いつも尻拭いをする女
技術部門の機材スペックは、この広大な産業パークの中でも間違いなくトップクラスだった。コピー室やカフェスペースに置かれた消耗品に至るまで、見事にハイエンドな品で統一されている。
だが、許嵐枝が執務エリアを静かに一周するにつれ、その瞳の底にある冷たさは容赦なく研ぎ澄まされていった。
シュレッダーの透明窓には紙屑が限界まで押し込まれ、刃先には粘着テープの切れ端が噛み込んでいる。警告ランプが点滅しているというのに、通りかかる社員は誰一人として目を向けようとしない。エスプレッソマシンのカス受けからは固まったコーヒーかすがあふれ、ドリップトレイには乾きかけた茶色いコーヒーの染みがこびりついている。
さらに二台のネットワークプリンターの給紙トレイを開ければ、残っているのはどれも底をつきかけた二、三枚の紙だけ。今にも紙送りローラーが巻き込んでジャムを起こしそうな惨状だ。
機材の性能が悪いのではない。そこにいる人間たちが、実に見事な阿吽の呼吸で「狡賢く立ち回っている」のだ。
紙詰まりを起こしやすく、手が汚れ、腰を屈めて根気を要する後片付けの類を、誰もが知らん顔で「最後の一歩」のまま放置している。
そしてその「最後の一歩」の終着点は、例外なくフロアの片隅――顧知微の席へと向かっていた。
「知微ちゃん、コーヒーマシンがエラー吐いちゃってさ。ついでに中身捨ててくれない? こっち今レポートの提出で手一杯で!」
「知微ちゃん、カラープリンターの紙切れた! 倉庫から厚紙持ってきて補充しといて!」
声がかかるたび、顧知微は手元で整理していた伝票を置き、都合よく使われていることへの苛立ちや言い訳など微塵も見せず、澄んだ穏やかな瞳で「わかりました」と応じる。そして袖をまくり、誰もが引っ込めた面倒な役目をその両手で引き受けるのだ。
それは、組織の中で完全にシステム化され、日常と化した陰湿なソフトいじめだった。
それなのに、顧知微の表情はどこまでも白紙のように屈託がない。まるでそれが、自分に課せられた当然の職務であるとでも信じ込んでいるかのように。
二メートルほど離れた柱の影に立つ許嵐枝の指先が、手のひらに深く食い込む。胸の奥底から、鋭利な吐き気と焦燥がせり上がってきた。
これが、あの顧家の令嬢だと?
二十数年もの間、何不自由ない贅沢の中で甘やかされて育ったお嬢様が、子会社に潜り込んで世間知らずの人生経験ごっこ。そのうえ理不尽に耐え忍ぶことを「下積みの修行」と勘違いしているというのか。何が悲しくてそんな純白で無垢な顔ができる? なぜ誰も彼もに都合のいいカモ扱いされながら、そんな平然とした澄ました瞳をしていられるのだ。
その、何事にも動じず、他人に譲ることを当然のように受け入れる姿勢が――幼い頃から生活費のために一円単位で爪に火を灯し、損得を計算しながら生きてきた許嵐枝の目には、吐き気がするほど偽善的で、目障りなものに映った。
「そんなに人の仕事を引き受けるのが好きなら、特大のをくれてやるわ」
踵を返した許嵐枝は、顧知微の元へは向かわず、業務支援チームのリーダーである陳明のデスク前へと真っ直ぐ歩を進めた。
コツン、と床を打つハイヒールの音がピタリと止まる。何気なく顔を上げた陳明は、冷え切った許嵐枝の眼差しを正面から受け止め、全身の筋肉を硬直させた。慌てて愛想笑いを浮かべながら立ち上がる。
「しゅ、許マネージャー……何かご用でしょうか?」
「あなたのチームのデータアーカイブは、昔からそんなふうに行き当たりばったりで放置されているの?」
許嵐枝の声は決して荒らげられてはいなかったが、平板で冷淡だった。その氷のようなトーンに、周囲のキーボードを叩く音が気まずそうに小さくなっていく。
「えっ? それは……」陳明の額から一瞬で冷や汗が噴き出した。
「メインデータベースはこれまでに三度のアーキテクチャ移行を行っているはずよ。にもかかわらず、旧システムから切り捨てられた過去三年分の倉庫管理および越境決済ログが、未だに未検証のデータプールに放置されたままになっているわ」許嵐枝は暗号化されたUSBメモリを、机の上へ軽く放り出した。コトリ、と乾いた音が落ちる。「今日の終業時間までに、過去三年分における全データのクレンジングを完了させなさい。フォーマットは現行のデータディクショナリに完全に準拠させること。一件でも帳尻が合わないデータが残っていたら、今月のあなたたちのチームの評価はすべて見直します」
「きょ、今日の終業までに、ですか!?」陳明の顔がみるみる青ざめた。それは三年間も放置され、誰もが無責任に弄り回したせいで、重複入力やコードの競合、欠損データがゴミ溜めのように積み上がった底なしの負の遺産だ。熟練のデータアナリストが三人がかりで取り組んだところで、一週間あっても終わるか怪しい代物だった。
「何か問題でも?」許嵐枝はわずかに首を傾げ、目尻に刃のようなプレッシャーを滲ませる。
「い、いえ……滅相もありません! 必ず終わらせます!」陳明は奥歯を噛み締め、人を寄せ付けぬ冷気を纏って個室へと戻っていく許嵐枝の後ろ姿を見送った。そしてすぐさま首を巡らせ、フロア全体を値踏みするように見渡すと――給湯室から手を拭きながら出てきたばかりの顧知微に、その視線を迷いなく定めた。
「知微ちゃん! ちょっと来てくれ、命の恩人になってくれ!」
席に着く間すら与えられず、知微の手のひらには氷のように冷たいUSBメモリが押し付けられていた。
冷や汗を拭う陳明から「コアスキルの実践的なトレーニング」という体裁のいい言い訳を一通り聞かされた知微は、嫌な顔一つせず、静かに小さく頷いてみせた。
「わかりました、リーダー。終業までに提出しますね」
狭いパーテーションの席に戻ると、冷たいモニターの光が彼女の端正な横顔を照らし出す。
データベースを展開した瞬間、画面を埋め尽くす文字化けの嵐、途切れた文字列、マイナス表記の在庫レコード――歴戦のエンジニアですら眩暈を覚えるような惨状が広がっていた。けれど、知微はため息一つ吐かず、愚痴をこぼすこともなかった。
引き出しから取り出したミントタブレットを一粒口に放り込むと、彼女はグループ基幹システムの業務コード辞書を淡々と呼び出した。
彼女は決して、いいように転がされるだけの無能なお嬢様ではない。素性を隠して現場に身を投じたのは、他ならぬ自分自身の意志だ。そして泥臭い雑務に揉まれてきたからこそ、彼女は誰よりも「現場のヒューマンエラーがシステムのどこに綻びを生むのか」を皮膚感覚で理解していた。
キーボードを叩く音が、規則正しく、淀みのないリズムを刻み始める。
エリート教育の賜物である数学的センスに加え、最新のAIツールを手足のように操り、膨大な異常値を瞬時にフィルタリングしていく――。
時計の針が、午後六時を指した。
退勤打刻を済ませた社員たちが三々五々引き揚げていき、オフィスフロアの照明が次々と落ちていく。
静まり返ったマネージャールームのドアが、礼儀正しい三度のノックに揺れた。
「どうぞ」
許嵐枝はノートPCを閉じ、冷淡な面持ちで顔を上げた。彼女の頭の中にあったのは、目を充血させ、疲労困憊でプライドを打ち砕かれ、泣きそうな顔で締め切りの延長を乞うてくる顧知微の姿だった。
だが、扉を開けて入ってきた少女は――鉛筆で無造作に長い髪を後ろにまとめ、数時間にわたる極限の集中による微かな赤みを差してはいたものの、その瞳には信じられないほどの輝きと生気が満ち満ちていた。
整然とプリントアウトされ、時系列と業務ラインごとに綺麗にファイリングされた最終クレンジングレポートだけでなく、その腕には薄型のノートPCまで抱えられている。
「許マネージャー、過去三年分の履歴データのクレンジングおよび照合がすべて完了しました。フォーマットは現行データハブの最新基準に合わせてあります」知微は両手で書類を広々としたデスクの上へ丁寧に差し出した。
許嵐枝は眉をピクリと動かし、無言のままページをめくる。
整然と並ぶ美しいデータ。寸分の狂いもないフィールドの定義。それどころか、旧システムの中に彼女が意図的に残しておいた幾つかのトラップめいた不整合コードまでもが、正確無比に洗い出され、完璧に修正されていた。
……エリート教育を受けてきた人間が、AIの初動スクリーニングを組み合わせれば、これほどの速度を叩き出すことも不可能ではないということか。
喉元が微かに引き攣る。用意していた嘲笑も叱責も、見えない綿の壁に吸い込まれたかのように、喉の奥で完全にせき止められてしまった。
許嵐枝が沈黙に囚われている隙に、知微は自分のノートPCをくるりと回転させ、机越しに彼女の前へと差し出した。
「許マネージャー、今日いただいたこの不整合データ……本当に素晴らしかったです!」
知微は少し身を乗り出し、その澄み切った瞳を向けた。そこには理不尽を押し付けられた恨みなど爪の垢ほどもなく、純粋で熱烈な憧れと知的好奇心だけが、見つめる者を射竦めるほど眩しく宿っていた。
「データを精査していて気づいたんです。第2バッチと第5バッチの異常は入力ミスなんかじゃなくて、当時のインターフェース設計に存在していた脆弱性が原因ですよね? マネージャーは過去のアーキテクチャの欠陥を一目で見抜いて、あえてこの極端なやり方で私たちに根本的な見直しを迫ってくださったんですよね!? 私なりにその先をロジックで追ってみたんですが、どうしてもマネージャーが設計されたようなスマートな冗長化に届かなくて……ここ、どんな設計思想で組まれているのか教えていただけませんか?」
机の端に手を置き、瞬きもせずに見つめてくる知微。その熱量は、あまりにも真っ直ぐで嘘がなかった。
オフィスの中に、息の詰まるような静寂が落ちる。
許嵐枝はハイバックチェアの上で石のように固まり、目の前で無邪気に教えを請うてくるその顔を見つめながら、猛烈な眩暈を覚えていた。
――私は、あんたを追い詰めるためにやったのだ。プライドをずたずたに引き裂き、絶望させて温室へと逃げ帰らせるために!
部署で最も誰も触りたがらない毒を投げつけたというのに、この娘はすべての信管を鮮やかに解除したばかりか、自分を「部下の成長を願って敢えて過酷な試練を与える、深謀遠慮の師」だと本気で信じ込んでいるというのか!?
「あなた……」許嵐枝の唇が微かに震えた。
「時間がない」と冷たく突き放して追い出すつもりだった。だが、不純物の欠片もない、知の渇望に満ちたその澄んだ瞳を正面から見据えてしまった瞬間――超一流のアーキテクトとして骨の髄まで染み付いた職人としての本能が、彼女の中の悪意をねじ伏せてしまった。
「……座りなさい」
長い沈黙の末、許嵐枝の唇の隙間から絞り出されたのは、低く硬いその一言だった。無表情のままノートPCを手元に引き寄せると、白く長い指先がトラックパッドを鋭く叩く。「画面を出しなさい。よく見ておくことね、一度しか言わないから」
誰もいない夜のマネージャールーム。閉ざされたブラインドが、外の暗闇を完璧に遮断している。
冷たいペンダントライトの光の下、周到に仕掛けられたはずの復讐の罠は――氷のように冷徹なエリート上司が、苦々しい表情のまま、部下に付き合って丸々三十分もみっちりと「特別講義」を施すという、奇妙な時間へと塗り替えられていた。
そしてデスクの向かい側では、知微がノートを走らせながら、時折ペンを止め、微かに結ばれた許嵐枝の薄い唇と凛とした美しい横顔を盗み見ていた。その瞳の奥に、小さく甘い微熱を宿しながら。




