第五節 -24- 魔王
魔王の肉体が内側から爆発し、その肉が四方八方に飛び散る。べちゃ、と床にへばり付き、勇者の頬に付着する――
「やはりか」
かと思えたが、『攻撃』の魔法でそれを消滅。
その理由は言うまでもない。
この程度で魔王が死ぬわけはなく、つまり、この『肉』は、未だに『物体』ではなく『魔王の一部』なのだ。
「そう上手くはいかない、か」
床にへばり付いた肉が沸騰したようにぶくぶくと泡立ち、泡は大きく膨らみ始める。
膨張し切った肉の泡は、一瞬で変形し、人型になる。
魔王になる。
「そして、今のはさすがに予測外だった。褒めてやろう」
一切の動揺なく、悠然と構えたまま、魔王は言う。
それに対し、勇者は二つの感情を抱いた。
『やはり』という諦観と、『これでもか』という驚き。
やはり、魔王は強い。
さらに、おそらくだが……まだ、本気を出していない。
なら、それが狙い目だ。
――狙い目、だった。
「ついでだ。今まで本気を出していなかったわけではないが……一つ、面白いものを見せてやろう」
そう言った瞬間、魔王の臀部、尾骨の辺りが隆起した。
それはどんどん長く、太くなっていき、一つの『尾』のようになる。
「人間には、尾がないのだったな。まあ、我も普段は邪魔であるからしまっているが……人間から見れば、この尾は奇妙に映るのではないか?」
「ああ」
皮肉に笑い、
「猿みたいだ」
「猿、か。一理あるな」
しかしその皮肉は魔王に通じなかった。あるいは、通じた上で、余裕を保っている。
猿のようだと言われたことに対して、何の感情も抱いていない。
そもそも、魔王は魔族であり、人間ですらないのだ。その魔王にとって、猿のようだと言われたことなど、人間のようだと言われたことと同じ。
ならば、この反応は当然、か。
「ただ、この尾は餌を取るようなものではない」
魔王の尾が、上を向いた。上に向いて、ぴんと張った。その長さは魔王の身長より遥かに長い。
「矛だ」
尾が鞭のように振られる。
避けることは簡単か?
否。
その速度は音速を遥かに超えている。
鞭とは先端に近付くにつれて速度が増す武器であるが、それと同じだった。
尾の付け根のあたりは、おそらく、そこまで速くはない。
(とは言っても、人間が動かせる限界速度とは比べ物にならないほどの速度であろうが)。
単純な計算だ。
角速度が同じなら、速度は半径によって決まる。
角速度×半径=速度。
単純な方程式。十五に満たない子供でもできる。
そして、魔王の尾。
その長さは、普通の鞭とは比べ物にならない。その半径。比例定数が違うのだ。
結果、魔王の尾は恐るべき武器と化す。
「と言っても」
勇者は魔法を行使する。
「俺にとっては、さほど脅威ではない」
『切断』。
魔王の尾が付け根から切れる。
加速度を失った矛は、しかし速度は失わず、猛スピードで飛来する。
さらに『切断』。
そのままなら勇者に当たるはずの部分が綺麗に割れ、まるで勇者を避けるように真っ二つになる。
「脅威ではない、か」
魔王の言葉。しかし、その言葉は背後から聞こえた。
「ああ、そうだ」
尾が変形し、意思を持つように動き、勇者を襲う。勇者は『攻撃』の魔法を放ち、これを消滅。
「本当に、そうか?」
いつの間にか、魔王が勇者の目前にいた。
いつの間に? 何の魔法だ?
魔力放出による高速移動だけでは説明がつかない速度に驚くが、動揺はしない。
相手は魔王だ。魔族の王だ。自分の知らない魔法の百や千くらい使ってもおかしくはない。
それはきっと、自分も同じなのだから。
「そうだ」
勇者は魔王を見た。
その『眼』で、しっかりと見る。
一瞬で処理限界を迎えようとするが、時間魔法を併用し、限界を超える。
「時間魔法か」
加速する世界の中で、何の影響もないように、魔王は話す。
「当然だが、それができるのは、貴様だけではない」
わかっていた。
魔王は自分と同じように加速したのだ。
だから、何の影響もないように見える。
そして――
「そして、我は貴様の遥か先にいる」
魔王は、勇者の何倍、何十倍もの加速をすることができる。
その膨大な魔力量は、それだけの時間魔法を可能にする。
勇者の何百、何千、何万……どんどん加速していく。
その限界はない。そう、『限界がない』のだ。
無限の加速。
それが表すもの。
つまり、
「我には、時を止めることすらも可能だ」
『時の停止』。
世界のすべてが止まっているような錯覚を覚えるほどの加速。
『時が止まった世界』を生きることを可能にする。
「……もう、聞こえてはいないか」
魔王は呟いた。この世界へ入ることができるのは、自分だけだ。
自分と同じように時を止めることができる者などいない。
「終わりだ、勇者。呆気無いが、チャンスはいくらでもやった。この『世界』に入門できないならば、その時点で、貴様の負けだよ」
魔王は勇者に近付き、その胸に触れた。
「ここまで来たことに、敬意を払おう。痛みすらなく、殺してやる」
そして、魔王はその手から――
「お前が死ね」
勇者がその手を掴んだ。『捕食』。
「……少し、驚いたぞ」
その瞬間、魔王は自らの髪で自らの腕を斬り落とした。
「驚いた? もしそうなら、それはお前が油断していたからだな。なにが『チャンスはいくらでもやった』だ。俺からすれば願ったり叶ったりだが、死ぬ時に後悔しても知らねえぞ? 『あの時に本気を出していれば』ってな」
軽快に、勇者は言った。同時に、『捕食』によって得た魔力量に驚愕を覚えていた。
ここまでの魔力量か。それも、おそらく、これは魔王の全魔力の一パーセントにも遥か遠い。
それなのに、もう勇者がこの部屋に入る前、その時に保有していた魔力量の数倍はある。
魔力は回復した。だが、その回復量に驚いてしまった。
この『時を止める』なんていう離れ業も、魔王の魔力量からすれば容易なのだ。そのことがすぐにわかった。
もしかすると、この魔王に、不可能はないのかもしれない。
一応、考え得るすべてのパターンに対応する準備はできているが、自分の想像を超えることをしてきた時点で――
そこまで考えて、止めた。
これ以上考えてはいけない。落ち込むな。変に悩むな。悲観的になるな。ネガティブに考えてはいけない。そんな可能性を考えてはいけない。今は、魔王との戦いについて考えろ。
現実から逃げるな。現実を直視しろ。
『今』、『この時』を考えろ。
そのように自らを冷静に落としている勇者に対し、魔王は今起こったことについて考えていた。
(勇者……あ奴、どのようにして、この『世界』に……?)
時が静止した世界。
この世界に入門できるのは、自分だけのはず。
(予測外ではない……だから、それほどは驚かなかった……)
勇者が時間魔法を使える時点で、何か対策をしているとは思っていた。
時間魔法を使えるなら、魔王が『時を止める』ことは予測できるはずだし、その対策もしてくるだろう。そのことはわかっていた。予測できていたのだ。
予測していたからこそ、今まで使わなかった。
『使えば勝てる』と確信したなら最初から使っている。
『破られる可能性』を考えたからこそ、最初には使わなかったのだ。
今まで使わなかったのは決して『本気ではない』とか『油断していた』とかではなく、単に『様子見』をしていたからだ。
戦争において、自分の手の内をさらけ出すことほど愚かなことはないのだから。
しかし、
(しかし……『少し』……そう、『少し』は驚いたのだ……。この『世界』への入門。これは別に、我が奥義だとか、秘奥だとか、最大の技とか、そういったものじゃあないが……それでも、破られたのは初めてかもしれない……)
魔族の中でも、この『世界』に入門できた者はいない。
それが、どれだけのことか。
人間という種が生まれる前から続く魔族の歴史の中で、一度も――そう、『たったの一度』もなかったことだ。
それが、一人の『人間』に破られた。
これが、どれだけのことか。
(勇者……勇者、か……。人間の『我』みたいなものかもしれないな……その種の、絶対者。その種の、超越者。ただ一人、同種のすべてから一線を画す者……)
そう思うと、魔王と勇者は似ている。
『孤独』。
自分だけが違う。そんな感覚を味わった者同士かもしれない。
(我が『世界』への入門……そう……そう考えると、勇者が我が『世界』へ入門できたことは、自然なのかもしれないな……)
似た者同士だから。
『同じ』だからこそ、できた。
……いや、『同じ』なのだから、できるのは『自然』なことだったのだ。
(……だが、それは暴論だ。そういった理論を飛び越えた結論は、ただの『逃げ』に過ぎない)
魔王はそのような『こじつけ』で終わりはしなかった。きちんとした『納得』を求めた。
勇者がどのように時が静止した世界へ入門できたのか。その方法を探った。
(……現実的に考えて、勇者の魔力量ではこの『世界』に入門できない。『普通の方法』では無理だ。不可能だ。だから、勇者がこの『世界』に入門したことには、また別の理由があるはずだ……)
一つずつ選択肢を潰していく。
この『世界』に入門できるすべての方法を模索し、それが勇者にもできるかどうかを確かめる。
(それに、もし可能なら、勇者は迷わず先に『時を止めた』だろう……この『世界』は、先に入門した方の勝ちのようなものだ……まあ、『制限時間』があるのならば、それはまた別の話だが……)
『時が止まる』のだから、先に使った方の勝利が確定することは当然である。
先に『時を止めて』しまえば、その時点で相手は何もできなくなるのだから。
『制限時間』……時が止まった状態で『制限時間』とは、何ともおかしい表現で、まったく理屈に合わないが……そうだな……主観時間とでも言えばわかりやすいか。主観時間での『制限時間』があるのなら、その時間内でできることは限られてしまう。だから、その時はまた別の話になる。
(とにかく、あの時の状況を思い出そう……そうだ、あの時の状況を、だ……。まず、勇者は時間魔法を使い、自らの時間を加速させた……。そこで、我も同様に、時間魔法を使った。そして、時間を加速させ……『時を、止めた』……)
あの時点では、勇者の時も止まっていた。勇者も『止まった時の世界』にいた。
――いや、
(……本当に、そうか……?)
勇者はあの時点で、この『世界』に入門していたのではないか?
そして、我を油断させるために、『演技』をしていた……。
勇者ならば、十分にあり得る話だ。
(だが……そう、『だがしかし』、だ……もしも『そう』だったとすると、一種の『矛盾』が起こるのではないか……)
『矛盾』。
それは単純な話であった。
(この『世界』……これは、『時が止まった世界』だ……この『世界』に二人が同居するというのは、不可能ではないのか……? 本当に……そう、一瞬の……一ミリ秒だとか、一ナノ秒だとか、そんなものではなく……そう、本当の意味で、同時でなければ……『まったくの同時』でなければ、この『世界』に二人が動けるというのは、ありえないはずだ……)
勇者がどのような方法でこの『世界』に入門したのかはわからない。だが、もしこの『世界』に入門したとしても、これは一つの――そして、重大な――矛盾を孕む。
そんなことが、可能なのか?
そんな、そんな奇跡が……、
(待て)
魔王は、あることに気付いた。
(『逆』だ)
それに気付けば、既に答えは見えていた。
(そう、『逆』なのだ……。この『世界』に入門できたとして、奇跡が起こって、我と『まったくの同時』にこの『世界』に入門してのではなく……その、『逆』なのだ)
そう。
何らかの方法があって、それで、どうしてこの『世界』に同居できているのか。
そうではない。
『逆』だ。
つまり、
(そう、つまり……まったくの同時『だからこそ』、この『世界』に入門できたのだ……。『それ』こそが、『方法』だったのだ……)
魔王は、すべてを理解した。
(あの人間……勇者は、我と同時でなければ、この『世界』に入門できなかったのだ……我がこの『世界』に入門した『から』、勇者もこの『世界』に入門することができた……)
勇者は、決して『時を止める』ことができるわけではない。
この『世界』に入門することができるだけだ。
(それが、『条件』……となれば、後は簡単だ。どのような魔法かはわからぬが、それを探る必要はない。とにかく、『我が時を止める』ことを『条件』にした魔法。……察するに、『時間の共有』とでも名付けるべき魔法か。我の主観時間と自分の主観時間を結び付けた……それでは説明が付かないことも一応はあるが、些細な事だ)
魔王は『納得』した。
それが絶対に合っているという保証はない。もしかすると、間違っているかもしれない。
だが、そんなことは『どうでもいい』のだ。
『納得』。それができれば、あとはどうでもいい。
(我を発動条件としているなら……もう、続ける意味もないか)
そして、魔王は時間魔法を解除。時が動き出す。
(念の為に……そう、自分の推測が間違っていた時のために、『保険』はかけておいたが……どうやら、我が予測は外れていなかったようだ)
時が動き出した世界で、自らの身に何も起きていないこと。勇者の位置が変化していないことにより、先ほどの『推測』は『確信』へと変わる。
「勇者」
魔王は勇者の名を呼んだ。警戒は解くことなく、
「なんだ?」
「先の……我が『世界』への入門。あれは素晴らしかった。素直に称賛を送ろう」
手をぱちぱちと鳴らす魔王に、
「何が『我が「世界」への入門』だ。バカじゃねえのか?」
と悪態をつく。
しかし、
「いや……勇者……一応、否定とばかりの言い訳をしておこう。今まで、この『世界』……我が時間魔法を破る者は、たったの一人もいなかったのだ。我以外の誰も動けはしない世界だった……故に、『我が世界』なのだ……あれは、『世界』を我が手にした、というような錯覚を与えるからな……」
大真面目に、魔王は言う。
「そんな中、『これ』は新鮮だった……だから、称賛を送ろうと、素直に……本当に素直に、そう思ったのだ」
魔王は――この、少女の形をした魔族は、決して油断しているわけではなかった。
戦闘中ということを忘れず、しかし、こんなことをする。
それは魔王にとっては矛盾したことではなかった。王であるが故に、それは当然のことだった。
不意などなかった。
あんなことを言っておきながら、魔王は勇者の一挙手一投足に目を配っている――いや、あんなことを言っているからこそ、魔王は勇者を警戒しているのだ。
勇者の力を認めているからこそ、魔王は勇者に対して本気になっている。
今までも魔王は本気を出していた。少なくとも、魔王自身はそう思っていた。
しかし、実際は違う。
魔王は自らが意識しない無意識のどこかで、自らの力をセーブしていた。その上で、あれだけの強さを誇っていた。
今。
魔王には、完全に油断がなかった。
本当の本気。
その顔が、今、見せられる――
「故に」
魔王の身体が、黒に塗りつぶされた。
「我も、一つ、貴様に見せてやろう」
そう錯覚した。だが、実際は違った。
「これが――そう、これこそが――」
それは、単に魔王の身体から、暴虐なまでの魔力が漏れ出しているだけだった。
そして――
「――【魔王】だ」
【魔王】の目が――『眼』が、変わった。