火種
数坂と話すために、月詠が軽音部を訪ねたのは翌日の放課後だった。雷翔は同行しなかった。自分まで一緒に行けば、生徒会が何かを探っていると警戒される可能性がある。それに、数坂本人の気持ちを確かめるだけなら月詠一人の方が向いている。
能力のことを知らなくても、そのくらいは分かる。月詠は愛想がいいわけではないし、自分から会話を広げることもほとんどない。だが、相手の話を遮らず、妙にまっすぐ見る。しかも本人は自覚しているのかいないのか、少し首を傾げて黙っているだけで「続きを聞きたい」という雰囲気になる。
顔もいい。それはもう、腹が立つくらいに。
おまけに何を考えているのか少し分かりにくいせいで、相手からすると逆に気になるらしい。雷翔はそこまで考えてから、たぶん本人も分かってやっているな、と訂正した。
月詠はその手のことに鈍いようでいて、妙なところだけ妙に器用だった。その間、生徒会本部に残った雷翔は、写真部について集まった情報を整理していた。前日には二人が退部し、さらに一人が文化祭終了まで活動を休止したいと申し出ている。原因は一つではなく、部長による強引な勧誘、文化祭準備の遅れ、一部の部員に偏った機材管理など、以前から溜まっていた不満がここ数日で一気に表へ出始めていた。
前年より部員が減り、新入部員もほとんど入っていない。しかも前年にはすでに高額な撮影機材を購入している。その状態で、今年度の予算だけが二十万円から三十万円へ増額されていた。
石川が掲げていた「学校広報との連携」や「文化祭後も活用できる設備」という説明そのものは、まだ崩れていない。ただ、活動規模が縮小し続けている現状まで含めれば、それだけで五割増を納得させるのは確実に難しくなっている。
雷翔は数字を一枚の紙へまとめ、ペンを机へ置いた。自分が暗室の設備を一度だけ乱したことは、誰も知らない。あの一回だけで部員が辞めたわけではない。もともと関係は悪化していたし、文化祭準備を巡る対立も以前から存在していた。それでも、自分が何もしなければ、あの日あのタイミングで衝突しなかった可能性はある。
そこまで理解していたが、後悔はしていなかった。写真部はもう自分たちだけで揺れ始めている。なら、これ以上こちらから触る必要はない。
余計なことをして仕事を増やす趣味はない。ここ数日の自分の行動を振り返ると、説得力はなかった。
夕方になって、月詠が戻ってきた。雷翔は端末から顔を上げる。
「どうだった?」
月詠は向かいの椅子へ座ると、簡潔に答えた。
「嫌ってる」
「数坂先輩が大橋を?」
「うん」
それだけ言って終わろうとする月詠に、雷翔は苦笑した。
「もうちょっと説明してくれない?」
「何を?」
「俺、まだ人の頭の中読めないんだけど」
「不便だね」
「普通なんだよ」
月詠は少しだけ笑った。話を聞くと、大橋は最近、文化祭の進捗確認を理由に軽音部へ頻繁に顔を出している。だが実際には数坂だけへ個人的に話しかけることが多く、連絡先まで聞こうとしていたらしい。数坂は何度か遠回しに断っていた。それでも、大橋はやめなかった。
「断ったあと、『俺が四十万まで通したんだから、少しくらい二人で話す時間を作ってもいいだろ』って言われたって」
雷翔の表情から笑みが消えた。それは好意の伝え方を間違えたという話ではない。自分が動かした予算を、相手から時間を買うための貸しに変えている。
「よくそこまで話してくれたな」
雷翔が言うと、月詠は少し首を傾げた。
「普通に聞いただけだよ」
「本当に?」
「最初は、大橋先輩のことどう思ってるんですかって」
「直球じゃん」
「答えにくそうだったから、ちょっと笑った」
「それで?」
「もう一回聞いた」
雷翔は月詠の顔を見る。
「お前、それ絶対わざとだろ」
「何が?」
「その顔の使い方」
月詠は数秒黙ったあと、わずかに口元を上げた。
「使えるものは使えばいいでしょ」
雷翔は思わず笑った。
「お前、思ったより性格悪いな」
「天城に言われたくない」
それはそうだった。月詠は話を戻す。
「あと、予算のことも言われた」
雷翔の視線が上がった。
「何て?」
「今年はかなり通してやったから、文化祭期待してるって。来年の査定もあるし、変にこじらせない方が軽音部のためだとも言われたって」
雷翔の眉がわずかに上がる。
「数坂先輩本人に?」
「うん」
「馬鹿だな」
思わず口から出た。月詠が雷翔を見る。
「何が?」
「それじゃ、予算と自分を結びつけてるって本人に思われても仕方ないだろ」
「本人は、冗談みたいに笑ってたらしいけど」
「笑って言えば脅しじゃなくなると思ってるのか」
大橋は、自分が生徒会長であることも、来年度の査定へ影響できることも分かった上で口にしている。露骨に命令せず、数坂の側から応じた形にできる程度には頭も回る。雷翔は少し考え、月詠へ視線を戻した。
「で、数坂先輩はその話をする時、どんな感じだった?」
月詠はすぐには答えなかった。こういう時の月詠は言葉を探しているというより、相手から受け取った印象を整理しているように見える。
「嫌悪ってほどじゃない」
やがて月詠が言った。
「面倒だと思ってる。あと、少し怖がってた」
雷翔から笑みが消えた。
「大橋を?」
「大橋っていうより、生徒会長を」
その答えを聞いて、雷翔は椅子の背から身体を起こした。ただ好意を向けられて迷惑しているだけなら、個人同士の問題として片づけられる。だが、相手が生徒会長だから強く断れないと感じているのなら、大橋の立場そのものが数坂の判断へ影響していることになる。
そして、その大橋が軽音部の六割増額を通していた。もちろん、それだけで不正の証明にはならない。ただ、大橋が説明しなければならないことは確実に増えた。
「月詠」
「何?」
「数坂先輩、みんなの前でその話できそう?」
月詠は少し考えた。
「嫌がると思う」
「だよな」
雷翔はすぐに引いた。無理に証言させれば、今度はこちらが彼女の立場を利用することになる。それでは、大橋がやっていることと大して変わらない。
「軽音部の中では?」
「何人かは知ってる」
「なら十分」
月詠が雷翔を見る。
「何するの?」
「今は何もしない」
「また?」
「俺だって何もしない時くらいあるよ」
「最近見てないけど」
「俺も」
自分で言って少し嫌になった。雷翔は写真部の資料を手元へ寄せる。
「大橋が数坂先輩へ近づいてることは、軽音部の中ですでに知られてる。本人も迷惑してる。なら、予算の話を出せば、事情を知ってる奴は勝手に考える」
続いて写真部の資料を指で叩く。
「こっちも同じ。俺たちが『不正です』って叫ぶより、部員数と購入記録と予算額を一緒に並べた方が強い」
月詠はしばらく黙って聞いていたが、やがて尋ねた。
「明日の説明会でやるの?」
「うん」
翌日は文化祭準備の全体説明会がある。各部の代表だけでなく、文化祭実行委員や希望する生徒も参加する予定で、本来なら日程や使用教室、搬入手順などを確認するための場だった。雷翔は、そこへ予算の話を持ち込むつもりでいた。
「大橋先輩には?」
「まだ何も」
「石川先輩にも?」
「当然」
雷翔は楽しそうに答えた。
「今教えたら準備するだろ」
月詠の口元がわずかに動く。
「性格悪いね」
「褒めてる?」
「かなり」
「ならいいか」
「いいんだ」
その時、生徒会本部の扉が開いた。入ってきたのは小原だった。
「天城、月詠。写真部の件、聞いた?」
雷翔は何も知らない顔で振り返る。
「何です?」
月詠が横から雷翔を見る。さっきまで写真部の資料を読んでいた人間とは思えない顔だった。
「活動休止する奴が出たって」
小原は困ったような顔をしていた。
「この前二人辞めたばっかりだろ。部長ともかなり揉めてるらしいし、文化祭ちゃんと参加できるのかな」
雷翔は手元の資料へ一度視線を落とした。
「予算、三十万ですよね」
「そうなんだよ」
小原もそこには引っかかっていたらしい。
「さすがに今の規模で五割増はどうなんだって、会計でも話が出始めてる」
雷翔は月詠を見なかった。見る必要がなかった。
もう、自分たちだけが抱いている疑問ではない。写真部の増額に違和感を持つ人間が、生徒会の中にも出始めている。
「石川副会長は何て?」
「今日は外部との打ち合わせでいない。まだ知らないんじゃないか」
「そうですか」
雷翔はそれ以上何も言わなかった。小原が別の仕事へ戻ってから、月詠が小さな声で聞く。
「何も知らない顔、上手いね」
「顔がいい奴に言われたくない」
「関係ある?」
「今日のお前が言う?」
月詠は少し笑った。
「これも予定通り?」
「ここまでは」
「じゃあ、明日は?」
雷翔は机の上に散らばっていた資料を一つにまとめた。写真部は前年より部員が減り、昨年すでに機材を購入しているにもかかわらず、今年の予算は五割増えている。軽音部は六割増で、その増額を通した大橋自身が数坂へ個人的に近づいている。その一方で、吹奏楽部には今年中に修繕する必要のある楽器が残り、演劇部には前年から先送りされ続けている設備があった。
どの事実も、それだけなら説明はできる。部員が減っていても設備投資が必要なことはある。数坂へ好意を持っている生徒会長が軽音部の増額に賛成したからといって、それだけで不正と決めつけることもできない。だが、すべてを同じ場所へ並べた時、同じ説明のままで通せるかどうかは別の話だった。
「明日は、俺が説明する」
「会長の前で?」
「会長がいるからやるんだよ」
月詠の目が少し細くなる。
「勝てる?」
雷翔は不思議そうに月詠を見た。
「何に?」
「大橋先輩たちに」
問いの意味を理解して、雷翔は笑った。
「勝つよ」
力んだ声ではない。翌日の予定を確認するような、ごく自然な言い方だった。
「そのために、ここまで面倒なことやったんだから」
「そこなんだ」
「大事だろ。ここまでやって負けたら、ただ仕事が増えただけじゃん」
「それは嫌だね」
「だろ?」
月詠はしばらく雷翔を見ていたが、やがて小さく笑った。
「じゃあ見る」
「手伝えよ」
「必要?」
「いる」
答えは早かった。月詠が一瞬だけ黙る。雷翔はそれに気づかず、資料を鞄へ入れながら続けた。
「俺が話してる間、会場を見ててほしい」
「会場?」
「どこで誰が反応するか。大橋と石川だけじゃなくて、執行部も、軽音も写真部も、吹奏楽も演劇も」
雷翔は鞄を閉じ、月詠を見る。
「俺が前を見てる間、後ろはお前が見てくれればいい」
月詠は少しだけ黙った。雷翔は、月詠が断る可能性をほとんど考えていないらしい。それを指摘する代わりに、わずかに目を細めた。
「分かった」
「頼む」
「じゃあ天城は喋るだけ?」
「喋るだけって言うな。準備したの俺だからな」
「僕、今日顔まで使ってきたけど」
「自分で言うんだ」
「使えるものは使うんでしょ?」
雷翔は笑った。
「覚えるの早いな」
それだけ確認すると、二人は翌日の資料をまとめ始めた。
◇
翌日。文化祭準備の全体説明会には、大橋と石川を含む生徒会執行部が壇上に並び、その下には各部の代表や文化祭実行委員、生徒たちが集まっていた。
雷翔は席に着く前に、鞄の中の資料を一度だけ確認した。まだ何も始まっていない。大橋も石川も、これから何を聞かれるのか知らない。
隣では月詠が何事もない顔で会場を見渡していた。昨日、あの顔で数坂から話を引き出してきたのかと思うと、雷翔は少しだけ納得がいかない。
「何?」
視線に気づいた月詠が聞く。
「いや。便利だなと思って」
「顔?」
「自分で言うなよ」
月詠がほんの少し笑う。雷翔は壇上を見上げた。
自分たちで決めた予算なのだから、まずは自分たちの言葉で説明してもらえばいい。その説明が、すべての事実を並べたあとでも通るのか。確かめるだけだった。
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