ルルの初恋
優しい手がルルの肌を滑るように下りていく。その手がルルの服の一枚一枚を脱がすたびにルルの心の鎧もはがれていく。舌が肌をなぞると熱いため息が口から洩れる。
はしたない、という思いは快楽の波にのまれて消える。波は絶え間なくルルを翻弄し溺れかけそうになり思わずアギトの掌を掴む。優男風の外見に似つかわしくないごつごつした武骨な手。闘う男の手。
そっと絡ませると、優しく握り返してくる。それだけで泣きたくなるほど嬉しくなった。こんなときでないとルルには手をつなぐということすら出来ない。
はじめてアギトの顔を見たとき、ルルはひどく驚いた。多分表情には出ていなかっただろうけれど。アギトは柔和な笑みを浮かべ、ルルに挨拶をしてきた。はじめまして、と。それを聞いて少し落胆したあとで、当たり前ではないかと自分を嗤う。覚えていてくれるなどとんだ思いあがりだ。こんな薄汚れて面白味もない女。
アギトはすぐに使用人たちに馴染み、楽しそうに働いている。シオンの護衛と武術を教えるのがアギトの仕事で、シオンの朝稽古のときにルルも側につくようになる。シオンを見守るふりをしながら視線がアギトに向いてしまうのを止めることはできなかった。流れるような自然な動作でアギトは剣をふるう。勿論怪我をしないように模擬の剣を使っているが、ついつい見惚れてしまう。
その身のこなしを見ているとルルの心は八年前に飛ぶ。
12歳のルルは娼館に住んでいた。そこは甘ったるいお香が四六時中たかれ、昼も薄暗く、夜は騒がしかったがこれまでの生活からすれば天国のようなところだった。
学校に通うようになったのは姉の勧めだ。自分と同じ仕事にはついてほしくはないから、と寂しそうに笑う姉のためにルルは学校へ通った。学校ではいつも一人だった。娼館に住んでいるということはすでにみんなが知っており、卑猥な言葉や身体を触られたりしたことも一度や二度ではないが、そんな些細なことにかまってなどいられなかった。とにかく自分は身体を売る以外の職につき、姉と二人食べていけるだけ稼ぐことが最重要課題だったから。
いつもは夕暮れ前に娼館に戻っていたのがその日ルルは先生と話し込んでいて帰宅が遅れ、通りを足早に歩いていた。すでに夜の帳が下りている中、通りには酔っ払いや女を買いにきた男たちばかりで、ルルはひどく場違いだった。もう少しで娼館にたどり着く、といったときにルルはいきなり腕を掴まれて、小さく悲鳴を上げる。
「あー、あんた、あの娼館にいる子だろう?」
振り向くと手を掴んでいたのは見知らぬ中年の男。この時すぐに手を振り払えばよかったのだろうがそれをしなかったのは自分のことを知っていそうな口ぶりから。
「何かご用ですか」
ぬらぬらと汗ばんだ手を振り払いたい衝動を抑えながらルルが尋ねる。
「いくら?」
「は?」
ルルの答えに男は顔を近づけてくる。
「いくら払えばいいんだ?」
ようやく男がルルを買おうとしていることに気付き、ルルは唇を噛みしめる。
「わたしは娼婦ではありません」
男の手を振り払おうとすると、男がいきなりルルの口を塞いで羽交い絞めにし路地裏に引っ張り込む。勿論力いっぱい抵抗はしたが、12歳の力ではのしかかってきている男の身体をはねのけることもできない。
「た、助けて!」
足をばたつかせ、男の手から逃れ、声を張り上げるが、自分でも驚くくらい小さくかすれた声しか出ない。
「助けなんか来るか」
にやにや笑う男の言う通り、確かに通りには人が何人かいたが、誰も他人のもめ事に首を突っ込んでくるものはいない。この通りはそういう通りなのだ。
ルルの服がまくりあげられ、男の手が侵入してきて、あきらめにも似た気持ちがルルに広がる。何をされるか分かっているからこその、絶望。
心を殺して、何も感じないように、時間をやり過ごせば。
涙が滲んだが、死んでも男に悟られたくなくて目をつむったそのとき。
「ぐえっ」
くぐもった声が聞こえ、ルルにかかっていた男の体重が軽くなる。
目をあけると男が股間を抑えて苦しんでいる。そしてもう一人、たたずむ少年。
「大丈夫?」
差し出された手を恐る恐るとると、引っ張って立たせてくれる。
「一応聞くけど合意の上?」
少年の言葉にルルは思い切り首を振る。
「なら良かった。こんなとこ歩いてると危ないよ」
「……の、餓鬼ー!!」
「!」
苦しんでいた男がいきなり立ち上がり猛然と少年に突進してきた。
少年はそれをひらりとかわし、どうやったのか分からないが、一瞬男の身体が宙に浮き、地面にたたきつけられる。
「ははっ。綺麗に決まった」
嬉しそうにどこか得意そうにルルを見る少年。
「あ、あの、どうやって?」
「俺、道場通ってるから。結構通用するんだね実際。あ、もう行かなきゃ。こんなとこうろついてたらまた危ないよ?大通りまで一緒に行こうか?」
「あ、いえ、わたしは大丈夫です」
さっと視線をそらす。ここに住んでいることを少年には知られたくなかった。
「ふうん?じゃあ、気を付けて」
少年は笑みを浮かべあっという間にルルの前から去っていく。
その後ろ姿を見送った後で急いで姉の待つ娼館に駆け込む。
「おかえりなさい。遅かったのね」
「う、うん、ただいま」
「どうしたの?顔赤くない?」
「え、そう?」
そんなに長い距離を走ったわけでもないのに胸がドキドキしていた。姉の顔を見て初めて礼を言うことも名前を聞くことも忘れていたことに気付く。
また、会えたときに言おう、とルルは小さく息をついた。
その後、ルルはヴィングラー家で住み込みで働くことになり、現在に至る。
あれから何度も少年に会えないかと道場とやらを探してみたこともあったが、結局は会えずじまいだった。会えないことを残念に思う気持ちはあったが、自分の人生というものはそんなものだろうとルルは諦めていたのでまさかの再会を果たすとはそちらのほうが驚いた。
あの時言えなかったお礼をしたかったのだが、アギトのほうは全く覚えていないようで、今さら口にするようなことでもないような気がして黙っていた。
「部屋で一緒に飲みません?」
酔ったアギトにそう言われたときに、ルルの心臓は大きく跳ねた。
酔った勢いでつい言ってしまったのだろうと分かっていた。ルルを見る目にいつもは全く感じられない熱を持っているのも。それでもルルは頷く。
部屋に入った途端アギトに唇を奪われ息が止まるかと思った。ベッドに押し倒されたときどこかで過去を思い出し、身体が震える。しかしアギトとの行為はルルがそれまで経験したものと全く違っていた。
優しくしないで欲しい。勘違いをしてしまう。玩具のように、道具のように扱ってくれないと溺れてしまう。
身体だけの関係と呪文のように心を縛りながらルルは今日もアギトの部屋を訪れる。
多分もうとっくに溺れている。分かっていても分からないふりをしてアギトに抱かれに行く。
「恋をしたことがあるんですか?」
意外そうな視線を向けて来たアギトに何と返事をしたらいいのかルルは迷う。いつかこの人に初恋の話をする時が来るのだろうか。言えなかった御礼を口にすることがあるのだろうか。最近ではアギトのそばにいると自然に自分が緩んでいるのが分かる。それがいいことなのかは分からないけれど。
裏口の取っ手が音を立てて、ルルはアギトと顔を見合わせる。
背筋を伸ばし、ルルは自分の主人をいつもの笑みで迎えた。
「おかえりなさいませ」




