【多勢に無勢】
「比留間さん、可愛いと思わない?」
高山にそう言われたときは、正直胸を突かれた。前々から同じことを考えていたから悪い気はしなかったが、男だからか、当然百パーセント良い気がするはずもなかった。
「もし付き合うんなら比留間さんがいいなあ。おしとやかな感じで」
「変な妄想するなよ」
俺は返事をしながら平静を装った。手に握られているペットボトルの水が小刻みに揺れているのを見て、当惑する。何に怯えているんだ俺は――ペットボトルの蓋を開け、水を口に含んだ。喉仏の上下の動きがあからさまに感じ取られ、それと同時にのど越しの音が偉く大きな音で響いた。
「男ならさあ、やっぱちょっとは想像しちゃうよなあ。俺だけかな?」
空になったペットボトル内の水を認め、顎を引く。隣の高山は、自分の顎を触っていた。視線は上の方を向いており、何らかの空想に浸っているように見えた。
俺は高山から目を背けるように腕時計に目をやった。続けて講義室の扉に目をやる。扉が開く気配はなかった。
前の講義が押しているようで、教室の前のスペースで高山と教室が空くのを待っている今現在。ここは校舎の一階なので机や椅子が何台か置いてあるちょっと広いスペースなのだが、もうすでに席は満席だった。近くに置いてあった丈が二メートルぐらいの観葉植物の前に立ち、俺と高山は話していた。今から五分前ですら人で溢れていたのだが、遅れてきたであろう生徒たちも集まってきたため、ガヤガヤとした声は一層雑音を増していた。
「高山はサークル入ってるんだっけ?」
「ん? 俺か? 俺は一応スポーツのサークルに入ってるよ。まあ、入ってるって言っても新歓行って、最初の二、三回行っただけでもう行ってないけど。偶に飲み会があると行くんだけどねー」
高山はひとりで笑いながら、スマートフォンを操作していた。
新歓か、と大学一年の頃を思い出す。あの初々しい時代はあっという間に過ぎ去って行った。そんなのこれに限った話ではないが、どうやらあの頃の生活を羨んでいるようだ。いや、違うな。生活じゃない。生活なんてあの頃も今もさほど変わりがない。講義を受けて、家に帰って、休みの日はバイトに明け暮れる。遊びに使うための金を稼ぐのならまだ頑張れるのだが、生きるために金を稼がなければならないというのはどうにもやる気が損なわれる。
生活とかそんなんじゃなくて、初々しいとか、ルーキーだとか、初心者とか、この先の未来に希望を見ていられる「肩書」が羨ましいだけだった。
今では大学の二年も中盤を過ぎ、夏休み気分とはちょうどおさらばしていたところだった。これで大学三年にもなれば、就職活動が始まり、大学生という若年の老後は終わりを告げる。大学一年の頃は将来を見据えて入学し、まだ就職までに猶予があった。しかし、もう言い訳が効かないところまで来ているのだ。
入学当時が懐かしく思える。学食に、大きな建物。小学、中学、高校と今までの学生生活には無かったものがたくさん増えて、高校までのような縛りもほぼなくなった。不確かな未来に期待し、何かいいことがあるかもと心躍らせながら入学したあの頃が懐かしかった。
「もう他のサークルには入りたいとは思わないの?」
「強いて言えば、比留間さんと同じサークルに入りたいな。あの子サークル入ってんのかな?」
「いや、入ってないんじゃない」
考えるよりも思うよりも先に俺の口は走っていた。
高山に「ほら」と言われて目線の先を見ると、校舎の壁を背に比留間さんが立っていた。デニムのワイドパンツにカーキ色の猫柄の入ったTシャツ。長めの白い赤い柄の入ったソックスが見えていた。髪の毛は明るい茶色に染められていて、太陽に当たったらより煌びやかに揺れそうな勢いだった。スマートフォンを手にしている姿は、どこにでもいそうな普通の生徒、いや、女の子だった。
「やっぱ可愛いなあ。なんか美人にも見えるんだけど、どっちかって言うと可愛いんだよなあ。抱きしめたくなる」
「それを現実にしたら犯罪な。相手が嫌がってるならだけど」
「それな!」と高山は声を高くした。「セクハラの基準てわかんないから、不用意にキスとかできないよな。酔った勢いとかで!」
「高山の場合は不用意にじゃなくて、故意に、だな」
高山は、「え? 恋?」なんてふざけたことを言っている。
そんなくだらない茶番をしている間に、前の講義が終わったようで、メガネの男子生徒が扉を開け、出てきた。「よし、行くか」高山は足元に下ろしていたリュックを背負っている。俺は無造作に袖をまくって歩き出そうとした。
「あれ、祐って腕にそんなでかい傷あったっけ?」
俺は咄嗟にまくっていた袖を戻した。
「昔、火傷しちゃってさ」
「そういうレベルだったか今の?」高山はもう一度見せろと言わんばかりに俺の袖を無理矢理まくろうとしてきた。柔道とか格闘技のような手の出し合いが始まる。俺は必死に高山の手を掻い潜ろうとした。腕を掴まれしかたなく袖を下に引っ張っていた。そのときの俺の視線は高山でも自分の袖でもなかった。袖を引っ張りながら、なぜか比留間さんを見ていた。
さっきまで一人で立っていたのだが、仲の良い友人だろうか、モデル体型の生徒と今は話している。さっき見た姿と重なっている部分もあれば、友人との掛け合いの動作の中に、見てはいけないものを垣間見たような気分にもさせられた。
「祐も比留間さんに惚れたか?」見ると、いつの間にか俺の袖をつかむのをやめていたようだ、高山がすぐ隣に直立している。諦めたようだった。重みが無くなっても尚、腕を見られまいとしっかりと袖と手首を握りながら立ち尽くす俺を見兼ねたのか、高山が俺の前を通り過ぎていった。
「ばか言え」俺は数メートル先の高山の背中を小走りで追う。隣に並んで、足並みをそろえた。
「俺のライバルになってもいいんだぜ? 祐君?」
「なるか阿呆」
どこかうれしくも見抜かれたような気がし、気づけば俺は必死に自分を隠そうとしていた。
教室に入ると、一気に淀んだ空気を感じた。空調がないのか風通しが悪いのかは知らないが、人間が密集するとこんな匂いになるんだろうなと、そんな憶測が反映されたような空気だった。おまけに室温も高い。人間は集まるだけで暑かった。
席は大きく分けて縦に三列あるうちの真ん中の列にいつも座っていた。真ん中の列のうち、一番右側が空いていたので座った。ちょうど前と横が通路になっているので居心地がいいだろうと踏んでの判断だった。俺の左隣には、高山が座っている。
「比留間さんあそこに座ってんな」座るなり高山は饒舌になった。顎をしゃくって居場所を示したが無視した。
「お前、ちょうど比留間さんが眺められるところに座ったんだろ?」
「違うわ。もう講義始まってるから静かにしなさい」
そう言って高山との間に教材で壁を作った。高山がにやにやしているのが横眼にちらっと見えた。
教授は五分前にもかかわらず、すでに講義を始めようとしていた。そして始まってしまうと、後方でちらほら誰かがしゃべっている声を除けは、マイクの響く音以外静かな空間となった。
勝手に講義が進む中、俺は昼間の授業を思い出していた。今は五限目だから、二コマ前の時間。十二時前くらい。心理学関連の相談援助の演習ということで、基礎的な技法を教えられた。実践してみようということで、三人のグループに分かれる。教授がグループ分けを教えてくれるらしかった。
俺の名前が呼ばれる。
ほぼ知らない名前ばかりの授業だったが、唯一、二人の名前だけは知っていた。
このクラスで知っている生徒の一人は木島という女生徒。笑顔が絶えなくて、口上手。とりあえず話していると話題が尽きない。おまけに一つひとつの話にちゃんと熱がこもっているから、話をしていても悪い気がしない。
性格は、嫌いじゃないタイプだった。大学に入った頃はよく話していたと思う。故意にこそ話しに行かないものの、偶にすれ違うと「あ、水沢くんじゃん!」と声をかけてくれたり、グループワークになると話を振ってくれたりする。話は振ってくれなくてよかったのだが。
そしてもう一人は。
「比留間さーん」
うわ、マジか。と思いつつも、絶対意識しすぎてやりづらくなるだろうと瞬時に悟る。木島さん一緒になってくれないかなと思っていたら、
「木島さーん」
おお、マジか。
と、久しぶりに自分の予想が当たったので、現実味がないまま演習は始まった。
席の移動が始まる。教授が集まる場所を指定してくれたので、皆そこに移動を始めていた。
この教室は三人座れる横長の机が並んでいるのだが、三人ともそこに座るのも気持ち悪いだろうと思った。木島さんと比留間さんが一つ空けて長机に座り、その一つ後ろの机の真ん中に俺は座った。
教授が次々に話を進めていく。それに耳を傾けなければならないことは重々承知していたつもりだったが、教授の言葉は、頭の中に入らないでそのまま抜けて行ってしまう。
斜め前に比留間さんが座っている。顔は見えない。視線がだんだん落ちてきて、臀部に目が行ってしまう。殺したかったね、自分を。
そんなどうでもいい一人二役の掛け合いを繰り返していると、早速やってみようということで実践に入った。
相談者と支援者に分かれる。
俺が支援者役で、比留間さんが相談者役。木島さんはそれを見ている役で、フィードバックの際に感じたことを共有する。
始まってしまえば早いものだった。四分間相談者役の人が作った設定に沿いながら支援者の真似事をする。支援者は援助者ではなくあくまで支援者なので、解決には導いてはいけないらしい。最終的には相談者自身が決断して進んでいかなければならない道なので、その体で相談援助の真似事は始まる。
躁気味の俺は、思ったことをそのまま口にする。比留間さんも話を合わせてくれているようで、「今はどちらに住んでいらっしゃるんですか?」と聞くと、「千葉に」と答えた。
元々口下手な俺なので、「ああ」とか「そうなんですね」とか、相手の語尾を繰り返しながら時間を稼いで意識的に言葉を選んでいた。嘘の作り話はそこそこ円滑に進んでいくのだが、そういう中でもちゃんと気に留まるところが見えてくる。不思議だった。必死になりつつも、余計な点が見えてくる。
比留間さんの視線が泳いでいる。何かを思い出すときに視線が上に向くというのは知っていたが、結構多いな、と思った。それだけ彼女も頭を回転させているのだろうと思いながらも、たびたび俺と目を合わせてくれると、「ああ、やっぱりかわいい」と、この場にはそぐわないはずの感情を抱いてしまった。
時間はフィードバックに入る。木島さんは俺の言葉を思い出しながら、「これはできてたね」「これはもうちょっと」なんて言いながらも、お世辞で「まあまあ良かったと思うよ」と褒めてくれた。比留間さんも「話しやすかった」と言ってくれた。俺が間髪を入れずに「嘘だあ」と反論すると、比留間さんは、「え」と言葉を詰まらせ、代わりに木島さんが、「見てても結構いい感じだったけどね」と答えてくれた。
自分の意思ではなく、あくまで無意識に自分がどう思われているかを確認してしまうなんて、俺は比留間さんのことをそんなにも意識しているのだろうか。ほとんど話したこともないのに?
コメントシートに記入するため、自分の席へと戻った。
すれ違い様。揺れる茶髪。ぷっくり膨らむ柔らかそうな頬。膨らんだ胸。一瞬だけ見えただけの情報が、俺を人間の中で唯一愚かな道へと誘う。やっぱり殺したくなる。
コミュニケーションの真偽について軽く書いて、さて帰ろうと思ったとき。比留間さんはすでに教室から退出済みだった。何を思うでもなく、いつも通り廊下に出て階段を下った俺だった。下り切った後で、「これ何の意味があったんだ?」と授業内容を訝った。
脳内の出来事の再生から我に返って教授の顔を見ると、無頓着な顔してるなあと思い、目頭を擦る。考え事をしているとついつい眠くなってしまうのは癖のようである。何も考えずにただボーっと座っていれば、講義なんて考え事をしているときの半分の速さで過ぎて行ってしまう。それだけ考えることは燃費が悪いのだと俺は結論付けている。
机に左肘をついて頬を掌の上に乗せる。右手でペンをいじりながら、右斜め前にいる比留間さんの背中が目に入った。視線は当然左から右へ、下へと移動する。
無性に苦しくなった。
自分を戒めたいと思った訳ではない。もっと答えは単純だ。テレビでいいドラマを見て感動したからとか、友達が珍しく優しかったからとか、自分が惨めに思えたからとか、苦しくなる理由なんて単純なものだ。生活が苦しい。これだって、たった六文字で表現できる。でも、深く読み取れる。この人の生活はどんな生活だったのだろうかと、想像を膨らませることができる。
今の俺を五文字で表現する。
きみが苦しい。
こういうときの衝動は、何者にも止められないのだと悟った。自分自身でさえ。
気づいたら、右手に握られていたはずのペンは、掌から消えていた。
音はそんなに大きくなかったと思う。高山は、俺との間に立つ教材の隙間から怪訝そうに見つめた。右に視線を逸らすと、通路の向こう側の男子生徒の目が見開いていた。
徐に俺は右手に視線を移すと、右手の側面に鼻血が付いていた。恐る恐る指先で鼻を触るが、血はついていない。おっかしーなーと思いながら無造作だろう、顎の下を掻いたら、右の首辺りに電流が流れたような激痛としびれが走った。短く勢いのある息が漏れる。声が出なかったのは偶然だと思う。ふいに比留間さんと目が合ったからだ。
恥ずかしかった。のか? 気づいたら、教室のドアを押している俺がいた。その勢いで、フロアを走って、校舎の階段を駆け上った。どうした……。どうしたんだ俺。何が起きた……。え? わかんない。でも、この衝動は止められそうにない。
五階までひたすらに階段を駆け上がった。どこに向かっているんだ俺は。五階っていうと……ああ。渡り廊下か。外に面したあそこね。なんとなくわかったよ。自身の行動と解離された意識だけが頭の中で、回る、回る。
校舎と校舎を繋ぐ十メートル程度の連絡通路という名の渡り廊下。手すりはそんなに高くない。ステンレスだっけ?
五階の廊下を突っ走る。
渡り廊下への重い扉を引くと、涼しい風が入って来た。
走って。
一メートル。
三メートル。
五メートル。
一寸躊躇う、揺らぐ。
七メートル。
八メートル。
柵に右手を掛けた。
右足が勢いよくその上に乗る。左脚も遅れて乗る。
蛙のような態勢で眺めた、というよりは、一瞬だけ映ったフラッシュアニメのような見下ろされたキャンパス内の光景。迷いようはなかった。次に行われる動作は、蛙が飛び跳ねるように両膝を伸ばすこと。
バスケでシュートを放つように一気に膝を伸ばした。
まだ落下は始まっていない。なのに、俺のおつむは数秒先の未来を鮮明に映した。
浮遊感。怯え。迫る恐怖に顔が引きつった。
身体が落下し始める。
目を背けようと、隣の校舎に向かって背を向けるようにして身をよじった。
見てはいけないものを見た。
比留間さんが俺の足首を握ろうとしていた。
安定しない浮遊感を背に、空中で体をどうにか動かし、隣の校舎の壁に身を押し付ける。
一緒に落ちる彼女を手繰り寄せようと身体を丸める。
腹筋が足りない。攣りそう。身体が固いんだな。
届かない。
右半身が校舎の壁との摩擦で焼けるように熱い。
――もう、落ちる。
「あ」
比留間さんの表情が見えた。
なんで泣いてんの――。
音と光が置き去りにされた。