五 : 小さくとも立派な輝き
時は移り、慶長六年〈一六〇一年〉十一月。若狭・小浜。普請現場に高次の姿はあった。
槌音や鉋掛けの音、削った木や掘り起こされた土の匂いに包まれる現場で、肌や服を砂埃や汗で汚しながら忙しそうに立ち回る高次。その表情は実に活き活きとしていた。
若狭国主となった高次がまず始めに取り掛かったのは、政庁である居城の移転だった。嘗て若狭を治めた武田家の守護館だった後世山城は典型的な山城で、守りが堅い反面で城下町は手狭で時代遅れと言わざるを得なかった。八幡山・大津と栄えた商業地を治めてきた高次は、小浜湾に近い三角州の雲浜に新たな城を築く事を決定。北川と南川を濠の代わりとし、海も含めて敵の侵入を阻む守りにも重きを置いた造りとした。この点、天下普請で築かれた城の主を務めてきた高次の経験が反映されている。
移封直後に大掛かりな事業を行う事に京極家の財政負担や領民の反発を懸念する意見も出たが、「今より必ず良くなる、便利になる」と高次が説得。町や村の長老達にも高次自ら説明したのもあり、民達から不満の声は上がらなかった。今では「自分達の手で新しい町を作る」と誇りを抱いて働いてくれている。
「皆さーん、ご飯ですよー」
遠くから女性の声が聞こえた。その呼び掛けで昼餉の時間かと高次は気付かされる。
女性達が作業する者達に握り飯を配り始め、飯炊き場には汁物やおかずを求める列が並び始めている。温かい食事に顔を綻ばせる光景があちこちで見られる。
「いつも済まないな」
陣頭に立つ女性へ声を掛ける高次。その相手は誰でもない、正室の初だった。
「いえ、皆様が一生懸命働いて下さるのですから、少しでもお手伝いしたいです」
そう言って、照れたように微笑む初。
高次が新しく城を造ると打ち明けると、初は一も二もなく協力を申し出てくれた。炊事だけでなく洗濯や負傷者の世話など甲斐甲斐しく支えてくれている。初が現場に出てくる時は薄化粧で簡素な着物に襷掛けという軽装だが、城の中に居る時よりもずっと美しく高次の目に映る。実際、初達が現場へ手伝いに来るようになってから、皆さらに熱を入れて働いてくれるようになった。
京極家試練の時以来、高次と初の距離はグッと近くなった。お互いに遠慮せず忌憚なく話せるようになったのが大きい。子こそ成していないが、仲睦まじい関係は継続している。
初から握り飯を受け取ると、高次は何かを思い出したように言った。
「そうだ。翁から手紙が来ていたぞ」
翁は大津城落城後、再び山科に隠遁した。以前と変わらず歌を詠んだり本を読んだりして、悠々自適に暮らしているらしい。
「まぁ。何と書かれてましたか?」
「近況について軽く触れていたのと、『加増おめでとうございます』と祝ってくれた。相変わらず息災な様子で安心したわ」
先月、高次は若狭に加え近江国高島郡の一部七千百石を加増された。昨年十月の対面の折に家康から『この埋め合わせは必ず行う』という約束は守られた事になる。翁がその情報をどこから聞いたのか分からないが、その交友関係の広さや情報網には驚くばかりだ。
包みを開いた高次は、握り飯を頬張る。塩味が効いていてとても美味しい。汗を流した体に沁み渡る。頬を撫でる風も気持ちいい。
昼の食事休憩で、現場は作業時とはまた違った賑やかさに包まれていた。お喋りをして、ご飯を食べて、そして笑って。その光景を見て、高次は感慨深くなる。
「……あれから、一年しか経ってないんだな」
「はい。もっと前のように感じますね」
何気なく呟いた高次に、初も同意するように応じる。
失った誇りを取り戻す為に戦い、武運拙く敗れ、そして欲しかったものを手に入れた。今では高次のことを誰も“蛍”と馬鹿にしない。一人の武士として認められたのだ。周りから見れば自分は成功者なのかも知れないが、高次はそう思わない。自分の為に多くの人が傷つき、命を落とした。その事実と死ぬまで向き合うつもりだ。高野山に上って以来日課となっている朝の読経を今日に至るまで欠かさず続けているのがその証拠だ。
「初」
言うなり、初の手を取る高次。
「私は、領民達や家臣達を幸せにしたい。自慢の殿様と呼ばれるよう、精一杯頑張るつもりだ。……付いてきて、くれるか?」
「はい。どこまでも、側に居ます」
答えると、初は高次の手に自らの手を重ねる。その表情は、どこか誇らしげだった。
慶長十四年〈一六〇九年〉五月三日、高次は四十七歳で死去した。京極家の家督は嫡男の忠高が継いだ。小浜城並びに城下町の作事は引き続き行われたが、寛永十一年〈一六三四年〉に京極家と所縁のある出雲・隠岐二ヶ国二十六万石へ加増転封となり、その完成を見届ける事は適わなかった。京極家の次に若狭国主となった酒井忠勝が事業を引き継ぎ、寛永十九年〈一六四一年〉に小浜城は完成。以降、酒井家の居城となる。
高次の跡を継いだ忠高も寛永十四年〈一六三七年〉に四十五歳で急死。嗣子が居なかった事から改易も検討されたが、高次の功績を考慮され大幅な減封という形で存続が認められ、取り潰しは免れた。家康は元和二年に鬼籍へ入っており、この時の将軍は家康の孫・家光である。それにも関わらず四十年近く前の働きが決定に影響を与えるのは、関ヶ原の戦いで如何に高次が徳川家へ貢献していたかが窺えるかと思う。
関ケ原の戦いで大封を得た大名家も、二代三代と時代が進むにつれ改易の憂き目に遭った例は珍しくない。そんな中でも京極家は明治を迎えるまで系譜を繋いでいる。
閨閥で出世を重ねてきた事から“蛍”と馬鹿にされた京極高次。彼が見せた一分は、子々孫々まで語り継がれるであろう“輝き”ではなかろうか――。
(了)