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あなたのすべてを手に入れたい【百合】令嬢のすべてが欲しい  作者: 予也木


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13/13

口紅

 グループ本社のパーティーは、ハイテクパーク内で最も豪華なインターコンチネンタルホテルの大宴会場で開催されていた。

 巨大なクリスタルシャンデリアがきらびやかな光の粒を降り注ぎ、華やかなドレスとスーツが交錯する中、杯を交わす音が絶え間なく響いている。空気中には高級シャンパンと芳醇な香水の、どこか微酔を帯びた香りが漂っていた。

 顧知微は目立たない黒のシンプルなカクテルドレスを身にまとい、会場の最も端にあるデザートテーブルの傍らに立ち、手元にあるほとんど口をつけていないスパークリングワインのグラスを抱えていた。時折グラスを持ち上げて飲むふりをしてみせるものの、喉を通ることは一度としてなかった。

 周囲は熱気に満ち、各部署の挨拶や談笑が耳を打っていたが、知微の視線は最初から最後まで、会場の中央に降り注ぐスポットライトの直下に釘付けになっていた。

 今夜の許嵐枝の美しさは、息を呑むほどだった。

 いつもの冷たく硬質なビジネススーツを脱ぎ捨て、深いドレープの効いたダークグリーンのベルベットドレスを纏っている。深く切れ込んだVネックと絞られたウエストライン。羽織ったアイボリーのカシミアショールからは、すっきりと伸びた白磁のうなじと冷涼で美しい鎖骨が覗いていた。普段は化粧気のない涼やかな顔立ちに、今夜は繊細なアイラインと、クラシックで冷艶な深紅のリップが引かれている。その姿は、研ぎ澄まされた刃のように美しく、近寄りがたいほど冷ややかだった。

 栄転以来、許嵐枝はその圧倒的な技術的発言力と果断な手腕で、瞬く間に本社での足場を固めていた。今も許嵐枝の周りには数名のサプライヤーや投資家が集まり、お世辞と乾杯の声が絶えなかった。

 顧知微は、ただ遠くから彼女を見つめていた。

 名だたる顔ぶれを相手に、冷ややかな表情を崩さず完璧に受け流す姿。わずかに顎を上げ、シャンパンに唇を寄せるその気品ある仕草。見つめるたび、胸の奥がきゅっと締めつけられ、甘い疼きとともに名状しがたい痛みが滲んでいく。

 同じ広間にいて、同じ喧騒の空気を吸っているというのに、二人の間にはまるで光年単位の距離が横たわっているかのようだった。あの社内チャットで「相手が入力中……」と一度だけ点滅して以来、二人の間には何の接点も生まれていなかった。知微は思っていた。許嵐枝はとうに雲の上の生活に馴染み、自分のような取るに足らない末端の事務員のことなど、綺麗さっぱり忘れてしまったのだと。

 数人の役員が挨拶に歩み寄ろうとしたその合間、許嵐枝はわずかに首を傾げ、隣の秘書に短く耳打ちした。そして、照明の陰になった人波の切れ目を縫うように、静かに会場を抜け出し、凛とした足取りで非常階段へと向かった。

 あの深いグリーンの裾が視界の端をかすめた瞬間、顧知微の心臓が激しく跳ねた。

 骨の髄に刻まれた本能に突き動かされるように、顧知微はグラスをテーブルに置いた。周囲の同僚たちの怪訝な視線に構う余裕もなく、ドレスの裾をつまんで足早にその背中を追った。

 静まり返った長い絨毯の廊下を抜けると、宴会場の地響きのようなオーケストラの演奏は背後へと遠ざかっていった。

 見覚えのある背中を追い続け、知微は廊下の突き当たりにある化粧室前の大理石のフロアで、ハッと足を止めた。冷たい白色のブラケットライトが鏡のような床を照らし、周囲には人影ひとつなく、ただ細い配水管の音だけが微かに響いていた。

 何もない手洗い場を見つめ、顧知微は悔しそうに下唇を噛んだ。自分は一体何をしているのだろう。ストーカーのように後を追ってきて、まさか飛び込んでいって「最近どうですか」とでも聞くつもりだったのか。

 半歩後ずさり、宴会場へ引き返そうとしたその瞬間、トイレのドアが「カチャリ」と音を立てて内側から開いた。

 許嵐枝が、静かに歩み出てきた。

 視線が、真正面からぶつかり合った。

 逃げ出そうとした足が、そのまま凍りつく。

 空気は一瞬にして完全に静止した。

 顧知微の全身の毛穴が逆立つようだった。心の内をすべて暴かれた侵入者のように、その瞳に極度の動揺と狼狽が走る。息を呑むと同時にドレスの裾を握り直し、反射的に踵を返して逃げ出そうとした。

「顧知微」

 背後から響いたのは、低く冷ややかな、けれど微かに掠れた声音だった。見えない縄のように、その声は知微の足をその場に縫い止めた。

 ヒールの足音が絨毯を踏みしめ、背後から近づいてくる。許嵐枝は数歩で彼女の前に回り込むと、迷わず手を伸ばし、知微の細い手首をぎゅっと掴み取った。

 掌の温度は相変わらず微かに冷たかったが、振り払うことのできない力強さがあった。

 許嵐枝は見下ろすように彼女を見据え、深いグリーンのドレスが荒い呼吸に合わせて上下していた。その迫力に、知微はまともに視線を合わせることすらできない。

「どうして逃げるの?」許嵐枝の声は低く、咎めるようでありながら、どこか極限まで押し殺した溜息のようにも聞こえた。「一晩中ずっと私を見ていたくせに、私が出てきた途端、逃げ出すの?」

 見透かされた恥ずかしさに、顧知微の耳の付け根が一気に熱くなった。いたたまれずに顔を背け、磨き抜かれた大理石の台の上に視線を泳がせながら、ドレスのドレープを指先で握りしめ、拙い言い訳をとぎれとぎれに口にした。

「に……逃げてなんかいません。ただ……化粧を直そうとしたら、口紅をなくしたことに気づいて。フロントに届いていないか聞きに行こうと……」

 穴だらけの言い訳だった。知微は今夜ほとんど何も口にしておらず、唇の赤みが落ちているわけでもなかった。

 激しい動揺を隠せないその顔を見つめ、知微の手首を掴んでいた許嵐枝の指先がかすかに震えた。

 わずかな沈黙の後、許嵐枝はその手を離した。いつものように冷ややかな皮肉を浴びせて立ち去るのだろうと知微が身構えたその時、許嵐枝はおもむろに手元の小さな黒いクラッチバッグを開け、中からゴールドのリップスティックを取り出した。

「カ」と小さな音が響く。

 ダークゴールドのキャップが外され、微かに潤いを帯びたクラシックな赤が繰り出された。

「こっちへ来て」許嵐枝の声は波立たず平穏だったが、拒絶を許さない命令の響きがあった。

 顧知微は呆然と見つめたまま、足元に鉛を流し込まれたように動けなかった。

 許嵐枝はそれ以上言葉を重ねず、自ら半歩踏み込んだ。二人の距離は一瞬にして極限まで縮まり、あの冷涼なシダーウッドの香りに微かなアルコールの匂いが混ざり合って、顧知微を包み込んだ。

 許嵐枝は左手を伸ばすと、その冷たい指の腹で、あまりにも自然に顧知微の小さな顎を支え、わずかに上を向かせた。

 知微は無理やり顔を上げさせられる形になった。

「動かないで」

 許嵐枝が低く囁き、右手のリップスティックを構えてわずかに身を屈めると、震える知微の唇へと極めて慎重に先端を当てた。

 冷たく潤った感触が唇の上にほどけていく。許嵐枝の手つきは信じられないほど緩やかで、知微の薄く整った輪郭をなぞるように少しずつ滑り、上唇の山から口角へと、まるで計り知れない価値を持つ壊れやすい白磁を修復するかのように、隅々まで丁寧に色を乗せていった。

 知微の頭は一瞬で真っ白になり、息をすることさえ忘れていた。

 あまりにも近すぎた。許嵐枝の温かな吐息が何度も頬を掠め、伏せられた長いまつ毛が瞼の下に落とす震える影まで、はっきりと見て取れるほどに。

 知微の心臓は胸の中で狂ったように警鐘を鳴らしていたが、その激しいときめきの底から込み上げてきたのは、底知れぬ絶望と苦い痛みだった。

 あの大雨の山小屋の夜が忘れられない。唇が触れ合いそうになったあの瞬間、許嵐枝の瞳に宿った恐怖にも似た拒絶と、容赦のない突き放しは、今も知微の胸を刺す棘のまま残っていた。知微はずっと、許嵐枝のように誇り高く冷徹な人間は、根底で同性同士の情愛を受け入れられないのだと思い込もうとしていた。あの山小屋での拒絶は、同性の親密さに対する生理的な拒否反応なのだと。

 受け入れられないのなら、どうして今、こんな胸を引き裂くような優しさで自分を弄ぶのか。

 目頭がじわりと熱くなり、顧知微は赤くなった目を伏せて、この息の詰まる甘美さから逃れようと顔を背けかけた――。

 だが、その刹那、知微の視線は許嵐枝の瞳を捉えた。

 呼吸が、完全に止まった。

 普段は深い淵のように静まり返り、どんな波風にも揺らぐことのなかった瞳が、今は涙に薄く潤んでいた。

 化粧室の照明を浴びて、涙はきらきらと細かく光を反射していた。零れ落ちる寸前のところまで溜まっていながら、許嵐枝は奥歯をきつく噛み締め、赤くなった目元を歪めて、必死にそれをこぼすまいと耐えていた。

 それは拒絶でも、嫌悪でもなかった。

 どこまでも深い、苦痛と悲哀の色だった。

 顧知微はその場に縫い止められ、胸中に凄まじい激震が走った。

 その砕け散りそうな眼差しから意識を引き戻す間もなく、許嵐枝はリップスティックを引いていた。

 だが、顎を支えていた手は離れなかった。

 許嵐枝は伏し目がちに右手の親指を上げると、その細く冷たい指の腹を、赤く彩られたばかりの知微の唇にそっと重ねた。極めてゆっくりとなぞりながら、輪郭の赤を薄く馴染ませ、ぼかしていく。

 指先の力は羽のように軽かったが、胸が締めつけられるほどの執着と震えを宿していた。

 親指は唇の山から下唇の柔らかな中央へと滑り、何度も何度も名残惜しそうに留まりながら、顧知微だけの温もりと柔らかさを貪るように、わずかも離れようとしなかった。

 ――もしかしたら、この人は私を愛しているのかもしれない。

 知微は強欲にも、そう思ってしまった。

 けれどあの日も、彼女はそう賭けたのだ。許嵐枝が自分を好きでいてくれるはずだと、本当にあの山に置き去りにするはずがないと賭けて、何時間も待った末に、自分の思い上がりを知った。それなのにその夜、彼女は命の危険を冒して戻ってきた。

 これは一体、何なのだろう。

 許嵐枝は最後まで、その涙の膜を一滴の雫として零すことはなかった。

「……できたわ」

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