【1話】決闘者
残業を終えて会社を出たのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。
駅までの道のりはいつも通りで、コンビニの明かりも、信号の音も、何一つ変わったところはなかった。
だから、足元に光る模様が浮かび上がった時も、最初は看板か何かの反射だと思った。
次の瞬間には、視界が真っ白に染まっていた。
気がつくと、そこは見知らぬ広間だった。
天井は高く、石造りの柱が等間隔に並んでいる。
玉座らしきものに座っていた初老の男が、こちらを見て破顔した。
「おお……! ついに、ついに勇者召喚が成功したか!」
王様、という単語が真っ先に頭に浮かんだ。
それくらい、絵に描いたような王様の格好をしていた。
周りを見回すと、俺と同じように立ち尽くしている人間が四人いた。
制服を着ている。高校生くらいだろうか、男が二人、女が二人。
「うそ、マジで異世界転移した……!」
「これ、アニメで見たやつじゃん!」
男の一人が興奮気味に声を上げ、女の一人がそれに答える。
順応が早いというか、もはやこの状況を楽しんでいるようにさえ見えた。
「私はこの国、エルダイン王国を治める者。名をグレアム=エルダインという」
王――グレアムと名乗った男は、居住まいを正すと、俺たちの方を見た。
「率直に申し上げよう。この世界は今、魔王とその軍勢によって存亡の危機にある。どうか諸君らの力を借りたい。魔王を倒し、この世界に平和をもたらしてほしいのだ」
高校生たちの間に、緊張と高揚が入り混じったどよめきが走る。
魔王、という単語の破壊力は絶大だったらしい。
俺は、というと。
(何で見ず知らずの他人のために、命張らなきゃいけないんだ)
冷めた目で成り行きを眺めていた。
会社を出たばかりで疲れていたせいもあるかもしれない。
あるいは、単純にこの状況を受け入れるだけの気力がなかっただけかもしれない。
ふと、腰のあたりに違和感を覚えた。
見ると、見覚えのないケースのようなものが装着されている。
カードケースのような、薄い箱。中身を確認する暇もなく、王の傍らに控えていた神官らしき人物が声を張り上げた。
「それでは、皆様の加護――スキルを確認いたします」
「定番の展開だ‼」と男の一人が言う。
まず確認されたのは、はっきりとやる気に満ちた様子の男だった。
「蓮見蒼太様。スキル、【剣聖】」
「おおっ」とどよめきが起こる。
次いで、体格のいい坊主頭のもう一人の男。
「橘竜也様。スキル、【大盾聖】」
これにもどよめき。
女二人も続く。
「白川夏鈴様。スキル、【聖女】」
「東雲栞様。スキル、【大賢者】」
剣聖、大盾聖、聖女、大賢者。
役者が揃いすぎているとさえ思った。
四人はすでに顔を見合わせ、「俺たち最強パーティじゃん」とでも言いたげな笑みを浮かべている。
そして、最後に俺の番が回ってきた。
神官が水晶に触れ、しばし沈黙する。
妙に長い間があった。
「スキル……【決闘者】」
広間が静まり返った。
誰も反応しない。
それもそのはずで、俺自身、その言葉の意味がまるで分からなかった。
剣聖でも大賢者でもない、聞いたこともない名称。
沈黙を破ったのは、蒼太の笑い声だった。
「なんだそれ、聞いたことねえ」
「ハズレじゃね?」
竜也も追随する。
どっと笑いが起こる。
悪意があるというより、単純に緊張の緩んだ結果の笑いだった。
それが余計に、こちらの立場を軽くした。
「まあまあ、俺たちが守ってやるからさ。おっさんはスローライフでも送ってろよ」
そう言ったのは蒼太だった。
悪気はないのだろう。
だが、その言葉が示す通り、俺はこの場において「守られる側」にすら数えられていない、ただの余り物として扱われていた。
王も気まずそうに視線を逸らしている。
邪険にするつもりはないのだろう。
求めていたのが「勇者」であり、俺がそれに当てはまらなかった、というだけの話だ。
悪意はない。
悪意はないが、明確な差はそこにあった。
結局、いくらかの金と、装飾もない粗末な剣を一本渡され、城を出されることになった。
多いのか少ないのか分からない金額だったが、無いよりはましだろう。
城下町を一人で歩く。
誰も俺のことなど知らない。
当然だ、目立つ活躍もしていないし、期待もされていない。
それでも、すれ違う人々の視線や、店先の空気に、どことなく「よそ者」を見るような色を感じてしまうのは、気のせいだろうか。
居心地が悪い。
目的もなく歩いているうちに、いつの間にか町並みが途切れ、気づけば木々に囲まれていた。
森だった。
人の気配がない場所まで来て、ようやく肩の力が抜けた気がした。
剣を握る手を見つめながら、独り言がこぼれる。
「決闘者、ってなんだよ……」
自嘲混じりの呟きだった。
誰かに答えを期待したわけではない。
だが、その瞬間。
頭の中に、機械的な声が響いた。
『決闘条件の成立を確認しました』
え、と思う間もなく、視界が変わった。
気づけば、俺は一面の白に包まれた空間に立っていた。
地面も、空も、境界すら分からない真っ白な空間。
その中に、四角いロープで囲まれた一画だけが浮かび上がっている。
ボクシングのリングによく似た、しかし妙に現実感の薄い場だった。
先ほどまでの森の景色はどこにもない。
慌ててロープに手をかけようとするが、まるで見えない壁に阻まれるように、体がそこから先へ進まない。
何度試しても同じだった。外に出ることは、許されていないらしい。
(噓だろ……)
混乱している暇もなかった。
カァン、と甲高いゴングの音が鳴り響く。
その音を合図にしたかのように、リングの反対側から青く透き通ったスライムが一体、勢いよく飛び掛かってきた。
「うわっ……!」
あまりの唐突さに、俺は情けなく尻餅をついた。
目の前に迫るゼリー状の体、その中でぎょろりと動く核のようなものが視界いっぱいに広がる。
だが、ぶつかる寸前でスライムは軌道をわずかに逸らし、俺の肩をかすめただけで着地した。
一撃目は、単なる威嚇か様子見だったのかもしれない。
尻餅をついたまま、荒い息を整える。
心臓が痛いくらいに鳴っていた。
それでも――。
「スライムごときに、やられてたまるか」
誰に言うでもなく、そう吐き捨てて、俺は立ち上がった。
手にしていた剣を、両手でしっかりと握り直す。
技術も何もない。
ただがむしゃらに、体当たりするように剣を叩きつける。
スライムの体が弾け、飛沫が飛び散る。
何度も、何度も。
無我夢中で、俺自身、何をしているのか正確には分からないまま、気づけば目の前のスライムの体はほとんど弾け飛び、最後には小さな石のようなものだけを地面に残していた。
ただの石ころにしか見えなかった。何かの拍子に転がっていた小石が、たまたまそこにあっただけのようにさえ思える。
肩で息をしながら、剣を下ろす。
と、その時。
目の前に、一枚の白いカードが浮かび上がった。
何も描かれていない、まっさらなカード。
(何だ、これ……)
戸惑っている間に、カードはひとりでに宙を滑り、地面に転がる石――先ほどまでスライムだったものらしき、あの石ころに、ふわりと重なった。
次の瞬間、石が淡く発光したかと思うと、カードの中へと吸い込まれるようにして消えていく。
同時に、カードの表面に、ぷるぷると揺れる青いスライムの絵が浮かび上がった。
絵の浮かんだカードは、そのまま宙を漂い、腰のケースへと吸い込まれていく。
同時に、周囲を包んでいた白い空間もリングも消え失せ、見慣れた森の景色が戻ってくる。
恐る恐る、ケースからそのカードを取り出す。
カードには、簡素な文字で「スライム」と書かれ、その下に、青く透き通った体のイラストが描かれていた。
「スライム……?」
思わず口にした瞬間、カードがぼんやりと光り、目の前に先ほどと同じ青い塊が現れた。
手元のカードに目を落とすと、あれほどはっきり描かれていたはずのイラストが跡形もなく消え、また真っ白に戻っていた。
まるで、絵の中身がそのまま抜け出してきたかのように。
びくりと身構える。だが、次の瞬間には違和感に気づいた。
攻撃してこない。
先ほどまでのスライムは、明確な敵意を持ってこちらに向かってきていた。
だが今、目の前にいるスライムには、そうした意思がまるで感じられない。ただそこに、置物のように存在しているだけだった。
(さっき、カードに吸い込まれるのを見た……。もしかして、これは)
魔物を使役する力――物語や漫画で見たことのある、そういう類のものかもしれない。そう当たりをつける。
だとしたら、命令には従うはずだ。試しに、近くの木を指差してみる。
「あの木、攻撃しろ」
スライムはぷるりと震えると、迷いのない動きで木に体当たりした。
(従った……)
ぼふん、と鈍い音が響く。
しかし、木の幹はわずかに揺れただけで、傷一つついた様子はない。
(そういえば、俺でも倒せたくらいだもんな……)
考えてみれば当然だった。
ゲームや創作で最弱と名高いスライムが、木一本を揺らす程度の威力しか持っていないのは、むしろ自然なことだ。
しかし、都合よく手足のように使えるなら、話は別だ。
とりあえず、命令に従うことが分かったのでカードに戻そうとする。
「戻れ」
スライムは、ぷるりと揺れただけで、何も起こらなかった。
「カードに戻れ」
「消えろ」
「元に戻って」
言葉を変えて何度も試すが、スライムはその場でふるふると震えるばかりで、一向にカードに戻る気配がない。
根負けして、その場に座り込んだ。
手にしていたカードを、何の気なしに地面に置く。
すると。
スライムが、のそりとカードの上に乗った。
次の瞬間、まるで水が地面に染み込むように、スライムの体がカードの中へと吸い込まれていった。
「……接触、か」
命令でも、言葉でもない。触れることが、戻す条件だったらしい。
手元に残ったカードを見つめる。
先ほどまで何も描かれていなかったそこには、今、ぷるぷると揺れるスライムのイラストが浮かんでいた。
右も左も分からない異世界で、たった一体――何の役に立つかも分からない、最弱のモンスター。
それでも、これが俺の手にした、最初の一枚だった。




