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何者でもなかった日々

虫の声すらしない、異様に静かな夜の森。


そこに、乱れた呼吸音だけが響いていた。




一歩でも遠くへ。


少しでも追手との距離を稼ぐため、湿った森の土を踏みしめる。




逃げていた。




選ばれなかった俺が、選ばれた君を連れて。


使命から。責任から。




この世界は、ただの少女だった彼女に、あまりにも重いものを背負わせてしまったから。





――――――――――――――





「レオ、早く行くぞ。エリを待たせるだろ」




森に囲まれた、何もない辺境の村。


そこで俺たちは農作業を終え、川で水浴びをしていた。




「分かってる」




そう答えながら、指と爪の間に入り込んだ泥まで丁寧に落とす。




「遅い」




「ハルトが早すぎるだけだろ。それじゃ浴びてないのと一緒だ」




ハルト。


二人いる俺の幼なじみの一人だ。




「ふん。俺が早すぎるとしても、レオは遅すぎるぞ。そんなにのんびりしてたら魔物に食われる」




「うっせー。ガキじゃないんだから、そんな脅し効かねぇよ。……よし、終わった。行くぞ」




川から上がり、ハルトの隣まで歩く。




それから他愛もない話をしながら村へ戻り、いつもの場所へ向かった。





「あ、来た」




村で一番大きな木の下。


俺たちに気づいたエリが、スカートについた草を払いながら笑った。




「レオがおかしなこと言う。戦いを好んでする奴は馬鹿だと」




「ね。それだとハルトが馬鹿ってことになっちゃうもんね」




そう言って、エリはくすくすと笑う。




村の連中は、エリのことを美人だ、気立てもいい、明るいと口を揃えて褒める。


俺も特に異論はなかった。





「エリまで酷いな」




「ごめんって」




エリはハルトのことが好きだ。




彼女の態度を見ていれば、誰だってそう思う。


そしてハルトもまた、エリを好いている。




俺たちは木陰に腰を下ろした。


ハルトを真ん中に、俺とエリが両側から挟む形になる。




「長老の話だと、来年は麦畑の一部を休ませるんだって」




「また飯の量が減るのか……」




珍しくハルトが肩を落とす。




「って言っても、お前らは食うには困らんだろ。俺は叔父さんと飯の量を交渉しなきゃならんしな」




「「えっ、まだレオ、食べる量まで叔父さんと交渉しなきゃいけないの? 八年も経つのに?」




「まだ俺はよそ者扱いだよ。俺もハルトみたいに腕っぷしがありゃな」




「ならばもっと鍛えねばな。レオはひょろ過ぎる」




「俺は知能労働が専門なんだよ。この村では役立ってないけど」




俺の言葉にエリは困ったような顔をし、ハルトはため息をつく。




「で、でも行商人との交渉はすごい仕事だよ? 都市から離れたこの村じゃ、行商人は命綱なんだから」




エリが俺をかばってくれる。


ふと、彼女が村で初めて声をかけてくれた事を思い出す。


だが、商人との交渉は俺の実力じゃない。




「だろ?俺もそう思う」




「もう、レオはすぐ調子に乗るんだから」




行商人には交渉のやり方など、様々な分野で指導されているのが実情だ。


十五になれば手加減せずもっと詰め込むと言われているため、内心少し焦っている。


この話になるとハルトが詰まらなさそうな顔になるので話題を変える。




「だけど、来年の冬は厳しいかもなー」




「また始まったぞ。レオの先の心配」




ハルトが呆れたように言う。




「来年こそ本当にきついぞ。収穫量は下がるし魔神軍との戦争で税は上がるからな。今はこの村もかなり裕福だけど、それがずっと続くとは限らないんだぞ」




「先のことなんて、その時になって考えたらいい。来年、この村があるかも分からんしな」




そう言って、ハルトは東へ視線を向ける。




村の東にはスズライ帝国との国境、南東には聖国との国境があった。




俺は前々から考えていたことを口にする。


「この村は危険であふれてるんだよなー。今が平和なだけで」




「それはちょっと言い過ぎじゃない?」




「そんなこともないさ」




少し間を置いて、俺は二人を見る。




「だからさ、この村出ない?」




「無理だ」




「私もちょっと……」




「だよなー」




俺はそう言って、西の丘へ目を逸らした。




ハルトは武道大会で優勝したことで、皇国直属の騎士団から声を掛けられている。


まだ成人していないため、十五になるまで待ってもらっている状態だ。


今さら、その約束を無下にすることはできない。




そしてエリは――ハルトがこの村にいる限り、出ていくことはないだろう。




「ん? 何か来るな」




不意にハルトが畑の向こうにある森を指差した。




「何も見えねぇぞ」




「いや、木が邪魔で見えにくいが、確かにいる。それもかなりの数だ」




そう言われ、目を凝らす。




木々の隙間に、何かが揺れていた。




「あれは……皇国騎士団の旗だ」




ハルトが断言する。




「まあ、北から来たんなら方角的にはおかしくないが」




「でも帝国へ行くなら東進道を通るはずなのに。なんでこっちに来るんだろ?」




エリが首を傾げる。




「物資の調達じゃないか?」




「それじゃ、なんでこの村なの?」




「そこは考えても仕方ないよ。さ、騎士団が村に着く前に戻らないとな。あいつらの機嫌を損ねたら、どうなるか分かったもんじゃない」




「同感だ」




ハルトが立ち上がる。




俺たちはそこで解散し、それぞれの家へ戻った。




日常を壊す足音が、近づいていることも知らずに。


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