番外編:スライム討伐数1
その頃、僕はまだ、名前で呼ばれるような冒険者ではなかった。
「お前」「そこの」「ルーキー」
せいぜい、その程度の存在だった。
そんな僕も、竜をたった一人で打ち倒した伝説の《竜殺し》に憧れた一人だった。
凱旋する姿を見て目を輝かせ、武勇伝を聞くたびに胸を躍らせた。
僕もいつか、あんな冒険者になりたい。
そう思って、我流で何度も剣を振るった。
そして今日、初めての討伐任務に出た。
集まったのは、僕と同じく経験の浅いルーキーばかり。互いに会話らしい会話もなく、ただ目的の場所へ歩いていく。
連携なんて、望むべくもなかった。
今回の討伐対象は、スライム。
どこにでも生息する、ありふれた下位の魔物だ。脅威度は最も低いとされ、主にルーキーが討伐を担当する。
群れで行動することはあっても、連携するほどの知能はない。討伐した身体の一部は、薬の原料にもなるらしい。
下調べはした。何度も、戦う自分を思い描いた。
いよいよ、憧れへと続く道のスタートラインに立つ。
――なのに、剣の柄を握る手は震えていた。
「怖いなぁ」
呟きが足音に紛れた、その直後だった。
「いたぞ! スライムの群れだ!」
数メートル先を歩く冒険者の声が響いた。
「オレが一番狩ってやるよ!」
「めんどくせぇ。スライムなんて飽きたよ」
「こっちの邪魔だけはしないでよね」
口々に言いながら、仲間たちが散っていく。
誰も指示を出さず、誰も周りを待たない。それぞれが目についたスライムへ向かっていった。
「ぼ、僕も!」
少し遅れて剣の柄を握り直し、大きく息を吐く。
あれほど振ってきた剣が、まるで別物のように重かった。
「あ、あのスライム……群れから外れた」
誰かの攻撃をかわした一匹が、群れから遠ざかるように跳ねていた。
僕は、その進路を塞ぐように前へ出た。
「――っ、はぁ、はぁ……」
――なんだ、これ?
目は? ない。
どこを向いているのか、分からない。
液体? いや、違う。
どこから攻撃してくるんだっけ?
あんなにも下調べをしたのに。
何度も、何度も戦い方を考えたのに。
何も思い出せない。
「っ、うわぁぁぁあ!」
振り下ろした剣は、初めて握ったかのような、不格好な一撃だった。
スライムはひと跳ねでかわし、勢い余った剣が地面に突き刺さる。
「え? あれ、うそ……抜けない!」
慌てて柄を引っ張る。けれど、びくともしない。
剣に気を取られ、スライムが地面にぐっと身体を縮めたことにも気づかなかった。
右腕全体に、ずしりと重い衝撃が走った。
「うわっ!」
身体が横へ吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「痛っ……なんで?」
倒れたまま、声が漏れた。
右腕が痛い。剣を握っていたはずの手に、何もない。
「……なんで、じゃない。攻撃されたんだ」
そのときになって、ようやく分かった。
僕は、物語の一場面にいるわけじゃない。
魔物と命をやり取りする場所へ、自分の足で踏み込んだんだ。
「――怖い」
口にすると、少しだけ頭がはっきりした。
剣は地面に刺さったまま。あの深さなら、すぐには抜けない。
スライムは――攻撃する前、身体を縮めていなかったか?
進む方向とは反対側へ、引き絞るように。
あれが予備動作なら、次は分かるかもしれない。
僕は予備のナイフを取り出した。
スライムは威嚇しているのだろうか。先ほどよりも高く、何度も跳ねている。
「――《身体強化》」
身体に熱が戻る。
やがて跳躍が止まり、スライムが地面に沈み込むように縮んだ。
僕に向かって、突っ込んでくる。
速さは?
さっきは見えていなかった。
この距離で、迎撃できるか?
――違う。
「できなきゃ――死ぬんだ」
スライムを見据える視界の手前で、ナイフが小刻みに揺れていた。
大丈夫。
震えていても、ちゃんと見えている。
スライムの身体が、一瞬だけ緩んだ。
そこから大きく引き絞られ、地面を弾くように飛び出す。
――来た!
半身に構えた僕の、身体の中心へ一直線。
僕は前足を斜め前へ滑らせ、突進の軌道から身体をずらした。
ナイフだけは、その軌道上に残して。
スライムが、自ら刃へ飛び込んでくる。
身体の一部に刃が滑り込み、手に不思議な感触が伝わった。
「――?」
切っ先に、何かが触れた気がした。
目には見えない。
だけど、確かにそこには、何か別のものがあった。
スライムは突進の勢いのまま地面に落ち、べしゃりと潰れた。
「危なかった……でも、全然浅い。これじゃあ……」
僕はナイフを構え直し、振り向いた。
スライムは地面に潰れたままだ。
動かない。
いや、また跳びかかるために、身体を縮めているのか?
一秒、二秒――。
「――あれ?」
さっきまで何度も跳ねていた身体が、弾力を失っていく。
丸い輪郭が崩れ、溶けかけの飴のように地面へ広がった。
端がわずかに揺れ、それきり動かなくなる。
傷は、ほんの数センチしかない。
それなのに、もう跳ね上がる気配すらなかった。
「もしかして……倒せた?」
初討伐の高揚は、思っていたよりもずっとあっさりしていた。
ナイフを握る手は、まだ震えている。
僕は右手を左手でぎゅっと掴んだ。
「――生きてる。生きてる!」
何度も確かめるように呟いて、ようやく周囲の静けさに気づく。
さっきまで響いていた戦闘の音が、いつの間にか消えていた。
「あ……任務、完了してるんですね」
初めての討伐任務。
僕の討伐数は、一体。
その間に、仲間たちは十五体を狩り終えていた。もう帰還の準備を始めている。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
僕はようやくナイフを下ろし、初めての戦果をそっと掴み上げた。
帰る前に、地面に刺さった剣を引き抜いた。
*
その夜、僕は武器屋にいた。
「坊や、本当にいいのか?」
「――はい」
カウンターに、一本の剣を置く。
何度も振るった剣。
丁寧に、丁寧に手入れをしてきた剣。
憧れの《竜殺し》が持っていたものに、よく似た剣だった。
わずかばかりのお金を受け取り、店を出た。
「――君、あの剣はもういいの?」
声をかけられ、足が止まる。
初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい。不思議と温かな声だった。
振り向くと、一人の冒険者が立っていた。
胸元には、細い枝に二枚の葉と白い実をあしらった、見慣れないギルドの紋章がある。
「……はい」
「そう。冒険者は辞めちゃうのかい?」
「いいえ」
僕が即答すると、その人は少しだけ目を見開いた。
それから、優しく笑った。
「そう。無事に帰ってこられて良かったねぇ」
そう言い残して、関所のある方へ歩いていく。
「――?」
僕はしばらく、その背中を見送っていた。
その人が《ヤドリギ》というギルドを立ち上げた冒険者だったと知るのは、もう少し先のこと。
そして、スライムを一匹倒すのがやっとだった僕に――
《スライム狩り》という二つ名が与えられるのは、もっと先の話になるのだった。




