第1章(その1)
「リュテカ・モン=ヘルベール中尉、出頭致しました」
重厚な黒檀の大きな扉の前で、リュテカは敬礼して言った。
しかし、中から返事はない。扉の右に立つ若い衛兵が、敬礼して答える。
「最高司令官閣下は只今席を外しております。中尉殿には中に入って待つようにとの、閣下の伝言です」
何だ、それを先に言ってよ、とリュテカは思ったが、王都アルツィオラの、しかも陸軍司令本部で、衛兵にいちゃもんつけるような度胸は、彼女にはない。リュテカはちょっと不満げに唇をとんがらせただけで、その衛兵が押し開いた扉の内へ、足を踏み入れた。
リュテカがこの部屋に入るのは、確か二度か三度目だが、彼女の父フェルド・モン=ヘルベールが最高司令長官の任にあった時には一度も入れてもらったことはない。リュテカが初めてこの部屋に入ったのは、陸軍士官学校を卒業した挨拶の時で、その時には最高司令長官は、父の親友のゴルディアクに代わっていた。
それにしても、とリュテカはここに入るたびに思う。この部屋は重厚で威厳はあるが、不必要に広くて寒々しく、少なくとも居住空間としては全く不適当だ。
部屋の正面には、赤黄赤の縦縞に、鷲と獅子と竜が王冠を取り囲んでいる王家の紋章があしらわれた、モンティバル王国国旗が掲げられている。その下に、扉や柱と同じ黒檀製の大きな執務机がある。さらにその前には、牛皮のソファに黒檀のテーブルという、最高級の応接セットが置かれている。壁には歴代の陸軍最高司令長官の肖像画がずらりと並べて掲げられており、冷やかに入室者を見下ろしている。確かに立派だが、白々しく、空々しい。そして、何とも陰鬱だった。あのゴルディアクのおじ様が威厳ぶったしかつめらしい顔付きでこの正面の執務机に座っている図は、想像するだけでおかしくもあり、なんとなく可哀そうでもあった。
リュテカは不意にギョッとした。自分の右側で、白いものが蠢いたのだ。
よくよく見れば、それは鏡だった。扉の右手の壁に大きな鏡があって、そこに上下そしてマントも真っ白なモンティバル王国軍の軍服に身を包み、やはり白のベレーの軍帽を左脇に抱えた自分の姿が映っていたのだ。人はみな美しいだの可愛いだのと褒めてくれるが、自分では「ブロンドのたぬき」だと思っている顔も、当然そこに映っている。
前にこの部屋に来た時にはこんな鏡はなかった。当然ゴルディアクの指示で付けられたのだろうが、一体どういう訳で…。
リュテカはまたギョッとした。
その鏡には応接セットの一隅も映っているのだが、そこに、もうひとつ別の何やら白いものが蠢いていたのだ。リュテカの位置からは、それはちょうどこちらに背を向けているソファの向こう側なので、肉眼では見えない。リュテカはしばしその鏡の中の蠢くものを凝視した。それから、恐る恐るそのソファの方へ近づいてゆき、向こう側を覗き込むようにして、その「蠢くもの」に声を掛けた。
「あの、ここで何をしていらっしゃるんですか」
それはあまりにも、このモンティバル陸軍最高司令長官室に似つかわしくないものだった。
それは、小柄な、白髪の、ショールを羽織った老婆だった。
老婆は編み物をしていた。ソファの下に足が届かないほど、老婆はちんまりとした体躯だった。その足の下で毛糸玉が、老婆が編み棒を動かすたびに、クルクルとダンスを踊っていた。
しかし老婆は、リュテカの問いに答えるどころか、リュテカの方を見ようとさえしないで、編み物を続けている。
「質問に答えなさい」無視されてムッとしたリュテカは少し声を尖らせる。「編み物をやめなさい」
リュテカが老婆の編み物を編む手に自分の右手をのばしたのと、老婆が不意にリュテカの方を見たのが同時だった。
リュテカは慌てて手を引いた。一瞬、その老婆のまなざしに、全身が吸い込まれるような錯覚を覚えたのだ。老婆の瞳は、リュテカがそれまで見たことのない深く神秘的なエメラルドグリーンだった。
「綺麗な目をしているね」しかし、そう言ったのは老婆の方だった。「あたしんちのそばのシェーネル湖の水もあんたの目の色と同じようなブルーなんだよ。もっともそれは、空が映っているからなんだけどね。ああ、あたしゃいつまでこんな所にいなきゃならないのかね。そろそろシェーネル湖のまわりに山菜がいっぱい芽を出すんでね。早く摘まないと、伸びすぎて硬くなって食べられなくなっちまうんだよ。孫たちがやってくれてればいいけど、あの子たちは山菜と毒草の区別がまだ上手くつかないからね。心配だよ。あんた、将軍様かい?」
「へ?」
リュテカは間抜けな返事をした。老婆が外見の割に若々しく少しかわいらしい声で一気にまくしたてるのに圧倒されてしまっていたのだ。リュテカは慌てて両手を振った。
「いいえ、違います。私はここに出頭を命じられたんです」リュテカはそう言うと、ピッと姿勢を正して、老婆に向かって敬礼した。「リュテカ・モン=ヘルベール中尉であります」
しかしもう老婆はまた編み物に戻っていて、リュテカの方なんか見ていない。直立不動で敬礼しているリュテカの姿は何とも滑稽だった。リュテカは決まり悪げに、敬礼した右手を下ろした。
「あの」リュテカは気を取り直して老婆に声をかける。「お婆さんはどうしてここにいらっしゃるんですか?」
老婆はまたも返事をせず、リュテカのことなんぞ忘れてしまった、いやいや最初からまったく存在していないかのように、せっせと編み物に精を出している。そこでリュテカはようやくハタと思い至って、少し声を大きくして、老婆の耳元近くで言った。
「お婆さんは、どうしてここに…」
「あんた、女の軍人さんかい?」
不意にまた老婆がこちらを向いて言ったので、驚いたリュテカはつんのめってあやうく老婆とキスしそうになった。
「ご、ごめんなさい!」
そう言って慌てて身を引いたリュテカを老婆はジッと見やって、「あたしゃそういうシュミはないよ」
と呟いた。
「まったく、都会だねえ」老婆はさらにブツブツ呟く。「ホント、あたしら年寄りにゃわからないことばっかりだよ。あたしの孫はねえ、いちばん年かさはあんたと同じぐらいの齢だけど、そんなヘンなシュミは持ってないよ。ちゃんと育ててるからね。ましてや軍人になろうなんて、そんな大それた考えを持つなんて。アーシャがもしそんなこと言い出したら、どうしようかね。おお嫌だ。恐ろしい。考えたくもないよ。ああ、アーシャってのはあたしの八歳になる女の孫だけどね。何番目だったっけね。ええと、ラヴァルの三番目の子で、ええと、エドナの所に四人いるし、アスランの所は五人、だから、ええと…」
老婆は指折り数えつつ宙を見やっていたが、やがて諦めたように力なく笑って首を横に振る。
「トシはとりたくないねえ。アーシャが何番目の孫か、忘れちまったよ」
「お孫さん、いっぱいいらっしゃるんですね」
しかしリュテカの声はまたも聞こえなかったようで、老婆はまたせっせと編み物を始めるのだった。仕方なくまたリュテカは大声を出そうと息を大きく吸った。その時だった。
重々しい黒檀の扉が、不意に開いて、金モールのいっぱい付いた黒の軍服姿の、髪も顔の下半分を覆う髭もごま塩の、初老の大柄の男が、その見た目に似合わぬせかせかした早足で入ってきた。
リュテカは慌てて直立不動になって敬礼するが、老婆はせっせと編み物をし続けている。焦ったリュテカは爪先で小さくソファの脚を蹴って老婆に立つよう合図を送るのだが、もちろん老婆はそんなこと気づく様子もない。
男は司令長官の執務机の向こうに立つと鷹揚に敬礼し、「直りたまえ」と言った。リュテカは敬礼していた右手を左手同様ピッと脚の横にまっすぐそろえて直立不動になり、それから心持ち右足を前に出し、両手は腰の後ろに組んだ。その傍らで老婆は編み物を続けているが、男は気にする風もない。
「リュテカ、久しぶりだな」男の声は、これまた風体に似合わぬかん高いものだった。「中尉昇進おめでとう。…もうこちらとは挨拶は済んだかな」
「ハッ、ありがとうございます」リュテカは再び敬礼する。「いえ、まだであります。私は名乗りましたが、こちらのお名前はまだうかがっていません。雑談は少々しましたが」
「よろしい」男は仕草でリュテカに直るよう指示した。「おまえもすっかり軍人らしくなったな。フェルドの奴も喜んでることだろう。さて…ソーナさん。ソーナ・アルヴォラータさん」
名前を呼ばれて老婆は編み物する手をピタリと止め、上目づかいにジロリとそのエメラルドグリーンのまなざしを男に向けた。
「将軍様かい?」老婆はソファに腰掛けたまま言った。「あたしゃ、いつ帰してもらえるのかね。村にいろいろ用事を残してきたまんまなんだよ。牛の乳しぼりもしなきゃならないし、薬草を仕込まなきゃならないし、あたしに診てもらいたがって村の者がいっぱいいるしね。そういうのを、軍隊ってのは保障してくれるのかね。もっとも、いくらお金で保証してもらっても、牛の乳はしぼらなきゃ牛乳にならないし、薬草は仕込まなきゃ薬にならないし、軍人さんたちは村の連中を診てやることは出来ないしねえ。一体、どうしてくれるんだい?」
「まあまあ」男はニコヤカに手を上げて、まくしたてるソーナ婆さんをなだめる。「そうおっしゃらずに、あなたのお力を我が軍に貸してください。もちろん、保障といわず、それ相応のお礼はさせていただきますから」
「で、あんたは何者だい?」ソーナ婆さんはズケズケ言うのだった。「将軍様だって、名前はあるだろ」
リュテカはもう髪の毛が逆立ち全身冷や汗でぐっしょりになりながら、ソーナ婆さんを制しようと手を出しかけたが、それを男は手を振って制止する。
「これは失礼いたしました」男はいかにも度量が広い、といった風の鷹揚な笑みを浮かべて言う。「私はモンティバル王国陸軍最高司令長官、オスヴァル・ヴェル・ゴルディアクと申します」
「長官」ソーナ婆さんは残念そうに言う。「将軍様じゃないのかね」
「階級は陸軍大将ですから」 ゴルディアクは笑い出しながら答えた。「まあおっしゃるように将軍、ですな」
「そうかい」ソーナ婆さんはまたジロリとまなざしをゴルディアクに向ける。「どっちにしろ、ここで一番偉いんだろ。だったら、さっきから云ってるように、早く村に返しておくれ」
「残念ながら」ゴルディアクは一つ咳払いした。「そういう訳にはいかんのです。ソーナさんをここにお連れするよう命じられたのは、実は国王陛下でしてね。我々としても、それに背く訳には参りません」
「へえ、陛下のご命令ねえ…」ソーナ婆さんは再び編み物を始めていた。「だったら、陛下にお会いしたいものだねえ。陛下直々に、そのご命令とやらをお聞きしたいもんだ」
「それは…」ゴルディアクは表情を変えず平然と答える。「陛下もお忙しいですし、宮殿には謁見を賜る者が毎日大勢つめかけていますから、いずれ…」
「どうせ」婆さんはまたジロリとゴルディアクを見やりつつ、編み物する手は休めない。「陛下のご命令って言ったって、ホントは陛下じゃなくて、あんたたちお偉いさんが陛下の名前を勝手に使って自分たちの都合のよい命令を出してるんだろう? 政治家だの軍人だのなんて、みんなそんなもんさ」
リュテカは何だかもういたたまれないような、ここから逃げ出したいような気持でいる半面、この婆さんの恐れを知らぬ物言いに、心の中で舌を巻いていた。この婆さんの十分の一でもいいから、自分にもこういう度胸がほしいものだと思った。
「あっはっはっはっ」ゴルディアクは笑い出した。「さすがにシェーネルの郷にその人ありと知られた方だけのことはありますな。いや参りました。まったくそのとおりですよ」
ゴルディアクは執務机を離れ、例のせかせかした早足でやってくると、婆さんの向かいのソファにどっかと腰を下ろした。ゴルディアクは仕草でリュテカに、自分の隣に座るよう命じた。リュテカはまたピッと姿勢を正して敬礼し、その命に従う。
「ソーナさん」ゴルディアクは婆さんの顔を覗き込むように言う。「陸軍最高司令長官として、改めてお願いします。我が軍にお力をお貸しください」
「嫌だと言ったら」ソーナ婆さんは編み物を続けたまま言う。「殺されるのかい?」