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雨音の行方  作者: 面映唯
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「一つためになる話をしてやろう」


 仮面の男はそう言って、俺の周りをうろうろしながら話し出した。


「過去に一度だけな、お前みたいな愚かな奴がいた。人間関係が下手だったんだろうな。いつも一人で学校に行って一人で購買のパンをかじり、一人で講義を受けて一人で家に帰る。彼女自身も気づいていたようだったが、この生活は退屈だった。誰かと一緒に何かを作り上げたときの喜びを覚えることはないし、友人からプレゼントをもらって嬉しいと思うこともない。。でも無害なんだ。有害ではない。自分が何も行動を起こさないから、天災とかそういう類のことが起こらない限りは実質無害。友達との関係はそもそもないのだから楽しいことこそないものの、仲たがいして苦しい思いは味わわなくていい。


 その居場所は彼女にとって居心地がよかったんだろうな。だって自分のせいで誰かを悲しませることはあり得ないんだから。自尊心が低く、自分はちっぽけな人間だとわかっているから、自分ごときが誰かの不幸になってはいけないと思っていたんだろう。


 そしてそこの居場所に一度逃げ込んでしまうと、まだいっか、もうちょっとって入り込んだ檻から出ようとしなくなった。退屈なはずなのに居心地は悪くない。社会で生きている人間としての罪悪感があったにも関わらず、出られない日々を重ねるごとにそれは薄れていった。


 彼女は気づいていたんだ。


 気づかない方がまだましだった。死後の世界が永遠に謎めき続けているように、彼女の退屈やこのやるせなさはいったい何なのかという問いに、答えなんていらなかった。いらないからこそ人間は生きていけるはずなのに、彼女はその答えにたどり着いてしまった。


 知ってはいけない原因を知ったとき、人はどうなると思う?


 何かが満ちちまったんだろうな。何か一つのことをやり遂げて大いに満足した。それが趣味や夢なら別だが、『生きる』ってことの最終難問。散々自分を苦しめてきた生き辛さや生きたくない意味がこれだと知って、ああそうなんだって呟いて納得して、じゃあ明日も頑張ろうなんてこのときの彼女は思えなかったんだ。芽生えるはずの希望が、悲壮の中に取り込まれた。


 納得して首を吊った。


 珍しいもんだよな。納得して自殺するなんて世の中の大抵の人間だったらその考えにすら至らないだろうな。でも彼女にとってはこれが普通だった。生きるのが嫌で、死ぬのが怖いけど死にたくて、それで自殺するならわかるが、納得してああそうかって快く自殺するなんて普通の人間じゃない。


 でも、それが彼女の普通だったんだ。


 普通普通って言うが、掘り下げてみると普通って奥が深いと思わないか? 社会にはある程度の規則やマナーが携わっているが、おそらくそれは普通とは呼べないだろう。決まり事を普通にしてしまったら……いやこれはやめておこう。とにかく、社会の規則っていう枠組みの普通とは別次元の普通が存在する。人それぞれ多種多様な人間に、人それぞれ多種多様な規則、多様性、ルールがある。性癖とか、癖とか、右利き左利きだって見える世界が変わる。世の中って意外と右利き用にできてるんだぜ? 今度ドアを左手で開けてみるといい。自分で認識している自分と、他人が認識している自分の差。これも普通という言葉を掘り下げる一つのキーワードだろう。


 彼女にとっては、今までのことが普通に見えたんだ。今まで他人を侮蔑したい気持ちがありながらも、実際悪いのは自分なのだと自身を軽蔑していた。故に、自分は人間として思ってはいけない感情を抱いているのだと自覚した。だが、そういう感情を抱いた自分が普通だったんだと知ったとき、「あ、そうだったんだ。私は真面目すぎたんだ。もっと手軽く生きていいんだ」って他人なんて気にせず思うがままに快く生きようと思うはずだ。なのに彼女は死んだ。


 死も普通、恐怖も普通。死ぬ前の恐ろしさ、逃れられない恐怖への怯え。それさえも普通と捉えてしまった。


 が、


 快く死んだにもかかわらず彼女はこの部屋にやってきた。


 本物の愚か者だった。


 ここに来て俺が「後悔があるんだろう?」って聞けば、彼女は言い淀んだ。なんでも死んでから、いろんなものを失ってから思ったんだと。自分の感情を押し殺してまで心の底から「これでいいんだ」って納得してたってことを。


 普通の人間じゃありえないが、彼女は俺たちの思う普通じゃない。そして、彼女にとってはそれが普通。今までも、嫌なことはすべて自分の思い通りに納得させてきて、ふと思いついた原因が死への弁解。自分のやるせなささえも納得させちゃえるんだって。驚きだよな。こんな人間が世界のどこかには確かに存在しているだなんて。彼女は、その自分の技術に気づいていながら、やめられなかったのか、それに縋っていたのかという疑問はもう知る由もないが。


 そいつは今もくすぶってる。自分を本当の意味で殺せていない。疑似的に殺しているだけだ。伝えたい伝えたいって気持ちが溢れているのにもかかわらず、それが嘘だと自分を本当に納得させることができる。でも結局、また思い出す。何かが起こった後でないと気づけないのが後悔というものだが、彼女はその程度が一般人とは違う。普通誰かに指摘されて気づくことも多いだろう? でも彼女は自分が死んで何もできなくなってからでないと気づけないような本物の愚か者だった。


 消費期限付きだったんだ。結局また思い出して、納得させてってきりがないったりゃありゃしない。


 だから、言いたいことを言え。伝えたいなら声に出せ。泣きたいなら泣け。大声で泣き喚け。人間なんてな、それで精一杯なんだよ。テレパシーなんてイルカでも蝙蝠でもないんだから使えねえんだよ。人の心をこそこそ読み取ろうとするな。


 無理なんだよ。


 他人を知るのなんてな、不可能なんだよ。経験と事象が繋がっただけなんだよ。中身なんか探ってんな、見るんじゃねえ。彼女を見ろ。正面から見てやれ。なぜそれができない。わかってるよ。しょうがないんだ。社会のしきたりを身に着けてしまってからは、他人に気を遣うことに慣れてしまっている。空気を読むことが大事になってしまっている。でも本当はその程度が高くなってしまっただけなんだ。程度の違いだ。そこに気づくんだ」


 そう言って仮面の男は俺の目の前にしゃがんだ。


「追おうとしない者に、手に入れたいものなんて訪れないだろう? 違うか?」


 俺の目前に迫った男の口からその言葉を聞いたとき、俺は自殺をする前何を考えて生きていたのだろうとふと思った。正直、彼の言う通りだった。ただ日常を過ごして、大学を卒業して、なんとなく社会で働き続けていくのだろうなと思っていた。だから、何かを目指そうとはしていなかった。当然幸運なんて偶然にも降ってくるはずはない。


「不屈の激情を持った奴にしか幸運は訪れないんだよ。私を、俺を騙してくれるなよ」


 そう言い残して俺の前から去ろうとする仮面の男は、哀愁を漂わせていた。仮面の裏の瞳が、潤んでいるような気さえしたのだ。



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