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男によると、ここは死者の行く世界の一歩手前なようだ。男も正確なことはわからないらしい。と言うのも、男にはここに来る以前の記憶がないのだそうだ。それを教えてくれた時にまたフフッと笑うもんだから、多分何も知らない俺に作り話をして遊んでいるんだろうなと、これは嘘だなと俺は解釈した。
「こういうRPG染みたシナリオには面白さが必要だからな」と微笑んでいた。
ここには時間と言う概念はない。現実世界では、俺が死んだときのまま止まっているのだそうだ。だから、俺には二つの選択肢があるのだそう。
一、現実世界に戻って後悔を取り除く
二、ここで消滅する
突っ込みどころ満載だった。
そもそも、ここに来る人には後悔が関連しているのではないか、とこの男が推測しているにすぎなくて、明確にはどんな人間が来るかはわからないみたいだった。男は幾人もの人間を見てきたそうだ。「気になっていた異性に告白ができなかった」「家族に別れの言葉を言えなかった」などはまだいい方で、「宝くじを当てられるまで死ねない」「推しにもう一度会いたい」みたいな人間もここに来たことがあったそうだ。
そのすべてに共通するのは、強い『後悔』だったという。
普通に考えて、確かにそうだろう。幽霊が現世に姿を現すのは、どう考えても成仏できないからであって、後悔とか未練からしか考えられない。男に丸め込まれて納得してしまうような後悔の持ち主は、ここに来るまでもなく、現世で生きていた時代に自分で解決してしまうだろう。
成仏できないで現世を彷徨うというのは、一般に広く知れ渡っている話なので、今のこの死んだ後にたどり着いたまっさらな空間と、成仏できない幽霊どちらを信じるかと言われたら言わずもがな幽霊の方を信じるだろう。というか、普通にそっちを信じる。
だが、俺は幽霊になれていなかった。こんなよくわからないまっさらな伽藍堂にいて、よくわからない仮面の男と出会っている。
地上に降り立つことはできるらしい。降り立つというよりは、移動するといった方が正しいみたいだ。ただ、幽霊同様、実体はない。言葉も発せない。腹も空かない、食べられない。
地上に移動して、透明人間としていくらかの期間生き、自分の残した後悔とケリをつけてくる。そうしなければ、生まれ変わってまた人間になれないのだそうだ。やっぱり生まれ変わるんだね、人間って。
もう一つの、「ここで消滅する」というのは、男の手によって行われるようだった。詳細や方法はここで消滅すると決めたときに説明し、それまでは言えないようだ。
すべてを説明してもらったわけではないが、なんとなく今自分の置かれている状況が把握できてきた気がする。
一つ、疑問があった。
「一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」不愛想に答える。
「今まで何人もの強い後悔を持ち得た人がここにいたみたいですけど、一度に何人もの人が来ることはないんですか?」
「まったく同時に死ねば一緒に来ることもあるかもしれないが、今まではそんな試しなかったな」
そうか、現実の世界では時間が止まっていたんだった。
「じゃあ、もう一つ聞くと、その人たちって実体もないし話すこともできないのに、どうやって後悔を取り除いたんですか?」
そう聞くと、饒舌に話していた男の口が塞がった。何か言えない理由があるのだろうかと想像を巡らせる。答えを催促するように彼の目を眺めていると、沈黙は破られた。
「それは言えないな」
やっぱり。何か理由があるんだ。
「さっき話していただいた、『気になっていた異性に告白ができなかった』人とか『家族に別れの言葉を言えなかった』人たちは、どうやって後悔を取り除いたんですか? 結構無理難題じゃないですか? しゃべれないのに、触れないのに」
俺は熱が入ったようにペラペラと言葉を並べるが、また沈黙が流れた。
「そこらへんはまたおいおいな。とりあえず行ってこい。話はそれからだ」
「え、話はそれから? ってまたここに来られるんですか、俺。それって何度も行ったり来たり出来るってことですか? 帰ってくるときはどうすればいいんですか?」
「あ……」
「え、帰ってこれないんですか?」
「えっと、まあ、なんというか……」
「もしかして! 一生向こうに行ったきりにするつもりだったんですか? あっ、てことは、今までの人たちも、みんな現世を彷徨ったままなんですか?」
激しく問い質すと男は参ったな、と言うような素振りで話し出した。
「帰ってくる方法はあるんだよ。ただ、それに値しないというか、選ばなかったというか、選ばれなかったというか……まあ、時期が来ればわかるんだよ。とりあえず、もう死んでんだから、ゲーム感覚で遊んで来いよ。じゃあな。グッドラック!」
男は親指を突き上げる。
まあ死んでるっちゃ死んでるけど、でもそれって裏を返せば透明のまま一生死ねないってことじゃ……。
はっと思い至り、男を見ようとかぶりを振ったとき……。
「嘘だろ」
賑わうキャンパス内。
すぐ横を通り過ぎる男女。
スーツ女性の髪が風に揺れる。
台車を押して忙しそうに走る、見慣れたロゴの帽子、鍔に触れる宅配業者の若い男性。
すぐ後ろを振り返ると、高さ十五メートルはある校門。親しんだ大学名。
天を仰げば、薄く秋色に染まった夕空。
下を見れば、黒く凹凸のあるアスファルト。
本当に戻って来たのか――実際半信半疑ではあった。死んだはずなのに、目の前に仮面の男が現れて、実体はないが現世に戻れるとか言い出し、素直に幽霊にしてくれないのかよこの世界は、なんて思ったぐらいで。
自分の手に視線を落とす。開いた手を握ってみれば、ちゃんと握った感触もある。足踏みをすれば踏んだ感触がある。ただ……。
目の前に男子生徒が近づく。今度は避けないように、体操選手並みの背筋で覚悟を持ってその場に立ち尽くす。
スッと俺の身体を通り抜けた。
振り返ると、男子生徒は何事もなかったかのようにスマホをいじりながら、校門を出て曲がって行った。
急に実感がわいた。
身体に触れようとすると透けて通る。自分の目で自分の身体が見えるのに物に触れられない。透明だった。当然現世の人間たちも同様だ。実体がないという実感が沸く。
昼時を過ぎて日が傾いているにしては、どうもキャンパス内で人が賑わいすぎている。止まった時間が動き出したのなら、まだ五限の真っ最中の時間のはずだった。
ああ、そっか。俺は死んだのか。そこで思い至った。
もうすでに生きている気になっていた。本当は死んでいるはずなのに死んだ実感がないというのは、今まさに感じたこの感情が証明してくれるだろう。
「おーい」
「ねえねえ」
「聞こえてますかー」
キャンパスを歩く学生に一通り声をかけても聞こえていないようだった。覗き込んでも嫌な顔一つされないし、至近距離で手を振り続けても何も言われない。
俺の声は届かない。