第3話 迷宮の能面、あるいは勝負メイクの真髄
「はぁ……はぁ……っ、くそ。アイラインって、なんでこんなに引くのが難しいんだよ」
『枯れ井戸の迷宮』の地下一階。魔物の気配が途切れた、少し開けた小部屋の隅で、俺は手鏡を片手に悪戦苦闘していた。
手元のスマートフォンでカクヨムライブの配信画面を確認する。
同接数は――現在、ぴったり「5」。
さっき一瞬だけ8人に増えたが、スライムを倒した後の地味な移動パートで飽きられたのか、いつもの固定メンバー(?)に戻ってしまっていた。
だが、今の俺にリスナーの増減を気にする余裕は一ミリもない。
画面の横で流れるコメントは、相変わらず俺の不器用な手つきを肴にして盛り上がっている。
『梓、さっきから見てるけど、そのアイライナーの持ち方は完全に武器のそれなんだよな』
『わかる。筆じゃなくて暗殺用のクナイでも握ってるみたい』
『ってか、スライムの粘液で袴がドロドロのまま化粧直ししてるの、控えめに言って絵面が地獄だぞww』
「うるさい。ドロドロなのは仕方ないだろ。それより見てくれ。これ、さっきよりはマシになったんじゃないか?」
俺はカメラに向かって、ぐいっと顔を近づけた。
鏡を見ずに塗りたくってピエロのようになっていた赤いリップをティッシュで拭き取り、美容系動画の記憶を必死に手繰り寄せながら、今度は慎重に塗り直した。
さらに、一番の難関だったアイラインだ。
俺の目は、男にしては珍しい切れ長の一重まぶた。そのままではどうしても不機嫌な男の顔に見えてしまう。だから、目尻のラインをほんの少しだけ上に跳ね上げるように描いてみた。
手が震えて、右目は少し太くなってしまったが、左目は奇跡的に綺麗に引けたと思う。
その瞬間、頭の中に再びあの無機質な声が響いた。
【固有スキル『コスプレ・ジョブ』、女装クオリティを再評価します】
【メイク完成度:やや改善(28点 / 100点)】
【総合女装クオリティ:E+(微増)】
【ステータス補正:全能力値 +1.5倍 ➡ +1.6倍】
【ジョブスキル『破邪の矢』の弾道補正が微増しました】
「よし……! 1.6倍! 微増だけど、さっきより確実に上がってる!」
体の芯から、じわりと熱い力が湧き上がってくる。
まるで、自分の体の内側にある魔力の回路が、少しだけ太くなったかのような感覚だ。
今なら、さっきのスライムよりももっと強い魔物が相手でも、落ち着いて立ち回れる気がする。
『お、なんかログで「やや改善」って出たぞ』
『マジか。あの海苔みたいな眉毛と、はみ出しリップから比べたら、確かに「人間に近づいた」感はあるな』
『でも、やっぱりまだ不気味の谷の住人なんだよなぁ……w』
「不気味って言うな! これでも必死なんだよ。骨格が細いからって、何もしなけりゃただの男なんだからな」
俺は自嘲気味に笑いながら、立ち上がって巫女服の袴についた埃をパンパンと叩いた。
細身の体に合わせたこの安物の巫女服。確かに生地は薄いし、男が着るには胸元や肩幅が窮屈だが、ステータスが1.6倍になっているおかげで、体の重さはほとんど感じない。
むしろ、これまで万年Dランク探索者として、重い鉄の剣を無理やり振り回していた時よりも、ずっと体が軽やかだ。
「……さて。それじゃあ、この小部屋の奥に進むぞ。たぶん、この先がこの階層の最奥だ」
俺はドローンカメラを引き連れて、薄暗い通路を奥へと進む。
枯れ井戸の迷宮は、地下一階だけの短いダンジョンだ。つまり、この通路の先にある部屋には、ここのボスがいる。
カツ、カツ、と慣れない草履の音が静かな通路に響く。
緊張で、喉がからからに渇いていく。
いくら初心者用ダンジョンとはいえ、ボスはボスだ。
普通のDランク探索者なら、二、三人のパーティーを組んで挑むのがセオリー。それを、俺はたった一人、しかも1.6倍の補正しかかかっていない即席の巫女姿で挑もうとしている。
『おいおい、本当に一人で行くのか?』
『さすがに無謀じゃね? 武器、その安物の弓だけだろ?』
『梓、危なくなったらすぐ逃げろよ。お前のそのピエロメイクを、病院のベッドの上で見たくないからな』
「逃げるつもりはないよ。俺は今日、ここで勝って、配信者として、探索者としての一歩を踏み出すんだ」
通路を抜けた先。そこは、天井からわずかに光が差し込む、広々とした円形の部屋だった。
部屋の中央、大きな瓦礫の上に、そいつはいた。
――『ジャイアント・ラット』。
大人の背丈ほどもある、巨大な鼠の魔物だ。
薄汚れた茶色の毛皮に覆われた巨体。赤く光る瞳が、侵入者である俺を捉えた瞬間、ギチギチと鋭い前歯を鳴らして威嚇してきた。
「でかいな……」
思わず、足がすくみそうになる。
今までの俺なら、間違いなくここで踵を返して逃げ出していただろう。
だが、今の俺の背後には、ドローンカメラがある。
そして、その向こうには、俺の無様な姿を見届けてくれている5人のリスナーがいる。
『出た、ジャイアント・ラットだ!』
『Eランクのボスだけど、初心者がソロで勝てる相手じゃないぞ』
『梓! 逃げろ! 弓なんかじゃあいつの毛皮は貫けない!』
「いいや、貫いてみせる」
俺は弓を構え、矢をつがえた。
ギチギチギチ、と弦を引き絞る。
全身に巡る1.6倍の魔力。それが、俺の指先を通して弓矢へと流れ込んでいく。
さっきスライムを倒した時よりも、明らかに矢に宿る光が強い。
「ジョブスキル――『破邪の矢』!」
ピシュッ! と鋭い風切り音を立てて、光の矢が放たれた。
狙うは、ジャイアント・ラットの額。
ギィィィッ!?
矢は正確にラットの眉間を捉えた。しかし、ボスの肉厚な頭蓋骨と硬い毛皮に阻まれ、深く突き刺さる手前で光の粒となって霧散してしまった。
ダメージは与えたものの、致命傷には程遠い。
むしろ、攻撃されたことでラットは怒り狂い、その巨体を揺らしながら、猛烈な勢いでこちらへと突進してきた。
「くっ、速い!」
ドスドスと地面を揺らす足音。
俺はすぐさま右側へと飛び込んだ。
巫女服の長い袖がひらりと舞い、ラットの巨体が俺のいた場所を通り過ぎて、背後の壁に激突する。
ドガァァン! と、大きな衝撃音が響いた。
「はぁ、はぁ……っ! あぶねぇ!」
避けた衝撃で、地面を転がった俺の頭から、再び嫌な感覚が伝わってきた。
――ウィッグが、ズレた。
それだけじゃない。転んだ拍子に、床の埃が顔につき、せっかく時間をかけて直したメイクが完全に崩れてしまったのを感じた。
【警告:女装クオリティが著しく低下しています】
【メイク崩れ、衣装の汚れ、ウィッグのズレを検知】
【ステータス補正:+1.6倍 ➡ +1.1倍】
「がはっ……!?」
全身の力が、急激に抜けていく。
さっきまで羽のように軽かった体が、まるで鉛でも埋め込まれたかのように重くなった。
これが、このスキルの最大の弱点だ。
少しでも「女性らしさ」を損なうような事態になれば、バフは一瞬で剥がれ落ちる。
『あ、梓! ウィッグが!』
『今度は左側にズレてるぞ! 完全に中身の男が出てる!』
『補正が落ちたんだな!? 体の動きが全然違うぞ!』
『おい、ラットがこっちを向いた! 梓、立て! 逃げろ!』
「くそっ、立て、俺の足……!」
ラットが壁の瓦礫から身を起こし、再びこちらを睨みつけている。
その赤い瞳には、獲物を確実に仕留めるという明確な殺意が宿っていた。
距離は、約十メートル。
ラットが最高速度で突っ込んでくれば、今の俺の重い体では、避けることはできない。
矢を構える時間もない。
(どうする? ここで終わりか? 結局、俺は女装をしても、最弱のまま死ぬのか?)
いや、違う。
俺は、変わりたいからここに来たんだ。
恥もプライドも捨てて、美少女になるって決めたんだ。
「……舐めるなよ。これくらいで、俺の『美への執着』が折れると思うなよ!」
俺は、懐から再び手鏡とリップを取り出した。
ラットがこちらに向かって走り出すのが見える。
時間にして、わずか数秒。
その数秒の間、俺はラットから一切目を逸らさず、右手で手鏡を掲げ、左手でリップを握りしめた。
そして、自分の唇に、これまでの人生で一番の集中力を込めて、真っ赤な色を乗せていく。
はみ出さないように、丁寧に、かつ素早く。
さらに、空いた右手で、ズレたウィッグを強引に引き戻し、額にかかる前髪の位置を完璧に整えた。
美容系動画で見た、あの言葉が脳裏に蘇る。
――『メイクは、自分を強くするための武装である』。
「そうだ、これは武装だ。俺が戦うための、最強の鎧なんだよ!」
俺が唇を引き結び、ウィッグを固定したその瞬間。
脳内のシステムログが、かつてないほどの輝きを放ちながら、ログを更新した。
【女装クオリティ:再計算中……】
【土壇場での「美」への執着、および所作の改善を検知】
【総合女装クオリティ:Dランク(上限突破)】
【ステータス補正:+1.1倍 ➡ +1.9倍!】
【ジョブスキル『破邪の矢』が『破邪の光矢』へと進化しました】
「うおおおおおっ!」
全身に、これまでにないほどの膨大な魔力が駆け巡る。
1.9倍。
それは、俺が元々持っていた、ゴミのようなステータスが、ほぼ「二倍」になったことを意味していた。
目の前に、ラットの巨大な牙が迫る。
だが、今の俺には、その動きがまるでスローモーションのように見えた。
「――遅い」
俺は、最小限の動きでラットの突進を横に避けた。
ひらり、と巫女服の袖が美しく宙を舞う。
その動きは、男のそれではなく、まるで舞踊を踊る巫女そのもののようだった。
ラットが俺の横を通り過ぎる、まさにその瞬間。
俺はすでに、弓を限界まで引き絞っていた。
弦の上に宿るのは、ただの光の粒ではない。
眩いばかりの白銀の光を放つ、一本の太い矢だ。
「消えろ、魔物。これが、俺の『勝負メイク』の威力だ!」
ドォォォン!!
至近距離から放たれた『破邪の光矢』は、ジャイアント・ラットの巨体を、側面から完全に貫いた。
光のエネルギーがラットの体内で爆発し、魔物は悲痛な叫び声を上げることもできず、その場に崩れ落ちた。
そして、光の粒子となって、ゆっくりと消滅していく。
残されたのは、床に転がる、普段のスライムよりも一回り大きな魔石だけだった。
「はぁ、はぁ……。勝った……のか?」
静まり返ったボス部屋で、俺は自分の手を見つめた。
震える手には、まだ安物の弓が握られている。
だが、その指先には、確かな勝利の感触が残っていた。
『……え?』
『う、嘘だろ?』
『ジャイアント・ラットを、一撃で倒した……?』
『梓……お前、今の動き、めちゃくちゃ格好良かったぞ。……いや、可愛かったって言うべきか?』
スマホの画面に流れるコメント。
同接数は――いつの間にか「6」になっていた。
たった一人増えただけだ。
けれど、その数字が、今の俺にはたまらなく愛おしかった。
「みんな、見てくれたか? これが、俺のスキルだ。……女装のクオリティが高ければ、俺はこんなに強くなれる」
俺は、ドローンカメラに向かって、少しだけ息を切らしながらも、会心の笑みを浮かべてみせた。
ウィッグから覗く、俺の切れ長の一重まぶた。
そこに引かれた、少しだけ跳ね上がったアイラインは、汗でにじむこともなく、しっかりと俺の目を「美しく」見せていた。
『梓、お前……ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、美少女に見えたぞ』
『悔しいけど、今の笑った顔はドキッとした』
『おい、俺たちの脳を破壊するなww』
「ふっ、嬉しいこと言ってくれるじゃん。でも、俺の女装はこんなもんじゃない。次はもっと高い衣装と、もっといいコスメを使って、お前ら全員を惚れさせてやるからな」
俺は魔石を拾い上げ、懐のポーチに仕舞った。
まだまだ、俺の理想とする「美少女(最強)」には程遠い。
だけど、この一歩は、俺の人生において、何よりも価値のある一歩だった。
「よし、それじゃあ配信を終わろうか。初配信、見にきてくれた5人……いや、6人のみんな、本当にありがとう。また次の配信で会おうな」
俺は、配信終了のボタンを押した。
画面が暗くなり、静かになった自室のようなダンジョンの中で、俺は改めて、自分の顔を鏡に映した。
能面のような厚塗りメイクに、歪んだ眉。
まだまだ不格好で、お世辞にも「完璧な美少女」とは言えない。
それでも。
俺の探索者としての人生は、この恥ずかしさと、美しさの狭間で、確かに輝き始めていた。




