新任
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コピー機の低く規則正しい駆動音が、狭いスペースに重く響いている。
顧知微はうつむいたまま、手慣れた指つきでパネルをタップした。両面印刷、中綴じ製本――。排紙トレイに吐き出されていく、まだほんのり温かい紙の束。あたりには、独特なトナーの匂いがかすかに漂っていた。
新卒の平社員としてこの会社に潜り込んで、かれこれ半年。
ここは巨大コングロマリット「顧氏」グループ傘下で、スマート物流や産業IoTのインキュベーションを手がける子会社だ。
広大で複雑怪奇なグループの版図にあって、もっともスピード感が求められ、査定の容赦のなさでも群を抜く最前線。
くたびれた綿シャツに履き古したスニーカーを合わせ、フロアの隅っこで黙々と伝票を仕分けているこの地味な娘が――グループの頂点と同じ苗字を戸籍に刻んでいるなんて、社内の人間は誰ひとりとして知らない。
刷り上がったばかりの仕様書を揃えようと手を伸ばした、そのときだった。
背後のガラス扉が、スーッと静かにスライドした。
帯電防止カーペットを踏みしめる、ヒールの硬い音。
決して大きくはないけれど、まるでメトロノームみたいに正確で、規則正しいリズムを刻んでいる。
知微は思わず、振り返った。
――そこに立っていたのは、すらりと背の高い女性だった。
無駄のないシャープなカッティングのチャコールグレーのトレンチコート。襟元から覗くのは、皺ひとつない真っ白なシルクシャツで、ボタンは喉仏の真下まできっちり留められている。
片手には革のブリーフケース、もう一方の手には下ろしたてとおぼしき濃紺の管理職用IDカード。きれいに夜会巻きでまとめられた黒髪が、ナイフのように研ぎ澄まされたフェイスラインを惜しげもなくさらけ出していた。
高いブラインドの隙間から差し込む光が、すっと通った鼻梁と眉の骨を撫でて、どこか冷たい刃物めいた質感を帯びている。
知微の指先が、空中でピタリと止まった。
名門一族の社交場や派手なパーティーで、非の打ち所のない令嬢やエリートたちの姿なら、それこそ嫌というほど見てきた。でも、目の前の女性が纏っている空気は、そういうお高くとまった気品や傲慢さとはまるで違っていた。
過酷な学術の頂と、極限まで突き詰められたロジックの海をくぐり抜けてきた者だけが持つ、絶対的なプレッシャー。永久凍土みたいに人を寄せつけない瞳――なのに、キュッと切れ上がった目尻には、禁欲的でありながらどこか危険な色香が宿っている。
知微は、完全に息を呑んで見惚れていた。
プリンターが「ピロッ」と無機質な完了音を鳴らして止まったけれど、そんなの耳に入りもしない。吸い寄せられるように、ただその姿を目で追っていた。
トクン、と心臓が跳ねる。
――その無防備すぎる視線に気づいたのだろうか。
ふわりとコートの裾を翻しかけた女性が、ふいに足を止めた。
そして何の前触れもなく、知微のほうへと視線を滑らせてきた。
……息が止まりそうなくらい、冷たい瞳だった。
底知れない闇みたいに真っ黒で、冷え切っている。なのに、その奥のほうには、すべてを焼き尽くしそうな生々しい感情が渦を巻いていた。
上司が新入りを見下すような、そんな生ぬるいものじゃない。暗闇の中で何万回も研ぎ澄まされてきたメスみたいに――知微の目鼻立ち、立ち姿、そして世間知らずで澄みきった瞳の奥までを、ミリ単位でじっくり解剖していくような眼差し。
値踏み、詮索、押し殺された冷気。そして知微には到底読み解けない、深い悪意と皮肉。
知微の呼吸が浅くなった。全身の血が、氷の刃を突きつけられたみたいに一瞬で凍りついていく。
普通の新人なら、こんな目で見下ろされたら三秒と持たずに青ざめて縮こまっていただろう。
だけど、知微は手にした仕様書の端をぎゅっと握りしめたまま、その場から動けずにいた。
怖くて目を逸らすどころか、胸の奥をチクッと熱い針で刺されたような感覚が走る。
氷みたいに冷たい横顔と、底なしの暗い瞳――それが、理屈をぜんぶ飛び越えて、頭の奥深くに焼きついて離れなくなっていた。
「ちょっと、知微ちゃん! 何ぼーっとしてんの!」
張り詰めた空気を破るように、切羽詰まった声が飛んできた。
総務の王さんが、分厚い資産棚卸しシートの束を抱えてバタバタと駆け寄ってくると、そのまま知微の袖をぐいっと引っ張った。
「ほら早く早く! もうすぐ第2会議室で合同ミーティングが始まっちゃうのよ! プロジェクターの変換プラグはまた行方不明だし、先月分の経費も原本領収書のバーコードが読めないって経理に突き返されちゃうし! 悪いんだけど保管庫から原本引っ張り出して、貼り直してきて!」
「あ、はい! すぐやります」
知微はハッと我に返り、刷り上がった仕様書を手際よくワゴンへ積み込むと、王さんの腕から重そうな書類を引き取った。
「ついでにシュレッダーのゴミ箱もお願い! 刃にテープが噛んじゃって完全に詰まってるのよ!」
王さんは額の汗を拭いながら早口でまくしたて、ふと声を潜めると、ガラス張りの通路の先を目で指した。
「……見た? さっき歩いてった人。本社が高い金積んで引き抜いてきたっていう技術責任者の許マネージャーよ。許嵐枝さん。腕は天才的らしいけど、性格は氷みたいに冷たいんですって。今日が初出勤よ。あたしたちみたいな下っ端は、目をつけられないように息を殺して過ごさなきゃ!」
「……わかりました」
知微は小さく微笑んで相槌を打つと、袖をまくってシュレッダーのダストボックスを外すためにしゃがみ込んだ。
ざらざらとした紙屑が手のひらに張りつく。
けれど彼女の視線は、無意識のうちに――あのすりガラスで仕切られた個室オフィスへと向いていた。
許嵐枝。
心の中で、その名前をそっと転がしてみる。触れた機械の冷たさに、じわりと名状しがたい熱が滲んでいくのを感じていた。
◇
フロアの最奥にある、マネージャールーム。
隙間なく下ろされたブラインドが、執務エリアのざわめきを完全に遮断している。室内には、新調されたばかりのデスクとレザーチェア特有の、真新しい乾いた匂いが満ちていた。
許嵐枝は、手にしたIDカードをデスクの上に放り投げた。
PCの電源すら入れず、彼女は窓辺へと歩み寄り、ブラインドの狭いスリットからフロアを見下ろす。
その視線の先――。
床にしゃがみ込んで、散らばった紙屑をせっせと拾い集めている、あの華奢な後ろ姿に寸分の狂いもなく向けられていた。
顧知微。
――顧家のお嬢様。
生まれた瞬間から顧家のあらゆる富を享受して、エスカレーター式の名門校に通い、贅沢に溺れる生活を当たり前に与えられてきた、偽りの娘。
嵐枝は静かに目を閉じた。
身体の脇にだらりと下げた指先が無意識に握りしめられ、関節が白く浮き上がる。
彼女と初めて顔を合わせる瞬間なんて、これまでに何百パターンもシミュレーションしてきた。
上流階級の気取ったパーティーか、デパートのVIPラウンジか。それとも、街を見下ろすグループ本社の最上階オフィスか。
水仕事ひとつしたことのないすべすべの手で、ふんぞり返った高飛車な令嬢面をして現れるのだと――ずっと、そう思っていた。
なのに、現実はまるでタチの悪い冗談だ。
彼女は本当に素性を隠し、安物のシャツに身を包んで、埃っぽくて息が詰まる子会社の片隅で、パシリや雑用、領収書の糊付けなんていう泥臭い仕事に甘んじていたのだ。
さっき、コピー室の前で知微が振り返った瞬間――。
嵐枝の心の奥底に飼い慣らしていた獰猛な怪物が、今にも檻をぶち破って飛び出しかけた。
あまりにも、綺麗な顔をしていた。
どこまでも澄みきっていて、世の濁りなんて何ひとつ知らない、無垢で真っ直ぐな瞳。
あんな顔をした女が。
本来なら、自分が手にするはずだった人生を生きてきたのだ。
嵐枝は革張りのチェアに身体を沈め、冷え切った背中を背もたれに預けた。
モニターの真っ黒な画面に映る、疲れ果てた自分の冷たい顔を見つめ、自嘲気味に口元を歪める。
わかっている。
取り違えが起きたとき、知微はまだ産着に包まれた赤ん坊にすぎなかった。こんな取り違えについて、彼女自身に落ち度なんて何ひとつないことくらい。
だけど――だから何だというのだ。どんな顔をして、のうのうと生きている?
「……身の程知らずに下積みの苦労ごっこを楽しみたいなら、好きにすればいいわ」
嵐枝の細い指先が、冷え切ったキーボードをなぞる。
その瞳の奥で、温度のない吹雪が音もなく吹き荒れた。
「なら私は、この場所のルールを使って、あんたのプライドを一枚ずつ剥ぎ取ってあげる。……いつまで耐えられるかしらね。泣きべそをかいてあの温室に逃げ帰るまで、せいぜい抗ってみせなさい」
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2026年にもなって、なんでこんなベタな話を書く人がいるんだって思うかもしれません。
私です!
こういうベタなのが好きです!!




