り魔王が人間を殺しはしないということを勇者ははっきりとわかっていたのである。
自分には時間がある。
思いつくまでは魔王と戦わなければいいだけの話だ。
勇者はそんな風に考えていた。楽観的なようにも思えるが、同時にそれは事実であり、そう考えなければ魔王を倒すことはできないということも事実であった。魔王を倒すための魔法が開発できるまで魔王を倒すことはできない。そんな単純な事実を、単純だが気付きにくいその事実を、勇者は明確に理解していたのである。
同時に、そのような存在が見つかれば自然に他の方法が思いつくかもしれないとも考えていた。魔王を倒す方法。それが思いつくかもしれないと。
色々と浅慮と思われるところはあるが、結果として、すべて上手くいった。
今、その事実だけがある。
それだけが、事実なのだ。
勇者は魔王に勝利した。
その事実だけが。
「ああ、そう言えば、俺が生きている理由を話していなかったな」
忘れていたとでも言うように勇者は言った。そして実際、勇者にとってそれはさほど重要なことではなかったのである。
「それは簡単だ。お前は俺の『眼』を持っていた。まあ、持っていなくても同じだが、とにかく、お前が大規模な魔法を使うことは予想できた。だから、それを逆に利用させてもらった、ってわけだ」
それを聞いても、魔王はどういうことか理解していなかった。そのことを理解していたから、勇者は続ける。
「魔王。お前は俺の死を魔力の消滅で知っただろう。俺の有する魔力。そのすべてが消えた。それがわかったから、お前は俺が死んだと考えた。だから、それを利用した」
そして、勇者は言った。
「俺は俺の魔力のほとんどを捨てた。俺が死んだと見せかけるために」
それに魔王は驚愕した。それは思いつかなかった。思いつくはずもなかった。魔力を捨てる。それはつまり、敵の目の前でその敵に対する唯一の武器を捨てるということを意味する。そんなこと、普通の精神では考えつくことすらできないだろう。
「サヤの存在を知っていたことから、『魔王城』に何かがあるということもわかっていた。もし魔力を身代わりにしても知られる。そう考えた。それに対しては事前に対策しておいた。お前が俺の『眼』を『征服』することも考慮して、わざと俺の『眼』では認識できないようにした魔法を使ってな」
勇者の『眼』では認識できない魔法。それは勇者が魔王に自らの『眼』を『征服』されることを予想していたからこそ開発できた魔法。
それを勇者は単純に『隠蔽』の魔法と呼んでいた。勇者の『眼』からすらもその存在を『隠蔽』させるための魔法。それはサヤの存在を『隠蔽』するためにも使われた魔法だった。
それすらも看破した『魔王城』には驚いたものだが、それに関しては『魔王城』を『眼』で解析することによってすぐに解決した。あとは『魔王城』に『隠蔽』の魔法を混ぜた魔法で細工をほどこせば、すべての準備は完了する。勇者の存在は、魔力を失った勇者の存在は、魔王ですら認識できないものとなる。
「お前は俺をまんまと逃した。それで俺はサヤと合流し、俺とサヤを認識できないお前は油断した。その結果、今、こうなっている」
魔王は理解した。サヤ。おそらく、彼女の魔法は恐ろしく膨大な時間を要する魔法だろう。どれだけ短縮しても、それは魔王を前にして発動するには長すぎる。
だから、油断させるしかなかったのだ。
勇者を殺し、自分に敵はいないと確信した魔王。
その背後で、『隠蔽』の魔法により認識できないものと成ったサヤは、魔法を紡いだ。
そして、発動した。
結果、魔王の動きは止まり、今、こうなっている。
魔法の制御で動くことができないサヤに代わり、『捕食』の魔法を行使するための最小限の魔力だけを持った勇者が、魔王に触れている。
魔王を、殺そうとしている。
「……時間だ」
勇者は言った。その言葉には心なしか寂寥の感が窺えた。
勇者。
魔王を殺すために生きてきた人間。
自らの理想を実現させるために、魔王を殺そうとしてきた人間。
「じゃあな、魔王。地獄で会おうぜ」
そして。
魔王は消えた。
勇者の、人類の、長きにわたる戦いが、ようやく、一つの節目を迎えた。
*
「やっぱり、こうなっちゃったか」
『 』は言った。魔王が負けた。その事実は長い時間生きてきた『 』にとって最大の驚愕であったが、それでも、予想していたことではあった。
「まあ、いつかはこうなるとは思っていたんだけど、ここまで早いとはね」
『 』は言った。人間はやはり驚異的な存在だ。恐ろしく、そして何よりも、面白い。
「さて。これからどれくらい待てばいいんだろうね」
『 』は呟いた。誰に対するものでもない。自分に対する呟き。
「まあ、何を言ってもどうしようもないし、ゆっくり待つことにしましょう。人間を見ていれば、まず飽きることはないでしょうし」
『 』は見ていた。人類を。世界を。すべてを俯瞰する場所で、すべてを見ていた。
そして、最後に、『 』はぽつりと呟いた。
「早くしてね、『魔王』。私が待ちきれなくなる前に戻ってこないと、この世界、滅ぼしちゃうかもよ?」